
鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、政治の中心をあえて都から遠ざけることで、幕府が京都化するのを防ごうとしました。武家だった平家がたちまち公家化、つまり京都化したことが、その滅亡を早める原因の一つになったと考えたからです。
3代将軍・実朝の暗殺によって源氏の正統が途絶え、政権が北条氏に移ってからも、その禁欲的な態度は続きました。京都育ちの将軍が次々に鎌倉にやって来ても、その文化生活は将軍の身辺だけに限り、北条の執権たちは武断に徹し、質実剛健に生きていました。時頼の母である松下禅尼も、障子の切り貼りをして自ら倹約の大切さを示していたといいます。与えられる官位も、従四位より上には進まないようにしました。
ところが、時代が下り、第14代執権の高時のころになると、京都風の娯楽が流行り、食べ物も変わり、礼儀作法もその影響を受けだしました。頼朝には妾(めかけ)は一人もいませんでしたが(妻の政子が怖かったせいもあるでしょうけど)、北条末期になると執権には妾が37人もいて、しかも彼女ら各々に領地を与えるに至りました。
武士にとって、領地は「一所懸命」のものであるはずが、このころには、美人の微笑や色香をもって手に入れることができるようになったのです。また、鎌倉あたりに集まった田楽の俳優の数は、2,000人を超えたともいわれます。高時の闘犬好きは有名で、数千匹の闘犬が鎌倉にいて、三日に一度くらいの間隔で闘犬大会が開かれたといいます。さらに、犬たちには金銀の飾りをつけた衣服を着せて、縮緬(ちりめん)の畳の上で寝かせ、優れた闘犬が街を行進する際は、通行人の武士や庶民に対し、下馬してお辞儀をするよう命じたと伝わります。さらに、犬に「相模守」などの官位や扶持(給与)まで与えたという、いささか誇張混じりの狂気的な逸話も残されています。
【PR】
【PR】

(北条時頼)
→目次へ