とことん対等外交

隋の煬帝が怒ったという、聖徳太子からの「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の手紙の件は有名ですね。皇帝は手紙を読み始めたとたん「このような野蛮国の無礼な手紙が来ても、これからは私に見せるな」と臣下に言いつけたそうです。中国の文献に記録された“日本からの手紙”が原文で残っている稀有な例で、たいていは、皇帝が喜ぶように役人によって改ざんされるのが常だったといいます。
いずれにしても、当時の東アジアにおいて、中国の皇帝に対等に渡り合おうとする気概を持ったのは日本人だけでした。すばらしいですね、わがご先祖様。まーでも、こんな書き出しの手紙を受け取ったら、煬帝でなくても気を悪くしたのではないでしょうか。ただ、最近の研究によれば、煬帝を怒らせたのは「日出る」「日没する」の部分ではなく、「天子」という言葉だったのではないかとも言われています。
そして、聖徳太子が二度目に煬帝に送った手紙は、次のような書き出しとなっています。
「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」
「日出る」が単に東に変わっていますね。さらに「天子」が「天皇」に変わっています。実はこのころに、日本に「天皇」という称号が確立したようなのです。隋との国交が開始されるまでは、日本の外交は朝鮮との間にあるだけで、朝鮮の「王」に対し、日本は格上の意識から「天王」としていました。ところが、隋には「皇帝」がいました。そして「皇」とは「王」の上に君臨するものと分かったのです。そこで、日本は「天王」をただちに「天皇」に変更したというわけです。まー負けず嫌いというか・・・。
二度目に再び煬帝が怒ったかどうかは定かではありませんが、その後も遣隋使が続きましたから、「天皇」の呼称は受け入れられたのでしょう。あくまで中国と日本を対等な関係にするという信念を貫いた聖徳太子ですが、その裏には隋に対する太子の深い読みと勝算があったともいわれます。当時の隋は、朝鮮北部の高句麗との戦争にてこずっていました。その戦争を有利に運ぶために、隋はきっと日本を味方にしておきたいはずだと踏んだのです。さすがは聖徳太子です。

冠位十二階
冠位十二階は、 603年に日本で初めて定められた冠位・位階制度で、聖徳太子が高句麗・百済など朝鮮諸国の冠位制度を参照して作りだしたといわれます。ただし、当時権力をにぎっていた大臣の蘇我馬子らが、施行範囲や運営などについて関与したことは十分考えられます。
具体的には、徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12階とし、それぞれに合う冠を授けることとしました。冠の材質はあしぎぬ(絹織物の一種)を基本とし、頂部は袋状にして縁をつけました。位階の違いは徳の紫以下、青・赤・黄・白・黒の色で表し、大小の冠の違いは色の濃淡で表現され、身分の差がひと目で区別できました。
この制度は、5世紀後半からの中央集権化策の一環で、朝廷につかえている氏族員を官僚に転身させることを目的としました。氏族制度下では氏族ごとに特定の職を世襲するので、個人の才能を発揮する場面も限られ、その能力が問われることもありませんでした。
しかし、この新たな制度では、冠は氏族にではなく、個人の実務能力を評価して与えられました。能力次第でさらに冠位を上げることができるため、格の低い氏族の出身者でも、理論上は大氏族の氏上(うじのかみ)の上位にたてました。天皇家や朝廷の高官の役にたてば上昇し、失敗すれば落とされる可能性もありました。
ただし、これをいっせいに施行すれば混乱を招くため、蘇我氏のような有力豪族は授位の対象としませんでした。律令制下でいう四位〜八位の範囲の官人層を対象とし、大化の新冠位制まで約40年かけて授けていきました。ほとんどは当時の氏族の格付けと一致していたので、画期的なものとはいえません。しかし、遣隋使の小野妹子は大礼から大徳まで冠位を4階あげており、朝廷内でしだいに認識が深まったと思われます。
冠位は647年には13階になり、19階・26階・48階をへて律令制下の30階に落ち着きますが、その源流としての意義はとても大きいといえます。
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仏教の伝来
仏教は、538年に百済の聖明王から欽明天皇に伝えられた(公伝)とされますが、これ以前からも渡来人の間で私的に信仰されていました。その多くは朝鮮半島の人間であり、彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する人たちがありました。そのころから、すでに仏像や仏典ももたらされていたようなのです。
そうして、欽明天皇が聖明王から献上された仏像をご覧になった時、「私も、この柔和な面立ちの仏像を拝んでみたらどうであろうか」とおっしゃいました。これを聞いた開明派の蘇我稲目は喜んで、「西の諸国は、みなこれを礼拝しています。日本の国だけがどうして背くことができましょうか」と答えました。
しかし、朝廷の中には原始神道の神事に携わっていた士族が多く、とくに国粋派の物部尾輿と中臣鎌子は、「わが国において帝位にある者は、つねに天地国家の百八十の神々を、春夏秋冬、祀り拝むのがお仕事です。今になって外国の神を新しく拝むならば、日本のカミの怒りを招いてしまいます」と反対しました。これをお聞きになった天皇は、日本の神々の怒りに触れては大変と、拝仏は取りやめ、その仏像を稲目に預け、勝手に京都あたりでの流布を試みてみよとお命じになりました。
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蘇我入鹿は逆賊か?
蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿は、仏教を日本に根づかせ興隆に努めた人物です。鎌倉時代に書かれた仏教史の解説書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』には、蘇我氏が初期仏教に果たした功績は大であると記されており、江戸時代には、奈良県橿原市にある入鹿神社の近くに、「蘇我入鹿公御旧跡」と刻まれた道標が大阪の人の寄進によって建てられています。
入鹿の青少年期は武人肌で、頭脳も明晰だったといいます。『藤原家伝』という文献に、塾を開いていた学僧が、生徒の一人だった入鹿のことを「わが堂にあって蘇我太郎(そがのたいろう:入鹿の別名)に及ぶ者なし」と評したとあります。
そんな入鹿に悪者というイメージが植えつけられたのは、実は明治時代になってからです。天皇中心の中央集権国家を構築しようとする明治政府によって、天皇に弓を引こうとした反逆者として担ぎ出されたわけです。その根拠は『日本書紀』にあり、乙巳の変で入鹿が暗殺されたときのようすが書かれています。
645年6月12日、飛鳥板葺宮で三韓の朝貢の上奏文を奏上する儀式が執り行われていたこの日、皇極女帝の面前で、入鹿は中大兄皇子・中臣鎌足らの暗殺者に襲われました。斬られる直前、入鹿は皇極天皇の御座にすがりつき、「私に何の罪があるというのですか。どうか、お裁きを」と訴えたことが記録されています。
驚いた皇極天皇が中大兄皇子に問いただすと、中大兄はすかさず「鞍作臣(入鹿)は皇位をうかがっています。天(あま)つ神の御子の位に鞍作臣ごときがついてよいものでしょうか」と答えました。それを聞いた皇極天皇は黙ってその場を離れたといいます。入鹿の亡骸は無残にも庭に放置され、入鹿の父・蝦夷はこの報を聞き、邸宅に火を放ち自害しました。
しかしながら、入鹿が皇位をねらっていたことを示す言動は、他には何も伝わっていません。『日本書紀』のみがそれを記しているのですが、「乙巳の変」の勝者は中大兄皇子(天智天皇)であり、その中大兄側が書き残したのが『日本書紀』です。
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