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瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず

 戦国時代、斉(せい)の威王(いおう)が即位して9年になりましたが、国内はいっこうに治まらず、国政は佞臣の周破胡(しゅうはこ)が牛耳り、悪政をほしいままにしていました。破胡は、有能な大夫の即墨(そくぼく)を誹謗する一方で、愚鈍の阿(あ)大夫を誉めそやしていました。

 威王の妃の虞姫(ぐき)は、破胡のやり方を見かねて威王に訴えました。「破胡を遠ざけるべきです。斉には北郭(ほっかく)先生という賢明で徳の高いお方がいらっしゃるのですから、そういうお方をお用いになった方がよろしゅうございます」

 ところが、これを聞きつけた破胡は、逆に虞姫を陥れようとして、虞姫は北郭と密通していると讒言(ざんげん)しました。王は九層の塔に虞姫を幽閉し、役人に追及させました。破胡はあらかじめその役人を買収していたので、その役人はあることないことをでっち上げ、虞姫を罪におとそうとしました。しかし、王は、どうも腑に落ちないところがあり、自ら虞姫の取り調べにあたりました。虞姫は、こう答えました。

「私はこれまで王に貞節を捧げてまいりましたが、佞臣の讒言によってこのようなありさまになったことは残念でなりません。私の潔白なことははっきりいたしておりますが、手抜かりがなかったとは申せません。その手抜かりとは、『瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず』という心得を忘れ、疑われることを避ける努力をしなかったことです。さらに言えば、九層の塔に閉じ込められましても、誰一人、私のために申し開きをして下さる人がいなかったという至らなさでございます。
 私はたとえ死を賜りましょうともかまいませんが、破胡どもの悪政を正すことだけはお願い申し上げます」

 虞姫の真心にふれた威王は、にわかに夢のさめる思いがしましたた。そして、周破胡と阿大夫を処刑し、即墨を万戸をもって封じて内政を整えました。それからの斉は平穏となり、大いに治まったということです。


※「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」
 『古楽府・君子行』より、瓜の畑の中で靴を履き直すと、瓜を盗むと疑われる。また、李すももの木の下で冠を被り直せば、李を盗むと疑われるということから、人に疑われるような事をしてはならないという戒め。

宮城谷昌光さんの言葉

 古代中国のヒーローたちを描いた作品で有名な歴史小説家・宮城谷昌光さん。その数多い作品の随所にちりばめられている、宮城谷さんならではの名言・至言をご紹介します。



  • 勇気とは、人より半歩すすみでることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです。
  • 徳は、生まれつき、そなわっているものではない。積むものだ。足もとに落ちている塵をだまってひろえ。それでひとつ徳を積んだことになる。
  • まえをみすぎれば足もとがおろそかになる。足もとをみすぎればまえがおろそかになる。人の歩行はむずかしい。
  • 無益なことはかならずしも無意味ではない。むなしいとおもわれることに真剣にとりくむことによって、かえってその人の純粋さが、如実にあらわれることがある。
  • 君子はその志を得るを楽しむものです。小人は事物を得るを楽しむものです。
  • 本当の成功とは、はるかかなたにあると同時に、いまここにもある。(中略)持続するいまがなければ、成功という未来はない。
  • 孫子は速成を嫌った。人より速く歩いてみせようとする者は、間道を選ぶうちに、結局、大道を見失って迷ってしまう。
  • 私は侈(おご)っている者を烈しく憎まない。なぜなら、侈っている者は自ずと滅ぶ。が、怠けている者はどうか。私は怠けている者を最も憎む。
  • 人は、失うまい、守ろう、とすると、うす汚いことを考えるようになる。何もないことが、聖人への道。
  • 知識の豊羨さを誇っている者にかぎって、危機存亡のときに、うろたえて何もできぬ。知識を活用することのできる心身をもたぬからである。
  • 花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を引くほど咲き誇れば人に手折られやすい。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。
  • つねに自分の心身を鍛えていない者は、環境の激変にぶつかると、かえって思考が停止するか、暴走するものである。
  • 人を欺くことは、同時に自己を欺くことで、そこにも真実がある。つまり、虚に思われるところにも実はあり、実であるところにも虚はある。
  • 君主は自分の喜怒哀楽を民におしつけてはならず、民を喜ばせる存在に徹するべきであり、それも民の喜びを自分の喜びとしなければならない。それができぬ王は、いかなる大国の王でも、名ばかりの王であり、民の支持をえられない。
  • 政治とはおもいやりである、と極言してもよい。政治能力のなさとはおもいやりの欠如である。
  • 君主とは孤独を生きる人をいう。孤独に身を置かなければ、群臣と国民とが納得する聴政をおこなえるはずがない。君主が人でありすぎることは不幸なことである。
  • 人は生まれつき均しくない。それがわかっていながら平等感を欲している。ところが、人は平等でありたいと思いつつ、自分だけは特別であるとおもっている。
  • 何かを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
  • 仁は愛であり、人への思いやりであるが、もっといえば、人とはこうありたいという理想の人格が仁なのである。
  • 不運な者は、幸運を分けてもらいたくて、幸運な者に近づこうとするが、かえって不運になる。不運な者が幸運をつかむためには、同じ不運な者を探せばよい。
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
  • 文どの、人生はたやすいな。人を助ければ、自分が助かる。
  • 大業を目指す者が、最も恐れねばならぬものは、人ではなく、時である。
  • 長の器量は左右に侍る者の良否で、大きくもなり小さくもなる。すべてを自分でおこなおうとしてはならぬ。自分をおぎなってくれる者をさがし、いちど信頼したら、疑ってはならぬ。また、いちど決断したら、すぐに言をひるがえすようなことはしてはならぬ。長とは、そういうものだ。
  • 人には弱さと強さとが同居し、両者が争うと、おのれを失う。強さが弱さをいたわり、弱さが強さをつつしませるようになれば、豁然とするときがくる。
  • 人になにかしてやるというのは、自分なりの善意の表現であり、それで満足すべきであり、恩を返しててもらおうとわずかでも思えば、自分の善意がけがれる。
  • あなたには、いま、がない。いまのない者に、どうして将来があろう。
  • 正と邪が戦えば、かならずしも正が勝つわけではない。それゆえ負けたから邪であり、勝ったから正であるとはいえぬ。だが、善人にしろ悪人にしろかならず死ぬ。それなら、正をつらぬいて死んだほうがよいではないか。
 

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故事成句

貧者一灯(ひんじゃのいっとう)

貧しい者の心のこもった寄進は、金持ちの虚栄による多量の寄進よりも価値があること。まごころの貴いことのたとえ。「長者の万灯より貧者の一灯」の略。

古代インド、マガダ国の阿闍世王(あじゃせおう)が、仏のために宮門から祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)まで万灯の明かりをともして飾った。ある貧しい老女が仏に献じようと、苦しいなかから都合して一灯をともした。王の万灯は消えたり、油が切れたりしてことごとく消えたが、老女の灯明だけは終夜燃え続けたという故事による。

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