関ヶ原の戦いの陰の主役、それは南宮山に布陣した吉川広家だったかもしれません。西軍の中心的勢力である毛利一族でありながら、決戦に参加しないだけでなく、南宮山に陣を構えた2万6000もの大軍勢を抑え切ってその山を不戦の山とし、徳川家康の勝利に大きな貢献を果たしたからです。
関ヶ原の戦いというと、同じ毛利両川の一翼・小早川秀秋の裏切りにスポットが当てられがちですが、一連の情勢を大局的にみた広家の存在は、もっとクローズアップされてよく、間違いなく天下分け目の決戦の主役の一人であるといえます。
ではこの広家とはどんな人物だったのでしょうか。文献によれば、9歳で初陣を飾り、朝鮮出兵にも参加、慶長の役では明軍に包囲されたウルサン城を見事救援するなど武勇に優れた武将だったとあります。そんな有能な武将があえて戦わなかった。もし広家が戦闘に参加していたら、勝敗の行方はどうなったか分かりません。
広家が戦わなかったのは何故でしょうか。それはひとえに毛利という家を思ってのことでした。「天下を望むな。毛利という名を廃れさせるな」という祖父・元就の教えを忠実に受け継ぐ広家は、生粋の毛利人でした。
関ヶ原の戦いの2ヶ月前、広家は、毛利輝元を西軍の総大将に祭り上げようとする毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)と激しく対立しました。広家は、家康はかの秀吉と比べても全くひけをとらない実力があり西軍に勝ち目はない、そして輝元の命は何物にも代えられないと主張、毛利一族が西軍の中核になることに一貫して反対したのです。
しかし広家は、輝元を止めることはできませんでした。輝元は広家の意見に耳を貸さず、西軍の総大将に就いてしまったのです。広家にとっては最悪の状況となりました。いかにしてこの危機を乗り切り、毛利を守るべきか。広家は思案しました。そこで打った一手が、密かに家康と通じ、講和を結ぶということでした。
彼は東軍についた親しい武将に家康へのとりなしを依頼し、戦いの前日に講和を結ぶことに成功します。その内容は、南宮山の毛利一族が戦いに加わらない代わりに、家康が、総大将になってしまった輝元の無罪と毛利の領国の安堵を保証するというものでした。広家は、独断で家康の天下のもとでの毛利の安泰を目論んだのです。
そして広家は、決戦の場においても意志を変えることなく、不戦を貫き通しました。その働きにより家康は勝利します。しかし広家は、講和の、そして勝利の裏に隠された家康のしたたかな思惑までは読みきれませんでした。その密約は、戦後処理の論功行賞において無残にも反故にされることとなりました。
毛利の領国は没収され、家名は断絶されることになったのです。しかし広家は、あくまで毛利の名を残そうと執念を燃やします。自らの身は犠牲になろうとも、ひとえに毛利を存続させるための懇願を幾度も家康に働きかけました。さすがの家康も、広家の一途さに根負けしたのか、ついには毛利を周防・長門の2カ国に封じることにしました。
しかし、その後、彼は、毛利家中で微妙な立場に追いやられ、必ずしも厚遇されませんでした。毛利の名を残すためとはいえ、敵対していた家康と通じていたのだから仕方ありません。広家にしてみればまことに辛い、複雑な思いだったでありましょう。
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(毛利元就)
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