壬申の乱

天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者の地位を争って、天武天皇元年(672年)6月、古代最大の争乱といわれる壬申の乱が起きました。当時は、父の後をその子が継ぐというルールが確立しておらず、兄弟相続も見られたことが戦いの一因となりました。
天智天皇も当初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人を皇位継承者として認めていました。しかし、大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなったのでしょう、太政大臣につけ、側近の布陣を固めるなど、後継とする意思を見せ始め、しだいに大海人を遠ざけるようになりました。
大友皇子は、たくましい風貌をもった美しい青年だったことが『懐風藻』の伝記から窺えます。唐から渡来した劉徳高(りゅうとくこう)は大友に会い、その風骨は世間並みではない、この国には珍しい人物だと称したほどです。百済の要人たちを師として博学多才、文武に秀でた皇子であり、そうした人物であったことも、歴史の狂いを惹起する一因となりました。
天智天皇の意を察した大海人は強い衝撃を受け、また、自身の暗殺を恐れます。そして、先の人事から10か月後、大海人は、天智のもとに来るようにとの使者を受けました。その時、天智はすでに2か月の病床にありましたが、使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)はこう言い残して帰って行きました。「心してのたまへ(用心してお話しください)」。
不穏な影を感じ取った大海人が天智のもとにやって来ると、天智は「わたしの病気は重い。次代の天皇はお前がなってほしい」と告げました。しかし大海人はその真意をさとり、大友を皇太子に推挙し、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げ、大津宮から100kmも離れた吉野に引きこもりました。この時の大海人の本当の心境は分かりませんが、世間の人々は「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と、大海人を野放しにした怖さを噂しあったといいます。
天智が亡くなると、大友皇子は弘文天皇として即位して新しい政治を開始、また、吉野攻めの準備を始めます。山稜造営の名目で東国から人夫を集め、それに武器を持たせ、主要道に斥候を置き、さらに吉野への食糧の移送をとめたのです。それを知った大海人はこのままでは自滅すると感じ、吉野を出ます。これに従う者は、男20余人、女10余人という僅かな人数でしたが、東進するに従って加勢する者が増えていきました。大海人への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人方についたのです。伊賀国で数百人の軍勢を得て、自軍を組織し、東国から近江への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎます。さらに美濃国では、尾張守の小子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじさひち)が2万人の軍を率いて帰服。そして、不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。
戦いは1ヶ月で終わり、反乱者の立場である大海人が勝利、大友皇子は自殺に追い込まれました。大海人はただちに都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を造って即位し天武天皇となりました。なお、「壬申の乱」の名称の由来は、天武天皇元年が干支の壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによります。また、『日本書紀』では大友の即位を認めていませんが、後に明治政府はこれを認め、弘文天皇と諡号(おくりな)しました。

天武天皇の信仰
仏教を篤く信じた天武天皇は、諸国に金光明経や仁王経を講ぜしめたり、薬師寺を建立しました。685年には、大和法起寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じました。
さらに同じ685年に、伊勢神宮の式年遷宮を決定しました。式年遷宮とは、正遷宮、つまり定期的に神宮を建て直すことであり、この定めに従って、持統天皇の治世の690年に第1回の式年遷宮が行われました。それ以来、今日までの約1300年間(最近のものは2013年の第62回正遷宮)、連綿と続けられています。
神宮を20年ごとに作り替えるようになった理由は、おそらくその屋根が茅葺きのため、鳥や鼠の巣ができたり雨漏りしたりするためとされますが、まさか八咫鏡(やたのかがみ)が祀られている上に屋根職人が上がるわけにもいかないので、全部建て直すより他なかったのかもしれません。
しかし、この時代にはすでに屋根瓦は使われていましたから、茅葺きをやめて瓦にすれば何のことはなかったのです。はるかに耐久性にすぐれた社殿が容易に造れたはずです。ところが、天武天皇は敢えてそうしませんでした。あちこちに屋根瓦の寺社がありながら、神宮は前史の建築様式どおりに建てることに拘ったのです。
天武天皇は伊勢神宮のみならず、日本じゅうの神社の修理も命じました。仏を敬う一方で、カミも平等に扱ったのです。本来なら、こんな仏教信者がいたらお釈迦さまも真っ青でしょう。しかし、この天武天皇的な発想は、お盆にはお寺参りをし、クリスマス・パーティーを催し、新年には神社に出かけるという、現代に続くふつうの日本人のものです。
日本の神社のカミは、いわば日本人の祖先であり、神社をお参りするのは血の繋がりという事実を確認するという行為でもあります。私たちが先祖から生まれたというのは確かな事実であり、仏教やキリスト教を信じるのは信仰です。事実と信仰が決して相容れないものでないことは、すでに天武天皇が示していると言えます。
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天武皇統の維持
天武天皇崩御後に、ほどなく皇位継承するはずだった草壁皇子が、689年に皇太子のまま薨じたため、その母の持統天皇が正式に即位しました。この時、有力な皇位継承者と目されていたのは、天武天皇の皇子で序列3位の高市皇子でした。高市は、母の身分は低かったものの、天武の皇子の中で最年長であり、壬申の乱では天武の右腕となって活躍した人でしたから、人望もありました。持統は、さすがに大津皇子のように高市を抹殺することはできませんでした。持統の目論見は、草壁の遺児で孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を立太子させ、後に即位させることでしたが、いかんせん軽皇子はこの時わずか7歳でしたので、無理がありました。
そこで、自身が即位し、軽皇子が成長するまでの中継ぎ役となったのです。それでも、もし高市より自分が先に倒れたら、という不安はあったはずです。その時は高市に皇位が移っても仕方ないと考えたようです。しかし、持統にとって幸いなことに、696年7月に高市が病没します。ようやく軽皇子の立太子への道が開けたのです。しかし、天武の皇子たちが他にもいたためにすんなりとはいかず、諸臣の強い反対がある中で強行された立太子だったようです。
そうして皇太子となった軽皇子は、697年8月に、持統天皇から譲位されて15歳で即位し、文武天皇となりました。ところが、文武天皇は、父の草壁と同様に病弱であったため、707年6月、まだ25歳の若さで崩御してしまいます。幸か不幸か、持統はその前の703年に亡くなっていましたから、文武の死を知りません。しかし、持統は、軽皇子の立太子、即位をめざす折に、藤原不比等の助力を得ていました。不比等の娘宮子を、文武天皇の後宮に入内させており、この宮子との間に生まれたのが、この時7歳になっていた首皇子(おびとのみこ)です。
文武天皇の崩御後は、今度は不比等が主導して首皇子への皇位継承を画策します。まずは草壁の妃で文武の母である阿倍皇女(あへのひめみこ:天智の皇女)を中継ぎとして即位させ(元明天皇)、次いで715年9月、娘で文武の姉にあたる氷高皇女(ひだかのひめみこ)が元正天皇として即位します。そして、首皇子が、元正天皇から譲位を受けて即位したのは724年2月、24歳の時のことでした。それが聖武天皇です。
このように、天武天皇から草壁皇子、そして文武、聖武天皇へと続く皇統は、間に2人の中継ぎの女帝を挟むことによって、何とか維持されてきたのです。
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