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関東大震災での救援活動

 平成7年(1995年)に起きた阪神・淡路大震災、また平成23年(2011年)に起きた東日本大震災では、甚大な被災状況のなか、大勢のボランティアや各国の救援活動が活発に行われました。これらと同じようなことは、今から100年近く前の大正12年(1923年)に起きた関東大震災の時にもありました。

 関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾を震源として発生した大地震で、東京・横浜は壊滅状態に陥りました。地震の規模はマグニチュード7.9、死者・行方不明者14万人強、全半壊家屋25万戸、焼失家屋44万戸という甚大な被害が出ました。

 地震の直後から、東京帝国大学(現在の東京大学)、東洋大学、第一高等学校の学生たちが救援活動に携わりました。彼らは、上野公園や大学構内に避難している人々に対して炊き出しを行い、自治組織をつくるように呼びかけました。今でいう情報ネットワークの「東京罹災者情報局」を設け、東京市や警察と協力して、全市にわたる避難者や死傷者の名簿を作成、また、歩いて調べた焼失区域地図をつくって新聞に発表しました。その3カ月後には、東京帝大セツルメントがつくられました。セツルメントとは、学生や知識人らが労働者街やスラム街に入り込んで救助活動を行ったものです。

 また、アメリカ、中国、ソ連、ベルギー、フィリピンなど諸外国からも多くの救援物資が届けられました。なかでも注目すべきは中国からの救援活動でした。そのころの中国といえば、日本の二十一か条要求に対して五・四運動が起こり、対日抗争が激化していた時期です。それにもかかわらず上海や奉天の反日新聞が救援活動を呼びかけるなど、官民あわせた救援活動が起きたのです。こういう事実を窺い知りますと、この後に世界情勢がどんどん悪化していったことが何ともやるせない気持ちになります。

コレラ、大流行!

 伝染病が世界的に流行しだしたのは19世紀になってからだとされます。人とモノの国際的な交流が活発化してきたからであり、その19世紀はじめに世界的な大流行をみせたのが、もともとインドの風土病だったコレラです。

 日本ではじめてコレラが流行したのは1858年(安政5年)のことです。長崎から全国に広がったコレラは当時は「コロリ」とよばれ、多くの犠牲者を出しました。明治に入っても、1877年(明治10年)、79年に流行し、79年には死者10万人を突破するほどの猛威をふるいました。さらに1895年には軍隊内で流行し、4万人が死亡しました。

 当時の日本には、外国船に対して検疫を行う権限がありませんでした。船舶への検疫規制を通知してもまったく無視されたのです。こうしたことからも、領事裁判権の撤廃を求める声が強くあがりました。けっきょく、明治年間のコレラによる死者の数は、日清・日露両戦争における死者を上回りました。

 コレラ患者は、各地につくられた避難病院に強制的に収容され、隔離されました。病院の建物には「虎死刺(コレラ)」の3文字を記した黄色の旗を立て、人の出入りを厳しく取り締まりました。また。患者を病院に入れるのは「生き肝」をとるためで、死んでも家族との面会を許されないとの流言も生まれ、病院を襲ったり、医者が殺害されるなどの事件も起こりました。
 

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戦後のおもな地震

昭和21年12月21日
南海地震(Mw8.4)
昭和23年6月28日
福井地震(Mw7.0)
昭和27年3月4日
十勝沖地震(Mw8.2)
昭和33年11月7日
択捉島沖地震(Mw8.3)
昭和43年5月16日
十勝沖地震(Mw8.3)
昭和44年8月12日
色丹島沖地震(Mw8.2)
昭和48年6月17日
根室半島沖地震(Mw7.8)
昭和58年5月26日
日本海中部地震(Mw7.7)
平成5年7月12日
北海道南西沖地震(Mw7.7)
平成6年10月4日
北海道東方沖地震(Mw8.3)
平成7年1月17日
阪神淡路大震災(Mw6.9)
平成12年10月6日
鳥取県西部地震(Mw6.8)
平成15年9月26日
十勝沖地震(Mw8.3)
平成16年10月23日
新潟県中越地震(Mw6.7)
平成23年3月11日
東日本大震災(Mw9.1)
平成28年4月16日
熊本地震(Mw7.0)

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