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命がけの諫言

 徳川家康が、まだ岡崎城主だったころのお話です。家康は狩りをするのが大好きでした。三河領内に自分専用の狩り場を設け、他の者がそこで狩りをするのを固く禁じていました。ところが、あるとき、その場所で無断で鴨や魚を獲った二人の足軽が捕えられ、近々斬首されることになったのです。たかが鴨のことで死罪にするとはやり過ぎではないかとの声も上がりましたが、家康に意見する者はいません。

 いっぽう、そのころ岡崎城内では、大切なお客をもてなすために、生簀(いけす)で大きな鯉を三尾飼っていました。ところが、鈴木久三郎という家来が、そのうちの一尾を料理させ、織田信長から贈られた酒一樽とともに、仲間にも与えて飲み食いしてしまったのです。

 これが家康の知るところとなり、家康は烈火のごとく怒りました。久三郎を庭に呼び出し、「おのれ不届き者、手討ちにしてくれる」と、仁王立ちになって太刀を引き抜きました。しかし、庭先に控えていた久三郎は全く恐れる気配を見せず、家康に向かって言い返しました。

「そもそも殿は、鳥や魚と人の命とどちらが大事とお思いか。そのようなお心掛けでは、とても天下取りの望みは叶いませぬぞ。さあ、斬るならお斬りなされ」

と諸肌脱いで前に進み出ました。これを聞いて家康は、はっとしました。この男は、自分の狩り場で鳥獣を獲った者を処刑するのを諌(いさ)めようとしている。それでわざと生簀の鯉を食ったのだ、と。

 家康は捕らえていた二人を赦免し、その後久三郎を呼び出して礼を述べました。

「お前の言わんとするところはよく分かった。命懸けの諌言、うれしく思う」

 久三郎は、感激のあまり男泣きに泣きました。

 その後、三方ヶ原の戦いで、徳川軍は武田信玄の軍に敗れ、総崩れとなりました。この時、久三郎は家康の身代わりとなろうとしましたが、家康は家臣を死なせて自分だけが落ち延びるのを拒みました。久三郎は怒り、家康から軍配を奪い取って一人敵陣に取って返しました。この後、彼は無事に生還したといいます。

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鉄砲を買った種子島時尭

 1543年秋、種子島の南端にある門倉岬に、一艘の異国船が漂着しました。激しい嵐が過ぎ去った翌日のことでした。記録によると、その異国船に乗っていたポルトガル人は、奇妙な鉄の棒を携えていて、稲妻のような火を放ってみせた、といいます。日本人がはじめて出会った鉄砲です。

 種子島の鉄砲館に保存されている「伝来銃」と名づけられたこの鉄砲は、火のついた縄を使って火薬に点火する火縄銃でした。長さは約1メートル、重さは2.5キロ。いまも日本各地に残っている火縄銃と比べると、かなり小振りです。

 火縄銃は、15世紀にヨーロッパで生まれました。中国から伝わった技術が改良され、実用的な武器として発達しました。しかし、種子島に伝わったこの銃は、ポルトガルではなく、東南アジアのマラッカで作られた可能性が高いといわれています。

 当時のマラッカは、ポルトガルにとってアジア進出の拠点の一つでした。インドから中国南部にまで広がる貿易ルートを海賊などから守るため、マラッカは武器の生産地となっていました。その鉄砲を手に、東へ東へと向かうポルトガル商人たち。彼らの乗った船が思いがけず漂着した地、それが種子島だったのです。

 この新兵器の威力を見て、何としても手に入れたいと思った人物がいました。島主の種子島時尭(たねがしまときたか)です。この時まだ16歳の若者だった時尭は、二千金、現在の1億円に相当するという大金を払って、2挺の鉄砲を買いました。

 時尭は、ただ珍しいからという理由で鉄砲を買ったわけではなかったのです。彼はすぐに、2挺のうち1挺を鍛冶職人の八板金兵衛に調べさせ、鉄砲の複製を作るよう命じました。金兵衛は苦心の末に、日本人として初めて銃の製造に成功しました。

 当時の記録には、時尭が、この新兵器を実際の戦に使おうと考えていたと記されています。同じ年の3月、種子島氏は、大隈半島の豪族、禰寝(ねじめ)氏に攻め込まれ、領土だった屋久島を奪い取られています。鉄砲伝来のわずか半年前のできごとでした。屋久島奪還をめざす時尭にとって、新兵器・鉄砲の製造は、何としても実現したい願いだったのです。 

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戦国時代のおもな合戦

1553年 川中島の戦い
1555年 厳島の戦い
1556年 長良川の戦い
1560年 桶狭間の戦い
1567年 稲葉山城の戦い
1568年 観音寺城の戦い
1570年 姉川の戦い
1570年 金ヶ崎の戦い
1571年 比叡山焼き討ち
1572年 三方ヶ原の戦い1573年 一乗谷の戦い
1573年 小谷城の戦い
1575年 長篠の戦い
1578年 三木城の戦い
1581年 鳥取城の戦い
1582年 天目山の戦い
1582年 本能寺の変
1582年 備中高松城の戦い
1582年 山崎の戦い
1583年 賤ケ岳の戦い
1584年 小牧・長久手の戦い
1585年 四国平定
1587年 九州平定
1590年 小田原征伐
1592年 文禄の役
1597年 慶長の役
1600年 関ケ原の戦い


(上杉謙信)

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