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天皇の母の夫になった義満

 室町幕府の3代将軍・足利義満が、平清盛に次いで武士で二人目の太政大臣となり、さらにあろうことか、天皇の母の夫、すなわち「天皇の父」になろうとしたいきさつは次のとおりです。

 応永13年(1406年)、後小松天皇のご生母が病気にかかり、重篤な状況に陥りました。そのとき、義満は「天皇のご生母にもしものことがあれば、後小松天皇ご一代のうちに二度の諒闇(りょうあん)を行うことになる。これは極めて不吉である」と言い出しました。

 「諒闇」というのは、中国において天子が父母の喪に服することを意味しました。ふつうは、父の天子が亡くなってから即位しますから、天子が二度の諒闇を行うことはありません。しかし、上皇というものがあり父の存命中の即位があった日本では、二度の諒闇を行う前例はありました。

 そして義満は、関白の一条経嗣に「どうしたらよいか?」と問いました。義満のイエスマンだった一条は、ここで義満の真意に沿った回答をせざるを得ません。そこで経嗣は、「南御所(義満の妻)を准母(国母の代わり)にすればよいと思います」と答えたのです。義満は大いに喜びました。しかし経嗣自身は、おべっかからそう答えたことを恥じ、「ああ悲しいかな」と日記に書いています。

 こうして義満の妻は、後小松天皇から「朕(ちん)の准母なり」という詔書をもらいました。かつて藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして権力を維持してきましたが、義満は自分の妻を天皇の母にしたのです。「天皇の母の夫」となった義満には、天皇ご自身も義満をさらに丁重に遇せざるを得なくなり、これまで上皇や法皇にしか認められなかった先例が、義満に対しても数多く適用されたといいます。尊号も検討され、かねて太上天皇の尊号を望んでいた義満でしたが、さすがにそれはかないませんでした。

足利義満による中国との国交回復

 足利義満が室町幕府の3代将軍となっていた1368年、中国大陸で政局の大変動がありました。元帝が北に追われ、朱元璋(しゅげんしょう)が今の南京で即位し、太祖洪武帝となって明王朝を開いたのです。

 洪武帝はすぐに高麗や日本に使者を送り、朝貢を要請しました。日本にとっては元寇以来途絶えていた中国からの使者でしたが、その国書は大宰府の懐良(かねなが)親王に届けられました。当時の日本は南北朝が分裂しており、九州は懐良親王が属する南朝勢力の支配下にありました。日本の事情を知らない使者は、親王が日本の代表であると思い込んでおり、中国側の記録にも「国王良懐」とあります。

 それを知ってあわてた義満は、ただちに中国に使者を送りましたが、二度までも入国を拒否されてしまいます。困ったことになりましたが、そうこうするうちに洪武帝が死に、日本でも南北朝が合一されたために情況は変わりました。また、西国の有力守護大名の大内義弘を倒したことで、いよいよ義満も明との国交に前向きになりました。博多商人から対明貿易が莫大な利益を生むことを聞かされていたからです。

 1401年に義満が明帝に送った国書は、「日本准三宮道義国書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」で始まり、好(よしみ)を通じたいと願い出ました。翌年に使者が持ち帰った明帝からの返書には「日本国王源道義」とあり、中国の暦を奉ずると述べられていました。それは、明帝の冊封体制に入ったことを意味するものでした。

 1403年には永楽帝の即位を祝う使者を送り、そのときの国書は「日本国王臣源表す」という書き出しでした。これを喜んだ永楽帝は、義満に明の冠服と亀紐(きちゅう)の金印を贈り、また100通の勘合符を発行して、10年に1度の朝貢を認めました。義満は国内の支配権確立のために膨大な資金力を要していたため、名分を捨て実利をとったということでしょうか。この屈辱的な貿易のあり方はやはり問題視され、次の4代将軍・義持によって停止されています。
 

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室町幕府の将軍

  1. 足利尊氏
  2. 足利義詮
  3. 足利義満
  4. 足利義持
  5. 足利義量
  6. 足利義教
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  8. 足利義政
  9. 足利義尚
  10. 足利義材
  11. 足利義澄
  12. 足利義晴
  13. 足利義輝
  14. 足利義栄
  15. 足利義昭


(足利義政)

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