「折檻」は、親が子供を叱って体罰を加えるようなことを意味する言葉ですが、「檻」は欄干、手すりという意味ですから、本来は「手すりを折る」ことです。これには次のような話があります。
紀元前一世紀の後半、前漢の成帝が即位すると、成帝の母である王氏の外戚がたいへんな羽振りを利かすようになりました。その弊害を憂えたある高官が上書し「近ごろは陛下のご命令も行き渡らず、ご威光は臣下に奪われ、王氏外戚の権力が強大化しております。日蝕や地震、水害など天変地異の兆しは、これまでと比較にならぬほど多くなっています。これらの原因はいったいどこにあるのでしょう」と申し上げましたが、成帝からは何の反応もありませんでした。
成帝には、張禹(ちょうう)という師がいました。国の重要な会議にも参加するほど重用されていた人物です。その張禹の邸に成帝が訪れ、上書のことなどを相談しました。しかし張禹は、王一族に憎まれることを恐れ、天変地異のことなど全く気になさる必要はないと答えたのでした。これで王一族の横暴は、ますますひどくなっていきます。するとここに、朱雲(しゅうん)という臣下が、成帝に上書し拝謁を求めて言いました。
「陛下のおそばにある剣を拝領して、悪臣一人の首を撥ね、他の者たちを安心させたく思います」
成帝が「悪臣とは誰のことか」と尋ねると、朱雲は「張禹でございます」と答えました。自分の師を侮辱された成帝は激怒し、朱雲を死刑にせよと命じます。御史の役人が朱雲を引き立てていこうとしますが、朱雲は宮殿の欄干にすがりついて離れず、「たとえ処刑されましても、昔、主君を諫めて死んだ夏の竜逢や、殷の比干らに従って地下に遊ぶことができるのであれば満足です。それよりも、陛下の御代がこれからどうなるか、それのみが気にかかります」と叫び、とうとう欄干が折れてしまいました。
この事態に、左将軍の辛慶忌(しんけいき)が懸命に朱雲の命乞いをしたので、成帝も二人の国を思う臣下の心に感じ入り、これを許しました。その後、欄干を修理しようとしたところ、成帝は、「その折れた欄干は取り換えてはならぬ」と言い、そのままにして、直諫の忠臣、朱雲への感謝の証としたそうです。
わざとのように成帝を激怒させ、死刑にされるのは覚悟の上という朱雲の激しい生き方が、折れた手すりに象徴されます。成帝はそれを見るたびに、厳しい調子で自分の過ちを指摘してくれた朱雲のことを思い出したのです。そこから、「過ちを厳しく指摘する」という意味の故事成語になりました。
〜『漢書』朱雲伝
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