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武田勝頼の残念

 武田勝頼は、1546年、甲斐の守護大名・武田信玄の四男として生まれました。母は信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘で、「諏訪御料人」と呼ばれていた女性です。当初、勝頼は、母の実家である諏訪氏を継いだため「諏訪四郎勝頼」、また信濃の伊那郡代、高遠城城主であったため「伊那四郎勝頼」とも名乗っていました。勝頼の「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来するとされますが、武田氏の通字の「信」はつけられず、諏訪氏の通字の「頼」がつけられていることから、勝頼が置かれた立場が伺えます。

 ところが、勝頼が20歳になった1565年、思いも寄らない転機が訪れます。信玄の長男で、武田氏の家督を継ぐはずだった兄の義信が、信玄に対し謀反を企てたために幽閉され廃嫡されてしまったのです。さらに義信の下には次男の龍宝(りゅうほう)、三男の信之の2人の弟がいましたが、龍宝は盲目だったために出家しており、信之は10歳で早世していました。そのため、四男の勝頼が急きょ家督相続の候補となり、武田氏の本拠の躑躅ケ崎(つつじがさき)館に呼び戻されました。そして、1573年4月に信玄が亡くなると、信玄の遺言により勝頼の嫡男・信勝を次の当主とし、勝頼は「陣代」という後見人の立場となりました。実質上の当主です。

 武将としての勝頼の力量はというと、信玄の在世中からいくつかの城攻めを任され、今川方だった駿河の蒲原城や遠江の二俣城などを落とし、信玄が亡くなった翌年には、信玄が落とせなかった遠江の高天神城を落とすことに成功しています。実は、勝頼の代になってからの領国は、名将といわれた父の時代よりうんと大きくなったのです。長年のライバルとして戦ってきた織田信長も後に、勝頼を「日本に隠れなき弓取」と評しています。

 しかしながら、名門で戦国最強といわれていた武田氏を滅亡に追いやってしまったのも勝頼であり、そのため、武将としての一般的な評価は決して高くありません。大河ドラマなどでも何となく影の薄い存在として登場します。

 連戦連勝を重ねながら途中からうまくいかなくなった原因は、特に父が落とせなかった高天神城を落としたことで自信過剰となり、それが仇になったとも言われます。その後の、三河の長篠城の奪回をめざした織田信長・徳川家康連合軍との「長篠の戦い」では、戦前に宿老たちから強い慎重論があったといいます。しかし、それを無理に押し切っての大敗北。 多くの重臣を失った武田氏はそれから衰退の一途をたどり、1582年3月の「天目山の戦い」で織田軍に敗れ、とうとう武田氏は滅亡したのです。勝頼の享年は37歳でした。

 父の信玄は生前、孫子の兵法にのっとり、戦の勝ち方にも上中下があると述べていました。すなわち「戦いは五分の勝ちを持って上となし、七分を中とし、十を下とす」というのです。五分の勝利であれば、緊張感も残り次への発奮につながる。しかし、七分だと油断が生じやすく、完全勝利では、おごりが生じ、次の戦で大敗してしまう下地になってしまう、と。「腹八分目」という言葉もありますが、非常に重要な眼目を含んだ言葉であると思います。勝頼は、そのあたりの自制力や深謀遠慮が足らなかったのかなと、残念に思います。

将軍・足利義輝の哀しみ

 足利義輝が13代将軍となったのは、1546年12月20日、わずか10歳の時でした。室町幕府というのは奇妙な政権で、将軍の膝元にはほとんど軍事力がありませんでした。もっぱら将軍配下の守護に軍事力を頼っていたのです。将軍も一応、奉公衆という直轄軍をつくってはいましたが、最盛期の3代義満のころでも2000〜3000騎しかなく、義輝の時代にはぐんと減っていました。『群書類従』の雑部に「永禄六年諸役人付」という義輝の家臣名簿があるのですが、それで義輝膝下の人数をみると200人もいません。

 ちなみに徳川将軍の軍事力がどうだったかというと、実に万単位で、即日動員できる兵は8万、有事には20万もの大軍を指揮できる態勢にありました。同じ将軍でも、徳川と足利とでは膝元の軍事力に2ケタ以上の違いがあったのです。さらには応仁の乱の後は、将軍の権威そのものも決して磐石ではなくなってきました。

 ですから、自前の軍事力を持たない足利将軍は、誰かに推戴されなければ政権が維持できませんでした。推戴者に見放されてしまえば100人単位の家来を連れて京→坂本→比良山地と琵琶湖西岸を流浪し、新たな推戴者が現れるまで京にもどれないのが常でした。事実、9代以降の足利将軍はすべて亡命先で病没するか、京で殺されています。

 そのなかで若い将軍義輝は、可能な限りの努力をしました。幕府の権力と将軍の権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。また武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久、松平元康と今川氏真などの数多くの大名同士の抗争の調停を行ってきました。さらに自らの護身のため剣術を習い、火縄銃の研究に熱中。館を堀で囲いもしました。

 しかし城門が完成する前の1565年5月19日、別に傀儡将軍を擁立しようとしていた三好・松永の軍勢が来襲。これに対し義輝は、天下の名刀を床に突き立て、次々に取り換えながらバッタバッタと敵を斬り倒しました。将軍のあまりの強さに、「御勢いに恐怖して近づき申す者なし」となりましたが、義輝の奮戦もそこまで。戸脇に隠れていた敵に足をすくわれ、転んだところを上から障子を倒しかけられ、槍でメッタ突きにされて絶命。いかに個人が努力しても、制度がそのままではどうしようもありませんでした。
 

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塚原卜伝の「智」

 戦国時代の剣豪に、塚原卜伝(つかはらぼくでん)という人がいます。将軍にもなった足利義輝や足利義昭、また伊勢国司の北畠具教や武田家の家臣、山本勘助にも剣術を指南したと伝えられています。

 その卜伝が、あるとき、乗合舟に乗っていて、居合わせた屈強な侍が町人に難癖をつけ、あわや斬り捨てようとしました。卜伝がそれをとどめようとしましたが、侍は、今度は卜伝を斬ろうと決闘を挑んできます。卜伝はのらりくらりとかわそうとしますが、侍は卜伝が臆病風に吹かれていると思い、ますます卜伝を罵倒します。

 卜伝はやむなく船頭に命じ、川中の小島に舟を寄せさせました。陸に上がって勝負しようというのです。侍は勇んで小島に飛び降りました。すると卜伝は舟を降りず、すかさず船頭に命じて舟を沖へと漕ぎ出させたので、侍は小島に一人残されてしまいました。それに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒しますが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ったといいます。
 

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( )内は生年です。


(福島正則)

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