征夷大将軍とは、朝廷における令外官(りょうげのかん:律令の令制に規定のない新設の官職)の一つで、本来は古代に蝦夷(えみし)征討のため朝廷が派遣した征討軍の総指揮官のことです。それが中世以降は武家政権の首長の別称となり、幕府の首長と同義と考えられるようになりました。
蝦夷征討では、720年、征夷将軍に任命された多治比県守(たじひのあがたもり)が知られます。征夷大将軍の称は794年の大伴弟麻呂(おおとものとまろ)にはじめて使われ、桓武・嵯峨両朝には797年に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、811年に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が任命されました。とくに田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移すなど東北経営にも尽力したので、この職は武力を担う者にとって栄誉とされるようになりました。
蝦夷征討が一段落すると征夷大将軍の称は廃され、平安期に復活したときは蝦夷征討とは関係のないものになりました。1184年1月、源義仲が征夷大将軍に任じられたのは(一説に征東大将軍)、義仲がみずからを権威づけるために望んだものだったといいます。
また東国の源頼朝追討を主眼としたことから、征夷大将軍の職は東国を支配する職と考えられるようになりました。その後、頼朝は義仲と東北の奥州藤原氏をほろぼして東国と東北を制圧し、92年に念願の征夷大将軍になりました。そして、征夷大将軍が武家政権(鎌倉幕府)の首長の象徴として確立するのは3代将軍源実朝からです。
征夷大将軍の職はその後も歴代の鎌倉将軍へと継承され、室町幕府・江戸幕府もふくめると700年にわたる武家政治の象徴となりました。そして、徳川氏に世襲された本職も、1867年の王政復古で幕府が解体すると同時に廃絶されました(王政復古の大号令)。
ところで、そもそもの蝦夷征伐とはどのようなものだったのでしょうか。ここでは桓武天皇の時代の蝦夷征伐について触れます。桓武天皇は、8世紀以降、蝦夷開拓を積極的に推し進め、多賀城などの軍事拠点を造営し、次第に北への支配地域を拡大していきました。そして、蝦夷最大の拠点だった胆沢(いさわ)(岩手県水沢市)を攻略するため遠征軍を派遣しました。しかし、思わぬ反撃にあい、以後、3次にわたる大遠征を余儀なくされました。
第1次の遠征は789年、紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍とする5万2800余人の軍が派遣されました。対する蝦夷軍は、族長アテルイが率いる千数百人。圧倒的に劣勢のはずの蝦夷軍が、神出鬼没の戦術によって朝廷軍を撃破しました。第2次の遠征はその5年後に派遣され、朝廷は10万の兵を投入しました。坂上田村麻呂はこのときに副将軍として参加しています。しかし、その大軍をもってしても蝦夷の抵抗を打ち崩すことはできませんでした。
そうして801年、第3次遠征では、田村麻呂が征夷大将軍となって4万の兵を率いました。そして、ようやく蝦夷を平定し、アテルイを降伏させることができました。そして、新たな拠点となる胆沢城を築きました。降伏したアテルイは京に連行されますが、田村麻呂は朝廷にかけあい、彼に官位をあたえ蝦夷支配の責任者に任じてもらうつもりでした。しかし、彼の意見は、「虎を養って患いを残すようなものだ」とする公卿らの反対によって受け容れられず、朝廷はアテルイを処刑しました。和睦に応じたアテルイをだまし討ちにしたのです。
それでは、そもそも、なぜ蝦夷をやっつける必要があったのでしょうか。はるか遠い地の蝦夷が京に攻め上ってくるなどありえなかったのに、です。これについては、作家の司馬遼太郎さんが次のように述べています。
「こんにち言うところの東北地方(陸奥と出羽)は、日本海地方の多くは古くから農業地帯になっていたが、内陸や太平洋岸には、縄文以来の狩猟・採集のくらしをする人々が多かった。大和朝廷はこれを不安とし、ひたすら農業と定住を勧めたが、これを不快とする反乱がたえまなく、とくに桓武天皇のときに多発した。その鎮撫の総帥として宮廷武官の坂上田村麻呂がえらばれた」
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