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孫武の軍才

 『史記』の「孫子呉起列伝」には、大兵法家だった二人の孫子が出てきます。一人は春秋時代の呉に仕えた孫武であり、もう一人は戦国時代の斉に仕えた孫臏(そんびん)です。孫臏は、孫武の子孫だとされます。ここでは孫武のあるエピソードをご紹介します。
 
―― ある時、孫武は、彼の著による『孫子』を耽読した呉王の闔閭(こうりょ)に招かれた。そして「私の側室である女性たちで軍隊を編成してみよ」との命を受け、孫武は、王の愛妾二人を隊長に指名し、官女ら180名を兵士に見立てて部隊を編成しようとした。しかし、彼女らは、孫武の指示に一向に従おうとしない。

 すると孫武は、「まだ私の命令の内容が、皆によく理解されていなかったようだ。命令への理解を欠いたまま兵に不明確な指示を出してしまったのは、指揮官である私の落度である」と言って、指示の内容を何度も繰り返し説明し、再び指示を出した。

 それでも女性たちは、相変わらず孫武を馬鹿にし、ただ笑っているだけだった。すると孫武は、「私は編成の取り決めを再三説明し、皆に申し渡した。命令が全軍に行き届かないことや指示の不明確さなどは私の落度だが、今は指示も命令も間違いなく行き渡っているはず。それなのに誰一人命令に従わないのであれば、その隊長たる者に、軍令に背いた責任を問わねばならない」と言い、隊長である二人の愛妾を斬ろうとした。

 その様子を見て驚いた闔廬は慌てて、「私の落度だ。私に免じて彼女らを許してやってくれ」と止めようとしたが、孫武は、「一たび将軍として命を受けた以上、軍中にあっては、たとえ君主の意向といえども従いかねることもございます」と言って、隊長と定めた闔廬の愛妾を二人とも斬ってしまった。

 そうして残った女性たちの中から新たな隊長を選び練兵を行うと、今度はどのような指示にも背こうとする者は一人もいなかった。

 この成り行きに、闔廬は甚だ不興であったものの、以後、孫武の軍事の才の非凡さを認め、正規の将軍に任じた。その後、呉は隣国の楚を破り、その都にまで攻め入り、北方では斉、晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめた。それらの功績は孫武の働きによるところが極めて大きかった。――


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遠い親戚よりも近くの他人

 戦国時代には、「遠交近攻(えんこうきんこう)」策をとる諸侯が多くありました。遠交近攻策というのは、秦の昭襄(しょうじょう)王のとき、宰相の范雎(はんしょ)が進言した外交政策です。隣国を越えて遠方の国を攻めるのは効果がなく、逆に遠方の国とよしみを結び、隣国を攻めるべきことを説いたものです。いざというときには、敵の後方を脅かしてもらえるという算段もあるのでしょう。
 
 そこで魯の穆公(ぼくこう)も、子供たちを、西方の遠国である晋や南方の遠国である楚に仕えさせて、よしみを結んでいました。隣国の斉との関係がよくなかったので、それに備えてのものでした。ところが、ある家臣がこの外交策に反対して言上しました。
 
「たとえば、いま子供が溺れようとしているとき、水泳の達人がいるという遠い越の国から助けにきてもらっても、とうてい間に合わないので子供は溺れるでしょう。火事が起きて、遠い海から水を運んできて消そうとしても、その間にどんどん火の手は広がるでしょう。晋と楚は強国には違いありませんが、あまりに遠すぎます。決して斉の脅威の妨げにはならないでしょう」
 

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一般常識のまとめ

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故事成句

蛇足(だそく)

無用の長物のこと。余分なもの、なくてもよい無駄なもののたとえ。

戦国時代、楚の神官の召使たちが酒をもらったので、皆で蛇の絵を描き、最初に描き上げた者が酒を飲もうと競争した。真っ先に描き終わった人が、自分の速さを自慢して「私はまだ足まで描くことができる」と言って描き加えたため、蛇の絵ではなくなってしまい、他の者に負けて酒を飲みそこなったという故事から。

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