気まぐれな文化人に成長した8代将軍・足利義政は、守護大名を統率しようとする覇気はあまりなかったようです。土一揆や飢饉が頻発し世の中が混乱しても、ひたすら茶・作庭・猿楽などの趣味に没頭していました。増税を行い、徳政令を13回も出して、借金棒引きの手数料として、分一銭(ぶいちせん)という借金の10分の1の金額を納めさせたりもしました。
義政は、妻の日野富子や側室との間に子ができなかったため、弟の義視(よしみ)を養子とし、次期将軍にする約束をしました。ところが、その翌年に富子が男児を産みます。わが子義尚(よしひさ)を将軍にしたい富子と義視の間に争いが起きましたが、義政はこの争いにも何も手を打とうとしませんでした。
この頃は、財産を1人の後継者にすべて譲る単独相続が一般化していたため、家督争いが激化し、守護大名の家督相続には将軍や家臣の意向が影響し、複雑化しました。将軍の補佐役である三管領の一つ畠山氏は、将軍家と同じく養子を迎えた後に実子が生まれ、家督争いが始まりました。同じく三管領の斯波氏でも後継者争いが生じていました。将軍家では、実力者の管領・細川勝元が義視に加担し、四職の1人山名宗全が義尚に味方したため、やがて守護大名を二分する応仁の乱が始まりました(1467年)。
義視側(東軍)は24国16万、義尚側(西軍)は20国11万の兵を集め、当初は義政の支持を受けた東軍が「官軍」と号し、内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と義政を確保するなど、戦いを有利に進めましたが、勝敗を決するところまではいきませんでした。けっきょく、戦闘は断続的に11年も続き、京都は焼け野原となりました。東軍は、京都だけでなく、西軍の大名の領国をも攻めたため、戦乱は九州など一部地域を除く全国に広がりました。
1473年に細川勝元、山名宗全が相次いで病死、義政は義尚に将軍職を譲って隠居しましたが、さらに戦闘は続き、1477年にやっと和議が結ばれ終結しました。幕府や将軍の権威は失墜し、その支配力は山城一国にしか及ばなくなりました。この後、実力本意の下剋上の風潮が一般化し、世の中は戦国時代へと突入します。
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(足利義満)
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