下関条約によって日本に割譲された遼東半島は、フランス・ドイツ・ロシアによる三国干渉によって清に返還せざるを得なくなりました。「日本による遼東半島所有は、清国の首都・北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」というのがその主旨でした。主導国はロシアであり、その後、日本国民の間では「いずれロシアと戦うことになる」というのが共通認識となりました。
ロシアとの戦争となれば、「元寇」以来の国難といってもよく、まさに国家存亡の秋(とき)でした。日露戦争が避けがたいことを知り、結婚話を断る軍人もいたほどです。また、199名の死者を出した八甲田山における青森歩兵第5連隊の雪中訓練も、日露戦争を念頭に置いたものでした。また、多くの有能な軍人がキャリアを捨ててまで、諜報活動や謀略活動に身を投じました。
たとえば、後に大将になった福島安正は、ベルリン公使館付き武官としてドイツから帰国する際、わざわざシベリアを単騎横断して情報を収集しています。また、明石元二郎大佐は、ロシア革命勢力の援助に没頭しました。スウェーデンの首都ストックホルムを中心に、各地に亡命している革命家たちを資金援助、レーニンとも親交を深め、パリで大規模な反ロシア集会を行うことにも成功しました。
このため、ロシア各地で反政府運動が先鋭化、頻発し、ロシア政府はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、戦争に集中できなくなってしまったのです。ロシア革命の発端となった「血の日曜日事件」(1905年)がペテルブルクで起きたのも、元は彼の活動によります。明石の働きは「数個師団に匹敵した」とも言われ、日露戦争の勝因の一つは明石大佐であったとされました。
しかしながら、開戦後において、もう少しうまく情報収集ができていればよかったとする意見があります。あれ以上戦争を続けていたら日本はダメになるということを上の人間たちが認識し、それを早く抑えたことは、もちろん正しい判断でした。しかし、もう一歩先に進んで、さらに高度な情報収集活動ができていれば、ロシア側も同じように戦争を続けられる状態ではなかったのを知ることができたというのです。
ロシアは当時、実はドイツやフランスのユダヤ人から多額の借金をしていて、「もうこれ以上の融資はダメだ。講和してもらわなければ融資を打ち切る」とまで言われていました。だからこそ、ロシアは講和条約の場に出てきたのです。しかし、日本はそんな事情を知りませんでしたから、交渉において譲歩したところも少なくありませんでした。
そうして、危機一髪のところで日本と有利な条件で講和したロシアの代表ウィッテが、いちばん最初に電報を打ったのは、他ならぬベルリンのメンデルスゾーン宛でした。あの有名な作曲家で、一家は富裕な銀行家のユダヤ人です。そこには、「講和成立した。融資継続を頼む」とあり、それから2番目に皇帝に電報を打ったのです。ユダヤ人がそういう位置にいたということを、当時洞察した人が日本の幹部に一人でもいれば、状況は大きく違っていたかもしれません。
大激戦のうえに陥落させた旅順の要塞に関しても、同じことがいえます。ロシアが旅順に要塞をつくっているらしいということは、分かっていました。それがどのような規模なのかを探るため、日本は中国人労働者に化けたスパイを送り込みますが、ことごとく捕まって処刑されてしまいました。
ところが、イギリスはそれを正確に知っていました。要塞の建設には大量のコンクリートを必要としましたが、当時はまだシベリア鉄道がなかったため輸送できません。船で運ぶより他なかったのですが、その船は大体がイギリスの船であり、それに積む荷物を売っていたのはユダヤ人です。そこで何をどれくらい売ったかが分かれば、要塞の規模がどれくらいのものなのか、おおよその見当はつきます。その情報が、日本にはなかったのです。
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