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太公望

 後に太公望となった呂尚(りょしょう)の家の先祖は、元は黄河の氾濫を鎮めて王になった聖人を補佐した人物だったらしいのですが、呂尚のころに落ちぶれていました。若いときから学問に励み、特に兵法の知識を磨いていました。しかし、世渡りは下手だったようで、彼を召し抱える諸侯は現れず、不遇のまま壮年期を過ぎてしまいました。
 
 そんな呂尚の唯一の趣味は釣りで、その日も彼は渭水(いすい)の北岸で釣り糸を垂れていました。そこを通りかかったのが、狩猟帰りの西伯(せいはく)でした。
 
 このときの西伯はまだ殷の重臣の立場にあり、西伯というのは、西方の諸侯のリーダーという意味の呼び名で、のちの周の文王です。たいへんに人望があり、付き従う諸侯がしだいに増えていました。殷の紂王は脅威を覚え、西伯を捕えて監禁しますが、西伯の家来が、紂王に美女や財宝を献上して釈放を許されたという経緯があります。
 
 西伯は、その釣り人が何となく気になり、寄って行きました。そして、しばらく呂尚と語り合っているうち、この男の才能がふつうではないと見抜き、はたと気づきました。実は、狩猟に出かける前に立てた占いで、「今日の獲物は動物ではなく、覇王の補佐役である」という奇妙なお告げが出たのです。何のことか訝しく思いながら出かけた西伯でしたが、今その意味がわかったのです。
 
「わが太公(亡父のこと)は、常々こう言っておられた。『やがて周の地に聖人が 現れ、その人によって周は興隆するであろう』と。あなたは、まさしくその人である」
 
 そう言って、西伯は呂尚を馬車に載せて連れ帰り軍師とし、さらに「父の太公が待ち望んでいた人」との意味で、太公望という称号を贈りました。この故事から、後世、釣り好きな人を「太公望」と称するようになったのです。なお、呂尚の働きによって周は国力を蓄え、次に仕えた武王のときに殷を滅ぼし、やがて中国全土の明主と仰がれるようになりました。呂尚はそのときの功により斉に封ぜられ、斉の始祖となりました。

〜『史記』

鶏口牛後(けいこうぎゅうご)

 大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよい、という意味の「鶏口牛後」。むしろ「鶏口と為るも、牛後と為るなかれ」という言い方がよくされます。この言葉は、戦国時代の縦横家・蘇秦(そしん)という人物が、大国の秦にあたるため、諸国に合従の説を説いて廻ったときに出てきます。蘇秦が、韓の宣恵王に説いたときのこと、

「韓は四方を堅固な城や自然の要害に守られ、広大な国土に潤沢な兵力を有し、武器の材料や生産力も十分で、兵士たちも強者ばかりです。それにもかかわらず秦に仕えることになれば、国家を辱めることになります。秦はさらに次々に韓の土地を要求してくるでしょう。『寧(むし)ろ鶏口と為るも牛後と為るなかれ』のとおり、秦に仕えることは、まさに牛の尻になるようなものです」
 
 こうした蘇秦の活躍によって6か国による同盟が成立しましたが、残念ながら短期間のうちに破綻し、結局、6か国とも秦に滅ぼされてしまいます。
 

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