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シーボルトと間宮林蔵

 1823年に来日したドイツ人医師シーボルトが、本国から受けていた本当の任務は、日本の総合的調査研究だったといいます。表向きは長崎出島のオランダ商館付医師という役名でしたが、オランダ側は、その使命について幕府へは簡単にしか伝えず、最新の医学を日本に伝えるため、あるいは患者を診察するため、また薬草を採取するために来たことを強調。シーボルトに、長崎市内を出入りする自由を与えてほしいと請願しました。

 幕府はその申し出を快く受け容れ、本来なら出島に住むべきところ、長崎郊外の鳴滝(なるたき)に彼専用の宿舎をつくりました。シーボルトはそこで、重症患者を献身的に治療、多くの命を救っていきました。評判はたちまち広がり、全国の医者が鳴滝を訪れ、シーボルトの弟子となりました。彼らは、後に医者や学者として活躍しています。

 シーボルトは、日本の情報を収集するために、弟子たちにさまざまな課題を与え、それをレポートにして提出させるという、非常に巧みな方法を用いました。彼が江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ(内情探索官)」と答えたという話もあります。収集した情報のなかには海外に漏らしてはならない極秘情報もありましたが、オランダ語で記されていたため役人にはバレませんでした。

 ところが、持ち出し厳禁となっている伊能忠敬の日本地図を、幕府天文方の高橋景保から贈呈された事実が発覚します。間宮林蔵による密告が発端でした。間宮林蔵といえば、樺太が島であることを確認し間宮海峡を発見した北方探検家として知られる人物です。

 密告を受けた幕府は密かに内偵を進め、1828年、任期を終えて帰国しようとしたシーボルトの荷物から禁制の品々を発見、関係者数十名を逮捕し、シーボルトを国外追放、地図を渡した高橋景保に死罪(実際はすでに獄死)を申し渡しました。

 この高橋は、間宮の師匠筋にあたる人物でした。弟子の間宮がそういう人物を罪人に追いやったのはなぜでしょうか。実は、間宮は幕府の隠密だったのです。彼は有能な隠密で、1832年には薩摩藩の密貿易探査にもあたっています。当時、薩摩藩の隠密に対する警戒は厳重で、生きて戻れる隠密はいないといわれていました。しかし、間宮は襖(ふすま)職人に化けて3年間滞在、無事役目を終えて戻っていました。

 一方、追放されて本国のオランダへ戻ったシーボルトは、政府の援助で日本研究の成果をまとめ、事前に複写していた日本地図を学会で公表しました。そこには間宮海峡が「マミヤ・ノ・セト」として描かれており、樺太が島であるという事実がはじめて確認されました。シーボルトを密告した間宮でしたが、そのシーボルトによって世界に名を知られることとなったのです。

 ところで、間宮の業績に水を差すようで恐縮ですが、実は、間宮海峡を発見したのは彼ではないというのが史実のようです。樺太が島であるというのは、同僚の松田伝十郎がすでに確認しており、それを知った間宮が幕府の許可を得て単身で樺太へ向かい、再確認したというのが事実だそうです。本当は松田海峡?

ゴロウニン事件と高田屋嘉兵衛

 1804年、ロシアの使節レザノフが長崎に入港してきました。その前の1792年に、ラクスマンと江戸幕府の老中松平定信との間で交わされていた国交樹立の約束の履行を求めてきたのです。しかし、その時すでに松平定信は失脚しており、レザノフは長崎奉行所に半年以上も半軟禁状態に置かれたあげく拒絶されたため、その腹いせに、部下に命じ樺太、択捉などを襲撃させました。ロシアに強い不信感を抱いた日本側は、1811年、千島列島を測量中だったロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニンを逮捕、松前へ連行して幽閉するという事件に発展しました。

 これに対してディアナ号の副艦長リコルドが報復措置として、当時、関西と北海道を行き来して利益を得ていた豪商・高田屋嘉兵衛を捕え、カムチャツカへ連行しました。まさに一触即発の事態となりましたが、ここで人質となっていた高田屋嘉兵衛が思わぬ行動に出ました。リコルドに対し、自分がゴロウニン釈放の斡旋をすると申し出たのです。そして、幕府へ謝罪の文書を提出すれば、きっとゴロウニンは釈放されるだろうと説得しました。

 このときカムチャツカ長官に任命されていたリコルドは嘉兵衛を信頼し、自らの官職名で謝罪文を書き、嘉兵衛を伴って箱館で日本側と交渉。嘉兵衛は両国の間に立って事態を収拾、その翌年にゴロウニンは釈放され、事件は円満に解決しました。ディアナ号が箱館を離れる際、その乗組員全員が嘉兵衛に向かって、「大将、ウラー(万歳)!」を三唱、嘉兵衛もこれに応えて、「ウラー、ディアナ!」と叫んだといいます。

 この後、嘉兵衛は外国帰りとの理由でしばらく罪人扱いされましたが、やがて事件解決の功績が評価され、幕府から「蝦夷地御雇船頭」という肩書きを与えられます。晩年は故郷の淡路島に帰り、感慨工事を行ったり港の整備のために寄付するなど、地元のために財を投じました。一方、ロシアに帰国したゴロウニンとリコルドは、これらのエピソードを本にして出版し大反響を呼びました。各国語にも翻訳され、日本に関する最も信頼のおける資料との評価を受け、ヨーロッパ人の「日本人観」に大きな影響を与えたのです。
 

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シーボルトの略年譜

1796年 ドイツのヴェルツブルクの医学者の家に生まれる
1798年 父が死去
1815年 ヴェルツブルク大学に入学し、医学を学ぶ
1822年 オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に任命される
1823年 長崎オランダ商館の医師に任命される
1824年 長崎に鳴滝塾を開く
1826年 商館長とともに江戸に赴く
1828年 楠本たきとの間に、娘のいねが生まれる
1829年 シーボルト事件。国外追放となり長崎を去る
1833年 楠本たき、いねを連れて再婚
1839年 オランダで『日本』『日本動物誌』出版
1840年 『日本植物誌』出版
1845年 ガーゲルン夫人と結婚
1858年 日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトの追放令が解かれる
1859年 再来日
1860年 鳴滝の旧塾あとに住む。娘のいねや昔の門人たちと交流
1861年 幕府から江戸に招かれる
1862年 オランダに帰国
1866年 ミュンヘンで死去(享年70)

なお、娘のいねは父と同じく医学の道を志し、医師として長崎や東京で開業。明治6年(1873)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となって、出産に立ち会いました。


(シーボルトの娘いね)

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