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綱吉の苦悩

 赤穂浪士の討ち入りを聞いた将軍・綱吉は「あっぱれな者どもだ」と思わず本音を漏らしたといいます。儒教道徳の信奉厚い綱吉は、どうしても彼らの行為に共感を覚えてしまい、そして、何とか彼らの命を救ってやりたいと思ったのです。

 そうした綱吉の苦悩を察した側用人・柳沢吉保は、儒者・荻生徂徠の意見を取り入れ、「赤穂浪士たちが公儀の裁きに背いたことは絶対に許すわけにはいかない。しかしながら、彼らの行為はまさしく義であり、武士として名誉ある切腹を申しつけるのが相当」との妥協案を具申しました。

 綱吉もやむを得ないとして、この提案をいったんは承諾しました。ところが、切腹申し渡しの2日前になって、綱吉は何とか浪士たちを助命できないかとの思いを棄てきれず、年賀の挨拶にきた公弁法親王に相談を持ちかけました。

 公弁法親王というのは、後西天皇の第六皇子で天台宗の僧侶で、上野寛永寺と日光輪王寺の門主でもあり、綱吉が厚く信頼を寄せる人物でした。綱吉は、法親王ならばきっと自分の本心を察して、浪士助命の案を切り出してくれると期待しました。そうなれば、法親王のたっての懇願ということで、浪士助命の大義名分が立ちます。

 そこで綱吉は、「為政者というものは、心にいささかの暇もない。聞き及んでおられると思うが、赤穂浪士の忠誠義烈の様は、当世では珍しいことで、彼らを助けてやりたいが、政務を司る立場ゆえ、彼らに腹を切らせなくてはならない」と、さも苦悩を装い、法親王の同情を誘おうとしました。

 ところが、法親王は相槌を打つのみで雑談を続け、席を立ってしまった、あるいは別の伝えでは、法親王は、浪士たちを切腹させるべきだと答えたともいいます。その理由として、

「彼らは長い間の困苦を乗り越え本懐を遂げた。もはやこの世に未練はないはず。その証拠に、公儀に処分を任せると申し出ている。助命したところで、彼らは二君にまみえることはしないだろう。あたら忠義の士を路頭に迷わせ餓死させるよりは、武士の名誉を重んじてやり、切腹を申しつけるのが武士の情け。そうすることで彼らの志を虚しくせずにすみ、また公儀の法も正しく行われたことになる」と。

 これで綱吉の思いも万事休す。将軍であれば自ら鶴の一声を発すればすみそうなものですが、将軍として浪士たちを許せば、浅野内匠頭だけを切腹させた自分の処断が間違いであったと認めることになり将軍権力に傷がついてしまいます。まさに為政者の悩みと葛藤。ずいぶん辛いところだったと思います。

上杉家を救った千坂兵部

 赤穂浪士による吉良邸討ち入りを期待するムードが高まるなか、吉良側で必死になって防御策を講じていたのは、米沢藩15万石・上杉家の江戸家老・千坂兵部でした。上杉家と吉良との縁は、吉良の次男・綱憲が上杉家の当主になっていたことにあります。つまり養子に入っていたのです。若い綱憲はしきりに実父のことを案じました。「赤穂浪士が討ち入りするかもしれない」との情報が流れると、居ても立ってもいられなくなりました。

 しかも吉良邸が本所に移されたため、綱憲も「幕府は父を討たせるつもりだ」と直感し、父を米沢城に引き取ろうとしました。しかし、千坂は反対します。「たかが浪士ふぜいと米沢城で一戦したとなれば、謙信公以来の家名に傷がつく」。そういって、清水一学や小林平八郎らの剣客を吉良邸に護衛として派遣するにとどめました。

 そして迎えた12月14日、赤穂浪士討ち入り成功の知らせが上杉家の江戸藩邸にもたらされました。綱憲はすぐに槍をとって叫びました。「父の仇を討つ!おれに続け!」。ところが、千坂が大手を広げて、綱憲の前に立ちはだかります。「馬鹿なことを申されるな。あなたはすでに上杉家のご当主、軽挙妄動はなりませぬ。赤穂浪士の討ち入りは仕掛けられたもの。乗ってはなりません」

 「どけ!」「どきません!」の激しい応酬を繰り返し、千坂は「どうしてもお出かけになるのなら、この千坂を斬ってからになさい」とまで言いました。千坂を睨みつける綱憲。しかし結局、綱憲はあきらめて槍を投げ出し、自室に引き返しました。

 千坂は、世論に立ち向かい上杉家が本腰を入れれば、今度は上杉家そのものの存廃にかかわってくると考えていました。決して引っかかってはならないと、憤る主君に対し毅然として立ち向かったのです。その冷静かつ徹底した態度が、上杉家を救ったといえます。
 

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綱吉の年表

1646年
徳川家光の四男として生まれる
1651年
家光が死去し、長兄の家綱が4代将軍になる
1657年
明暦の大火
1657年
館林藩主になる
1680年
家綱が死去、綱吉が5代将軍となる
1680年
家綱時代の大老・酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老とする
1682年
伊原西鶴が「好色一代男」を著す
1684年
堀田正俊が刺殺される
1684年
側用人の柳沢吉保を重用
1687年
生類憐みの令を出す
1690年
聖堂を湯島に移し昌平坂学問所を付設
1695年
金銀貨を改鋳
1701年
徳川光圀が死去
1702年
赤穂浪士が仇討ち

1709年
死去(享年64歳)

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