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北条末期の京都化

 鎌倉に幕府を開いた頼朝は、政治の中心をあえて都から遠ざけることで、幕府が京都化するのを防ごうとしました。武家だった平家がたちまち公家化、つまり京都化したことがその滅亡を早めたと考えたんですね。

 源氏の正統が途絶え、政権が北条氏に移ってからも、その禁欲的な態度は続きました。京都育ちの将軍が鎌倉にやって来ても、その文化生活は将軍の身辺だけに限り、北条の執権たちは武断に徹し、質実剛健に生きていました。時頼の母である松下禅尼も、障子の切り貼りをして自ら倹約の大切さを示していたといいます。官位も従四位より上には進まないようにしました。

 ところが、時代が下り、第14代執権の高時のころになると、京都風の娯楽が流行り、食べ物も変わり、礼儀作法もその影響を受けだしました。頼朝には妾(めかけ)は一人もいませんでしたが(妻の政子が怖かったせいもあるでしょうけど)、北条末期になると執権に妾が37人もいて、しかも彼女ら各々に領地を与えるに至りました。

 武士にとって、領地は一所懸命のものであるはずが、このころには、美人の微笑や色香をもって手に入れることができるようになったのです。また、鎌倉あたりに集まった田楽の俳優の数は、2,000人を超えたともいわれます。高時の闘犬好きは有名で、数千匹の闘犬が鎌倉にいて、三日に一度くらいの間隔で闘犬大会が開かれたといいます。

鎌倉幕府の滅亡

 鎌倉時代中期を過ぎたころから、朝廷内に「持明院統」と「大覚寺統」の2つの勢力が生まれ、互いに皇位の継承や荘園の所有権を争うようになりました。幕府は1317年に「文保の和談」といわれる調停案を示し、それぞれの統から交互に天皇を出すという「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を定めて事態を収拾しました。そんな情勢の中から誕生したのが、後に幕府をゆるがすことになる後醍醐天皇です。

 大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、天皇による親政の再構築を理想とし、1324年の「正中の変」、1331年の「元弘の変」と2度にわたって倒幕計画を立てました。いずれも事前に幕府に察知され、元弘の変の後、後醍醐天皇は隠岐に流されます。

 しかしその後、当時「悪党」と呼ばれていた武士集団のリーダー・楠木正成が、畿内の勢力を結集して討幕運動を起こしました。後鳥羽天皇の皇子・護良(もりよし)親王は比叡山などの寺院勢力や武士に挙兵を促し、1333年に後醍醐天皇が隠岐から脱出すると倒幕勢力はますます勢いづきました。

 こうした動きに危機感を抱いた幕府は、同年4月、下野国足利の有力御家人だった足利高氏を反幕府勢力鎮圧のため京に派遣。ところが、高氏は幕府を裏切り、京の六波羅探題を攻め落としてしまいます。さらに5月には、上野国新田庄の新田義貞が倒幕の兵を挙げて鎌倉を襲撃。北条高時を自殺に追い込み、北条氏を滅亡させ、将軍職にあった守邦親王は職を退き出家、ここに鎌倉幕府は滅亡しました。
 


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