ミス日本と乃木大将
1908年(明治41年)のお話です。アメリカで開催される世界美人コンテストに日本代表を選出することになり、日本初の素人女性による美人コンテストが行われました。あの時代ですから、今のような水着審査などはなく、審査員たちは、和服姿の写真のみを見て審査しました。芸術・芸能界を代表する各界著名人13人が審査員となり、その中には彫刻家の高村光雲もいました。
7000人にも及ぶ応募者に対する厳選なる審査の結果、小倉市長の16歳の令嬢で、当時、学習院中等科に在学していた末弘ヒロ子が、みごと最初のミス日本に選ばれました。ヒロ子は一躍時の人となり、父親のもとには数百もの縁談の申込みが届き、家族を喜ばせました。ところが、ここで事件が持ち上がります。ヒロ子は華族の学校である学習院の生徒であり、しかも校長はあの乃木大将です。急きょ開かれた学習院内の協議会は、「美人コンテストなどとは、けしからん!」として、ヒロ子を退学処分にしたのです。
しかし、ヒロ子自身は、自分がコンテストに応募していたとは知らなかったのです。ヒロ子の義兄が、本人に内緒で写真を送っていたのでした。それでもヒロ子は、甘んじて退学処分を受け容れました。この事実を知った乃木大将は、その後、意外な行動をとります。ヒロ子の名誉を回復するため、彼みずからが媒酌人となって、陸軍元帥で伯爵の野津道貫の跡取り息子と結婚させたのです。伯爵夫人となったヒロ子は、当時としては最高の玉の輿でした。
岡倉天心の眼力
岡倉天心といえば、明治期に活躍した美術家です。その岡倉天心は、アメリカ人フェノロサとともに、明治21年、上野公園内に東京美術学校を開きました。翌1月には入学試験が行われ、天心は橋本雅邦や川端玉章らとともに、受験生の作品の審査にあたりました。
そのときのこと。大学予備門(のちの一高)から受験している横山秀磨という学生の合否が問題になりました。彼の絵は下手くそで、とても及第点はつけられないレベルだったのですが、天心は、
「美校は絵がうまいだけの職人をつくるところであってはならない。どうも、美術家にはほかの学問ができない者が多い。大学予備門の在学生なら秀才だろうから、一人ぐらいはそういう人間も本校に入れておこうではないか」
といって、特別にその学生を入学させました。その学生が、やがて巨匠、横山大観となったのです。
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日本文化を守った政府の鷹揚
まことに有難いことに、わが日本では古い文献が実に数多く残っています。その理由は、何より日本人が古いものをとても大切にしてきたからですが、もう一つ重要なのは、歴代の政府が鷹揚だったことにあるといわれます。わが国に、中国の秦王朝時代のような「焚書坑儒(書を燃やし、儒者を生き埋めにする)」のようなことはなかった!
たとえば歴史物語の『大鏡』(作者不詳)は、藤原政権のどす黒い?内幕が赤裸々に描かれています。天皇にうまいことを言って退位させるといった、あくどいことを藤原氏は平気でやっていて、それをあからさまに書いているわけです。藤原氏が横暴なふるまいをしているということは、藤原氏の後ろ盾となっている天皇にも責任があることになります。藤原氏と天皇が政治を勝手にやっているという話を『大鏡』は書いており、いわば反体制というべき書です。
それを当時の人たちは喜んで読んでいたということです。実態を暴かれ批判の的になった藤原氏が、『大鏡』に対してどうこうしたという記録は一切ありません。発禁にもされず燃やされもせず、作者が罰せられるということもなく、藤原政権はきわめて鷹揚だったのです。
かの紫式部による『源氏物語』だって、藤原氏による摂関政治が真っ盛りの時代に「源」という姓の元皇族が活躍するストーリーになっているのですから、こちらも反体制の作品といえなくありません。でも、これを多くの貴族たちが読んでいてベストセラー?になりました。ここでも藤原氏が何か反応したという事実は伝わっていません。
そうした鷹揚さは、その後の政権でも殆ど変わらなかったといっていいでしょう。明治時代の日露戦争のとき、歌人の与謝野晶子は「君死にたまふこと勿れ」という歌を詠みました。この作品が『明星』に掲載され、大きな反響を呼んでも、明治政府は何もしませんでした。ふつうの立憲君主国だったら、『明星』を発禁にして、与謝野晶子を拘束してもおかしくないのですが、そうなっていません。どこかの国だったら、死刑になっているかもしれないのに、です。
じゃあ、過去において政府による思想弾圧のようなことが全くなかったかというと、そうはいえませんけどね。罰せられた人が全くいないわけではありません。でも、総じて歴代政府が鷹揚だったといって差し支えないのではないでしょうか。現にさまざまな古い文献が堂々と残っているのが、何よりの証しです。
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