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ああ、参勤交代

 参勤交代制度とは、江戸時代の大名が領国と江戸の間を1年交代で行き来し、将軍に奉公する形をとった制度です。はっきりと制度化されたのは3代将軍・家光の時の1635年に制定された『武家諸法度』によってです。原則として在府(江戸滞在)1年、在国(国許滞在)1年とされ、参勤の時期は外様が4月、譜代は6月か8月とされました。ただ期間については例外もあり、たとえば関東の大名は半年交代、遠国の対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月の在府、また水戸藩は定府(いつも在府)とされました。

 もっとも、制度化される前からほとんどの大名は妻子を人質代わりに江戸に住まわせ、大名自身も年賀のあいさつに将軍のもとを訪れ、しばらく滞在することが慣行となっていました。その前の織田信長豊臣秀吉も、諸大名を安土城や大坂城に参勤させていますし、さらに遡れば、鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされます。しかし、これを制度化して強制したのは徳川氏が初めてでした。参勤交代にかかる巨額の費用を負担させ、幕府に反抗できないよう経済力を弱める狙いがあったといわれています。

 実際、大人数の行列を連ね、自国から江戸まで歩かねばならない参勤交代は、江戸藩邸の維持費とともに莫大な費用がかかり、藩の年間支出の50〜75%を占めたとされます(大名行列のみの費用は20〜40%)。大名としては、この行列を豪華にすることが、農民や町人に大名としての威厳を示すことになり、互いに見た目の豪華さと人数の多さを競い合いました。加賀百万石の前田家では2500人から3000人、多いときで4000人もの行列を擁したといいますから、まーすごいもんです。

 しかし、その陰では涙ぐましい節約術も使っていました。弱小な藩はなおさらで、映画『超高速!参勤交代』でもその悲惨な窮状ぶりがうかがえます。そこで第一に切り詰めたのが宿泊費です。宿のレベルを下げたり、先遣隊が先に宿へ着いて値下げ交渉をしたり、また日数を短くするために、早朝に出発してできるだけ1日の距離を稼ぎました。午前4時に出発する一行もあったといいます。ゆるりゆるりと進むのは江戸や領国近辺のみで、見物人がいなくなると軽装に着替えて猛スピードで行進、1日に40キロ進むのも当たり前だったようです。

 行列の人数については、出立時には大人数でスタートするものの、少し離れると家臣の一部を帰し、中間や人足などの軽輩は臨時のアルバイトの場合が多かったため、人数は半分ほどに減らされました。さらに必要最小限の携行品以外は、各宿場でレンタルする例も多くありました。それでも途中で金が足らなくなり、領国や江戸に急使を派遣して金が届くまで、宿場で足止めを強いられたなどの事例もあったといいます。

 弱小な藩ばかりでなく、大藩もそれなりに大変で、とくに薩摩から遠路はるばる江戸を目指す薩摩藩は、その石高から1000人以上の行列を仕立てる必要がありました。陸路と水路を利用し40〜60日もかかる行程で、片道の費用だけで1万7000両も要したといいます。ただでさえ「借金500万両」といわれるほどの深刻な財政難に陥っていた同藩は、宿代をとことん値切り倒すので有名となり、庶民からも大いに冷やかされたそうです。

 いずれにしても、参勤交代制度は、見栄っ張りな大名の意識をうまく利用した経済力低下策となりました。幕府の当初の目論見はみごとに当たったわけです。しかし、大名が財政的に破綻して軍役を果たせなくなっては本末転倒となってしまうため、幕府は逆に大名行列の制限に乗り出したほどです。
 
 ところで、時代劇ドラマなどで、大名行列の先導の旗持ちが「下にー、下にー」と声を出し、それにあわせ百姓や町人が脇に寄って土下座するシーンが登場しますね。ところが実際には、この掛け声によって土下座させたのは徳川御三家の尾張藩と紀州藩(水戸藩は江戸常勤なので参勤交代はなかった)だけで、ほかの大名家は「片寄れー、片寄れー」とか「よけろー、よけろー」と言い、民衆は脇に避けて道を譲るだけでよかったのです。土下座をする者も、大名が乗った籠が通るときだけでした。

 なぜなら、大名行列は自藩の威容を民衆に見せつけることが大きな目的でもありましたから、土下座させていたのではそれが成り立たなくなってしまいます。また、華美な大名行列を見物することは、多くの人々の楽しみでもありました。ですから、道を譲るのも、御三家の行列に土下座するのも、あくまで道の脇にいる場合に必要とされただけで、屋内や脇道に入るなどすれば何の規制もありませんでした。寝そべって見物してもよかった。御三家の行列も、遠目でなら普通に見物できたのです。

伊藤仁斎の言葉

 ”四書”といえば、儒教の経書のなかで特に重要とされる『大学』『中庸』『論語』『孟子』の4つの聖典をさします。このうち儒学入門の書とされる『大学』は、孔子の遺書か、または孔子の言葉を曾子が述べたものとされ、2000年もの長きにわたって、そう信じられてきました。

 江戸時代の儒学者・伊藤仁斎(1627〜1705年)も、始めのうちは「今の世、またかくの如き事を知るもの有らんや(このような教えがわかっている人は、今の世でもいるのだろうか?)」と言ったほどに『大学』に心酔していましたが、熟読していくうちに、その内容が孔子本来の思想と矛盾することに気づきました。そして『大学』は『論語』ほかに見られる孔子の論理に背反し、孔子の遺書ではないと主張しました。この主張には、後の中国の学者たちも従うようになりました。

 日本人の鋭い学問的探究力を国際的に示した伊藤仁斎ですが、そのほかにもいろいろな言葉を残していますので、ここにご紹介します。 

「言葉直く、理明らかに知りやすく記しやすきものは必ず正理なり。言葉難く、理遠く知り難く記し難きものは必ず邪説なり」

 つまり、難解でわけのわからないことを言っている本は嘘である、と。また、

「人に語って知り難きものは善事にあらず。人を導いて従い難きものは善道にあらず」

 人に言っても分かってもらえないようなことは善い事ではない。人を導こうとして従ってもらえない場合はこちらが悪い、と。さらに、

「卑しき時はすなわち自ずから実なり」

 卑近な議論にこそ真実がある、高尚な議論ほど偽りが多い、というのです。
 

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”逆タマ”を断った貧乏学者

 江戸時代初期の豪商の一人に河村瑞賢(かわむらずいけん)がいます。海運・治水の功労者でもあり、「東廻り航路」と「西廻り航路」を開いたことで有名です。明暦の大火の折には材木を買い占めて莫大な利益をあげました。その瑞賢に娘がいました。瑞賢はこの娘に、全財産をつぎ込んででも、立派な婿を迎えてやろうと考えていました。そして、あらゆる人脈を通じて“立派な婿”を捜し回りました。

 瑞賢にとっての“立派な婿”とは、何より学問のできる男でした。自分にお金はいくらでもありましたから、金持ちである必要などありません。そして、ようやく一人の若い貧乏学者が目にとまりました。さっそくその男に会って、お金に糸目をつけない好条件を提示して婿入りを要請しました。相手にとっては夢のような条件でしたから、一もニもなく受け容れるだろうと瑞賢は確信していました。

 ところが、その学者は、瑞賢の申し出をあっさり断ってきたのです。娘を気に入らなかったというわけではありません。彼は「自分はこれまで、自分の力だけでがんばってきました。蛇が小さいときに受けたわずかな傷も、大蛇になったときには大きな傷痕になるというたとえがあります。私も今はまだ小蛇の身ですが、将来、女房のおかげで名を出したと言われるのは嫌ですので、悪しからず」というのです。

 瑞賢はたいそう残念がり、何度も説得を試みましたが承諾を得られず、結局はあきらめざるを得ませんでした。”逆タマ”のチャンスを断ったその若い貧乏学者こそ、後の新井白石でありました。やがて徳川6代将軍・家宣に儒臣として仕え、学者としても政治家としても力を発揮、武断政治を廃し、文治政治を定着させた人物です。
 

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    〜文久3年時点

伊藤仁斎の名言

我能く人を愛すれば人も亦た我を愛す。
(自分が本当に人を愛していたら自然と人から愛が返ってくる)

仁の徳偽るや大なり。然れども一言以て之をおほえば曰く、愛のみ。
(人間にとって「仁」ほど大切なものはない。では、仁とは一体なんであろうか。一言で言えば、つまりは「愛」である)

仁者は常に人の是を見る。不仁者は常に人の非を見る。
(仁徳を備えた者は、常にその人良いところ所を見ようとする。仁徳を備えぬ者は、常に人の欠点の悪いところばかり見ようとする)

一人之を知りて十人之を知る能はざる者は道に非ず。一人之を行ひて十人之を行ふ能はざる者は道に非ず。
(自分がいくら分かっていても周囲の誰も分からないようなものはそれは道ではない。自分だけが実践できても他の者が実践できないようなものは道ではない)

蓋し道は窮り無し。故に学も亦た窮り無し。
(思想の道に終わりなど存在しない。ゆえに幾らでも学ぶことがある)

勇往向前、一日は一日より新たならんと欲す。
(勇気をもって前に進め。今日というこの日は、これまでとは違う新たなる日であることを欲している)

天地といへども過ち無きこと能はず。いはんや人をや。聖人もまた人たるのみ。
(天地といえども過ちを犯す。まして人など過ちを犯して当然ではないか。聖人だって人である)


(伊藤仁斎)

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