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壬申の乱

 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者の地位を争って、古代最大の争乱といわれる壬申の乱が起きました(672年)。当時は父の後をその子が継ぐというルールが確立しておらず、兄弟相続も見られたことが戦いの一因となりました。

 天智天皇も当初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていました。しかし、大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなったのでしょう、太政大臣につけるなど後継とする意思を見せ始め、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになりました。

 そうした天智天皇の意を察した大海人皇子は、自身の暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、大友皇子を皇太子に推挙し、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、大津宮から100kmも離れた吉野に引きこもりました。それでも、世間の人々は「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」と、大海人皇子を野放しにした怖さを噂しあったといいます。

 天智天皇が亡くなると、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始めます。それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織します。大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方につきました。そして、不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。

 戦いは1ヶ月で終わり、反乱者の立場である大海人皇子が勝利、大友皇子は自殺に追い込まれました。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を造って即位し天武天皇となりました。なお、「壬申の乱」の名称の由来は、天武天皇元年が干支の壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによります。

天武天皇の信仰

 仏教を篤く信じた天武天皇は、諸国に金光明経や仁王経を講ぜしめたり、薬師寺を建立しました。685年には、大和法起寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じました。

 さらに同じ685年に、伊勢神宮の式年遷宮を決定しました。式年遷宮とは、正遷宮、つまり定期的に神宮を建て直すことであり、この定めに従って、持統天皇の治世の690年に第1回の式年遷宮が行われました。それ以来、今日までの約1300年間(最近のものは2013年の第62回正遷宮)、連綿と続けられています。

 神宮を20年ごとに作り替えるようになった理由は、おそらくその屋根が茅葺きのため、鳥や鼠の巣ができたり雨漏りしたりするためとされますが、まさか八咫鏡(やたのかがみ)が祀られている上に屋根職人が上がるわけにもいかないので、全部建て直すより他なかったのかもしれません。

 しかし、この時代にはすでに屋根瓦は使われていましたから、茅葺きをやめて瓦にすれば何のことはなかったのです。はるかに耐久性にすぐれた社殿が容易に造れたはずです。ところが天武天皇は敢えてそうしませんでした。あちこちに屋根瓦の寺社がありながら、神宮は前史の建築様式どおりに建てることに拘ったのです。

 天武天皇は伊勢神宮のみならず、日本じゅうの神社の修理も命じました。仏を敬う一方で、カミも平等に扱ったのです。本来なら、こんな仏教信者がいたらお釈迦さまも真っ青でしょう。しかし、この天武天皇的な発想は、お盆にはお寺参りをし、クリスマス・パーティーを催し、新年には神社に出かけるという、現代に続くふつうの日本人のものです。

 日本の神社のカミはいわば日本人の祖先であり、神社をお参りするのは血の繋がりという事実を確認するという行為でもあります。私たちが先祖から生まれたというのは確かな事実であり、仏教やキリスト教を信じるのは信仰です。事実と信仰が決して相容れないものでないことは、すでに天武天皇が示していると言えます。
 


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