源頼朝が死去すると、長男の頼家(よりいえ)が18歳で2代将軍となりますが、頼家には御家人衆を統率するだけのリーダーシップはなかったようです。そこで母の北条政子が、実父の北条時政をはじめ比企能員(ひきよしかず)、大江広元、三浦義澄、八田知家、和田義盛、三善康信ほか13人の御家人衆による合議制で幕府を運営しようと試みました。
ところが、次第に他を圧迫し始めた北条氏に不満を持った頼家は、妻・若狭局(わかさのつぼね)の実家である比企氏と協力して北条氏を討とうとしました。しかし、企ては失敗し、比企氏は滅ぼされ、頼家は伊豆に幽閉され、後に北条氏がさしむけた刺客によって暗殺されてしまいます。そして、北条氏は頼家の弟で12歳の実朝を3代将軍に立てて幕府の実権を掌握しました。
実朝は、政治よりも和歌など芸術を好み、『新古今和歌集』を編纂した後鳥羽上皇を敬愛する公家びいきの人物でした。妻も公家から迎えたため朝廷との関係も良好で、鎌倉幕府は短い安定期を迎えました。
ところが、比企氏の反乱を抑え政所別当の地位についた北条時政は、後妻の牧方(まきのかた)の婿を将軍に据えようとして実朝の暗殺を計画します。このため時政は政子や政子の弟・北条義時によって追放され、幕府の実権は義時が握りました。義時は北条氏の権力強化をはかり他の御家人を圧迫。挑発に乗った和田義盛は1213年に挙兵して逆に北条氏に討たれ、一族は全滅しました。
一方、自身の和歌集『金槐塊和歌集』を編むなど芸術に没頭していた将軍・実朝は、1219年に、前将軍頼家の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいます(享年28)。右大臣への昇任を祝うため鶴岡八幡宮に拝賀した折に襲われ、このとき公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫んだといわれます。その公暁も討っ手によって殺されます。これによって源氏の正統は絶たれ、以後、鎌倉幕府は北条氏の手にゆだねられることとなります。
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