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信長の葬儀

 本能寺の変で自害したとされる織田信長の葬儀は、豊臣秀吉の主宰によって、京都の大徳寺でしめやか且つ盛大に行われました。1582年10月15日のことで、本能寺の変から約4ヵ月を経ていました。しかし、信長の柩やそれを乗せる輿は金銀、宝玉できらびやかに飾られていたものの、肝心の信長の遺体はその柩には納められてはいませんでした。

 1万3,000ともいわれる明智軍に包囲され、本能寺が火に包まれると、「もはやこれまで」と観念した信長は、自ら命を絶ったとされています。しかし、彼の遺体は現在に至るまで発見されていません。当時、明智軍は、信長の首を鴨川河原にさらすため懸命に探しましたが、見つけることができませんでした。山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉も信長の遺体を探索させましたが、やはり見つかっていません。

 しかし、それがかえって秀吉にとって幸いしたとも言えます。もし光秀が遺体を発見していれば、あるいはその後に見つかっていたら、葬儀の形はもとより、ひょっとして天下取りの行方も変わっていたかもしれません。そこを突いた?秀吉は、信長の遺体の代わりに、高価な香木の沈香によって二体の等身大の木像を作らせました。うち一体を信長の遺体代わりに棺に納めて焼き、その灰を遺骨に見立てて大徳寺総見院に埋葬、残り一体は寺に安置されました。

 秀吉にとって、葬儀の形はどうあれ、こうして信長を手厚く葬ることが、次代のリーダーとして天下統一に向かうために不可欠な大デモンストレーションだったのです。つまり、織田家内の覇権を確立したのは自分であると認めさせる、またとないアピールだったわけです。

 その意図が誰の目にも明らかでしたから、秀吉を嫌う人たちは、信長に近い人々であっても、ほとんどこの葬儀に参列していません。長男の信忠は、本能寺の変のとき、二条御所で防戦した末に自害しましたが、生き残った次男・信雄も三男・信孝も参列しませんでした。また、柴田勝家などの重臣も、いっさいこれを無視しました。ただ、四男・秀勝が名目上喪主とされ参列しましたが、このときはすでに秀吉の養子という立場にありました。

 葬儀に先立ち、秀吉は大徳寺に多額の作善料(お布施)を寄付、寺の近辺の土地の権利も与えています。また、朝廷に働きかけ、信長に従一位太政大臣という官位の追贈を得ていました。葬儀には、京都中から公家や僧侶をかき集め、総勢3,000人に及ぶ葬列を組み、また、信雄や信忠らによる妨害も想定されたため、秀吉の弟・羽柴秀長を筆頭とした3万もの兵が警護しました。

 葬列にはおびただしい数の見物人が押し寄せ、多くの民衆が、信長の後継者が秀吉であるのを認識したといいます。これにより織田家の分裂は決定的となり、秀吉はこの翌年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り滅亡させ、信雄を利用し信孝を自害に追い込み、さらに信雄や家康との争いを制すると、一気に天下統一を手中にし、その野望を実現します。

信長の子孫たち

 天下統一が目前だった織田家の運命は、本能寺の変で一変したわけですが、信長と嫡男・信忠が自害した後に生き残った信長の子供は、25歳の次男・信雄を筆頭に3男の信孝ほか11男の長次まで9人もいました。このうち3男・信孝は、まもなく秀吉や兄・信雄と争って自害。その後も織田家の立場は凋落し、すぐに小さな大名以下に転落、江戸時代を通じて子孫を残せたのは、次男・信雄、7男・信高、9男・信貞の3人だけでした。

 このうち、信雄は表向きは秀吉と結んでいて、関ヶ原の戦いのときも、大坂にあって傍観的態度に終始しましたが、裏では家康に情報を送り続けていたといわれます。大坂の陣では徳川方に転身、そのためもあってか、豊臣氏が滅亡した後は、家康から大和国と上野国で5万石の所領を与えられました。

 この信雄の所領のうち、上野国の2万石は信雄の3男に分与されましたが、約150年後に出羽の高畠に転封させられ、それまで信長の子孫ということで認められていた国主格も廃されてしまいました。その後、子孫は天童に移り、明治維新で子爵を授けられました。

 一方、大和国の遺領3万1200石は信雄の5男が受け継ぎましたが、その子孫が理由もないのに家臣2人を殺し、それが幕府に知られて動揺し自殺するという騒動を起こしました。幕府は、その子孫への相続は認めましたが、現在の兵庫県氷上郡内2万石へ減封させ、こちらも国主格を剥奪しました。明治維新でやはり子孫が子爵を授けられています。

 かつて織田家の家臣だった前田家や細川家が大大名として残ったことと比べると、織田家の2、3万石というのは、大名としては最低クラスです。あまりに惨めな転落ぶりでした。さらに信長の7男、9男になるともっと悲惨で、7男の信高は近江国内で2000石、9男の信貞も同じ国内で700石を与えられていたにすぎません。要するに、普通の武士として江戸時代を過ごしたわけです。

 ちなみに、信長の長男の長男、つまり嫡孫だった三法師は、わずか3歳のときに清洲会議で秀吉に担ぎ上げられ、織田家の正統な後継者になることができました。後に秀信と名乗り、岐阜13万3000石の城主になりましたが、関ヶ原の戦いで西軍について敗戦。命は助けられたものの領地を召し上げられ、剃髪して高野山にこもり、26歳の若さで亡くなりました。
 

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織田信長の略年譜

1534年
織田信秀の嫡男として生まれる
1546年
元服し、織田三郎信長を名乗る
1547年
14歳で初陣
1549年
斎藤道三の娘、濃姫を正妻に迎える
1552年
父の信秀死去により家督相続
1558年
弟の信勝を暗殺
1560年
桶狭間の戦いで今川義元を討つ
1568年
室町幕府15代将軍・足利義昭を擁して上洛
1571年
比叡山延暦寺を焼き討ち
1573年
足利義昭を追放
1574年
長島一向一揆を鎮圧
1575年
長篠の戦いで武田勝頼を討つ
1576年
安土城の築城開始
1581年
京で、織田軍を総動員した京都御馬揃えを催す
1582年
本能寺の変で、自害。享年49


(織田信長)

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