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家康が最も愛した側室「阿茶局」

 徳川家康が生涯にもった正室と側室の人数は21人ぐらいだったといわれます。織田信長が10人ぐらい、豊臣秀吉が17人ぐらいだったのと比べると多いのですが、信長が49歳、秀吉が61歳で亡くなったのに対し、家康は75歳まで生きましたから、それなりに人数が多くなるのも当然でしょう。決して家康がいちばんスケベ?だったわけじゃない。

 戦国時代は、同盟強化のため政略結婚が多かったとはいえ、側室は自分の好みで選ぶことが多かったようです。たとえば秀吉は、出自のコンプレックスがあったためか、名門育ちの美人を好み、とくに出世してからは生娘にこだわったとか。一方、家康はというと、晩年を除いては未亡人が多く、さらに出産経験者も多数含まれていました。この理由は、少しでも多くの子孫を残すのを優先したためだとされます。一度でも出産した経験がある女性なら安心と考えたのでしょうか。

 そんな中、家康が生涯にわたって最も愛した側室は「阿茶局(あちゃのつぼね)」だといわれます。家康が阿茶局を側室に迎えたのは、1579年のこと。信長の命によって、正室の築山殿と長男・信康を殺害せざるを得なくなった年と同じ年のことでした。この時、家康38歳、阿茶局25歳。どのような経緯で家康の目に留まったのかは不明ですが、まさに悲痛の只中にあったときに、家康は阿茶局に出逢ったのです。

 阿茶局は、もともと甲州武田家に仕えていた飯田直政の娘で、本名は須和、19歳で今川氏の家臣・神尾忠重に嫁ぎ二男をもうけたものの、その後に忠重が亡くなってしまいます。つまり、この時の阿茶局は「未亡人」かつ「出産経験あり」の女性となっていたのです。また彼女は、弓術と馬術に優れていたといいます。しかも戦場に幾度となく同行し、馬にも乗っていたそうですから驚きます。武家生まれの女性が武芸を習うのは当たり前だったとはいえ、戦場の前線に出て働くためではありません。あくまで籠城に備えてのこと。阿茶局の実力はかなりのものだったようです。

 さらに彼女が優れていたのが、政治力というか、とりわけ外交能力、折衝力です。『徳川実記』には、阿茶局について次のような記述があります。

「阿茶の局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた御陣中にも召具せられ、慶長十九年、大坂の御陣にも常高院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して御和睦の事ども、すべて思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし」

 阿茶局を評するに際し「才略」「才覚」という、この上ない褒め言葉が使われています。側室というより側近、女参謀という風情で、ここにある「大坂の陣(1614〜15年)」では、阿茶局は次のような関わりを見せています。まず、この戦いのきっかけになった「方広寺鐘銘事件」。家康の勧めによって豊臣方が建てた方広寺の鐘銘にイチャモンをつけたあの有名な事件ですが、弁明のためにやって来た豊臣方の家臣・片桐且元らと対面し交渉を引き受けたのが、阿茶局でした。

 さらに「大坂冬の陣」後に、本多忠純とともに和睦交渉を行ったのも阿茶局だとされます。それまで難攻不落の城と名高い大坂城だったわけですが、その堀を埋めることに成功、そして落城へと導きます。これも「大坂冬の陣」の和睦があったればこそといえます。「大坂夏の陣」では家康の陣が真田信繁に肉薄されましたが、そのときも阿茶局は家康のそばにいて家康を守ろうとしたといわれます。これらの功績により、阿茶局は、徳川重臣からも一目置かれる存在となっていきます。

 そうして徳川による支配を確固たるものにした家康でしたが、その翌年に死去。側室たちも剃髪してその座から引き下がるのが通例ですが、阿茶局ただ一人はそれが許されませんでした。彼女の才を惜しんだ家康の遺言によって、政治の表舞台の場に留め置かれたのです。また、2代目の若い秀忠には、彼女の政治力、才覚が必要だとの判断もあったようです。秀忠にとって、阿茶局はもともと母代りでもあった存在です。秀忠の実母が亡くなって、家康は阿茶局に秀忠を養育させてきたのです。

 1620年、秀忠の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇の女御として入内、天皇家に嫁ぐことになりました。このとき、阿茶局は母親代わりとなって和子に随行。その後も和子が懐妊、出産のたびに上洛し、あれこれ尽力しました。その功により天皇から「従一位」という、臣下の女性として最高位の官位を賜っています。和子にとってもまた阿茶局はかけがえのない存在だったのでしょう。

 そんな頭抜けた大出世を遂げた阿茶局がようやく剃髪を許されたのは、秀忠が死んだ後になってからでした。号は「雲光院」。そして、1637年、83歳でこの世を去ります。家康との間に子はできなかったものの、家康の死後、21年も生きて徳川家のために尽くしたのでした。彼女は、まさに「デキる男」が見初めた「デキる女」ではなかったでしょうか。

 なお、家康には他の側室のなかに「茶阿局」という女性がいましたが、文字がひっくり返った全くの別人ですので、混同なさらぬよう。

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阿部忠秋の奇行?

 阿部忠秋は、9歳のときから後の3代将軍・家光の小姓となり、やがて大名となり老中にも抜擢された人物です。ただし、とても変った男で、捨て子を何十人も拾ってきて養い、男子は自分の家来にし、女子はそれぞれ嫁がせるという妙なことをしていました。ある人が、

「そんなことをすると、ますます殿様のお屋敷の近くや、殿様が通りそうなところに捨て子をする者が増えるではありませんか」

といって諌めました。ところが忠秋は、

「何を馬鹿なことを言う。親が子を捨てるのはよくよくのことだ。そういうよくよくの状況に陥った者が、自分なら救ってくれるだろうと思って捨てるなら、拾って養ってやってもよいではないか。それに捨て子が出るのは政治に問題があるからであって、政治に携わっている自分がそれをいくらかでも救うのは当然ではないか」

と言ってたしなめたといいます。また忠秋は、慶安の変の事後処理で、浪人の江戸追放策に反対して彼らの就業促進策を主導し、社会が混乱するのを防ぎました。その見識と手腕を、明治時代の歴史家・竹越与三郎は、「酒井忠勝・松平信綱などはみな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」と高く評価しました。

 また、家光の異母弟で、家光と家綱を補佐してきた保科正之は、ある時、忠秋について近臣にこう語ったといいます。

「昔から、執権の家には多くの人々が列をなし出入れが絶えないものだが、豊後守(忠秋)の家がいつも静まりかえっているのは、彼が権力に驕ることがないからだろう。大猷院様(家光)が幼い家綱様の傅役に選ばれたのは篤実な人柄があってのことだろう、さすがである」

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徳川家康の略年譜

1542年
岡崎城主・松平広忠の長男として生まれる
1548年
織田信秀の人質になる
1549年
父の広忠が死去。今川氏の人質になる。
1555年
今川義元のもとで元服
1557年
義元の姪・築山殿と結婚
1560年
桶狭間の戦いに出陣。義元が討たれたのを機に独立
1562年
織田信長と清州同盟を結ぶ
1566年
三河国を統一。徳川家康と名乗る
1572年
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1575年
長篠の戦いで、織田信長とともに武田勝頼に勝利
1579年
信長の命により、築山殿と長男の信康を殺す
1582年
本能寺の変
1584年
小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に勝利
1586年
上洛して秀吉に謁見
1590年
小田原征伐に参戦。
1590年
秀吉から関東への移封を命じられる
1598年
豊臣政権における五大老の筆頭となる
1598年
秀吉が死去
1600年
関ケ原の戦いで西軍に勝利
1603年
征夷大将軍に任じられ、江戸で幕府を開く
1605年
将軍職を三男の秀忠に譲る
1614年
大坂冬の陣
1615年
大坂夏の陣。豊臣氏を滅ぼす
1616年
駿府城にて死去(享年75)


(徳川家康)

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