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天知る、地知る、我知る、人知る

 後漢時代の中国は、宦官(かんがん)が官僚社会で幅をきかせ、政治がたいへん腐敗した時代でした。しかし、なかには高潔で立派な官僚もいました。第6代・安帝のころの楊震(ようしん)という人が、その一人です。

 楊震は、関西(函谷関以西の地)の出身で、たいへんな博学であると共に、とても清廉潔白な人物でした。多くの人々が、彼を「関西の孔子」と呼んで称えていたほどです。その楊震が、東莱郡(山東省)の太守に任命されたときのお話です。
 
 楊震が任地に向かう途中、ある宿に泊まっていたとき、夜遅くに、昌邑県の県令(県の長官)の王密という人物がひそかに彼を訪ねてきた。

「太守さま、お久しゅうございます。荊州(湖北省)でお引き立てをいただいておりました王密でございます」
「ああ、しばらくだったね」

 楊震は、王密のことをよく覚えていた。かつて楊震が荊州の監察官に任じられていたころ、その高い学識を見込んで取り立ててやった男だ。二人は大いに昔話に興じたが、そのうちに、王密が、懐から金十斤を取り出して楊震に贈ろうとした。金十斤といえばかなりの大金だ。しかし、楊震は、穏やかながらも、きっぱりと王密の申し出をはねつけた。

「私は、今でも君の高い学識と人となりもはっきりと覚えている。それなのに君は、私がどういう人間であるかを忘れてしまったのか?」

「いいえ、太守さま。太守さまがどれほど高潔なお方であるかは、今でも十分肝に銘じております。ですが、この金は決して賄賂のようなものではありません。ただ、昔の御恩へのほんのお礼の気持ちなのです」

「君は、私が見込んだどおりに立派に成長して県令になった。これからもまだまだ栄進して世のために尽くすだろう。私に対する恩返しは、もうそれで十分に果たしているではないか」

「太守さま、そんなに堅苦しくお考えにならないでください。それに、こんな夜中ですし、また、この部屋には太守さまと私の二人しかおらず、誰も知らないのですから」

 この言葉を聞いて、一瞬、楊震の目がキッとなったが、なおも穏やかに王密を見つめていた。そして、静かに王密を諭した。

「誰も知らないということはないだろう。まず、天が知っている。神が知っている。それに君も知っている。私だって知っているではないか」

 この言葉に、さすがに王密は恥じ入って引き下がった。そして、その後、楊震の高潔さはますます磨かれて、やがて大尉(兵事をつかさどる最高官)の位にまでのぼりつめた。

呂蒙正の器量

 中国・宋の2代目の皇帝である太宗のとき、科挙に合格し、その後とんとん拍子に出世して宰相となった呂蒙正(りょもうせい)という人がいました。あまりの出世ぶりに、ほかの臣からはずいぶん妬まれていたようです。

 呂蒙正がはじめて参政となり、朝廷に出仕したときのことです。物陰から彼を指さして、「あんなつまらぬ男が参政とは」と言った朝臣がいました。

 呂蒙正は、聞こえないふりをして通り過ぎました。しかし、収まらなかったのが、彼の同僚です。「けしからん。わしがあの男の官名と姓名を問いただしてやる」と、息巻いたのです。呂蒙正は、あわてて同僚を止めました。

「もし私があの男の姓名を知ってしまうと、終生忘れられなくなる。なまじ知らない方がよい。他人を問い詰めなかったからといって、こちらが損をするわけではない」

 呂蒙正がこう言ったという話が、たちまち朝廷内に広まり、呂蒙正の器量の大きさが知られるようになったのです。
 

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故事成句

蛍雪之功(けいせつのこう)

苦労して勉学に励むこと。苦学した成果。「蛍雪」は、蛍の光と雪明かりのこと。

東晋王朝の時代、車胤(しゃいん)は、家が貧しくて油が買えず、夏は数十匹の蛍を集めて薄い布の袋に入れて、その光で勉強した。また、同じように貧しかった孫康(そんこう)は、冬は窓の雪明かりで勉強した。二人とも、このように苦労して学問をした結果、高級官僚にまで出世したという故事から。

唱歌『蛍の光』の冒頭にある歌詞、「蛍の光、窓の雪」も、同じエピソードを下敷きにした表現。苦労しながら共に勉強をしてきた仲間との思い出をうたっている。

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