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その後の徳川慶喜

 明治維新は、いわば革命というべき大事件でした。そして、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、明治新政府にとっては最大の敵だったわけです。憎くて憎くてしょうがない相手だったはず。にもかかわらず、新政府は徳川家の誰も殺したりはしていません。意図して殺したのは、新撰組の近藤勇と、幕臣の小栗上野介ぐらいのものです。この二人だけはめちゃくちゃ危険人物とされたのです。

 一方、慶喜は殺されるどころか、やがて明治政府によって丁重な扱いを受けるようになります。維新から30年を経た1898年の3月2日、慶喜は、明治天皇昭憲皇太后から千代田城(江戸城)に招待されました。このとき、慶喜は62歳。宴の席で、明治天皇は慶喜に酒を注ぎながら、「慶喜、すまなんだな」と言ったと伝えられています。 

 その4年後、慶喜は華族に列せられ、公爵の位を授けられました。また、大政奉還、江戸城開城を経て、慶喜に代わり徳川宗家の相続を許可された田安家の家達(いえさと)は、駿府藩主として70万石を与えられています。そして、1890年の帝国議会開設と同時に貴族院議員となり、さらに延べ31年にわたって貴族院議長も務めました。当時の新聞が家達のことを記事にするときは「16代様」と呼ぶのをつねとしたそうです。

 それでは、大政奉還後の慶喜は、いったいどのような生活を送っていたのでしょうか。はじめは引き続き政権の中枢に留まる構想ももっていたようですが、翌年に江戸城が無血開城されたときには、慶喜はすでに江戸城を出て、上野の寛永寺(徳川家の菩提寺)で謹慎中の身にありました。それから、いったん水戸へ移った後、7月に徳川家ゆかりの地である駿府(静岡)へ移転。翌1869年9月に謹慎は解除されましたが、それからも静岡で30年間暮らし続けました。

 ここでの日々の生活は、もはや政治的野心は捨てて、ひたすら趣味に没頭して過ごしたようです。慶喜の趣味は多く、武士の素養としての弓、馬術にはじまり、能楽、謡曲、日本画、読書、囲碁なども得意。静岡に移ってからは、写真と狩猟も始めたとか。金銭的には、徳川宗家から定期的に「御定金」が送られてきましたし、華士族の秩禄廃止に伴って交付された金禄公債ももらい、困窮する心配はまったくなかったのです。静岡の人々からは「ケイキ様」と呼ばれ親しまれたといいます。

 さらに体力を持て余していたのか、夜の生活もたいへん元気だったらしく、3人の側室に21人もの子供を産ませています。1897年に再び東京・巣鴨の屋敷に移り、貴族院議員として政治に関わるようになりましたが、8年務めて引退。その後は小石川の屋敷に移って静かに暮らし、16年後の1913年に77歳で亡くなりました。明治維新の渦中にあった人物の中ではいちばん長生きしたといわれています。やっぱりストレスのない生活がよかったんでしょうかね。

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福沢諭吉の焦燥

 明治の初めごろ、福沢諭吉は、次のように話していたといいます。

「今日、イギリスのロンドンに行って、『この国の独立は果たして安全であるか』と問うたならば、誰もが『何をバカなことを言うか』といって相手にしないだろう。ところが、この日本では、果たしてこの国の独立が安全であるかどうかが一番の問題になるのは情けないではないか」

 また、福沢は維新前後、このままでは日本は外国に滅ぼされると思い、

「いよいよ外人が手を出して、跋扈(ばっこ)乱暴というときには、自分は何とかしてその禍いを避けるとしても、行く先の永い子供たちはかわいそうだ。一命にかけても外国人の奴隷にはしたくない」

と、子供たちをキリスト教の坊主にしてしまおうかとも考えたといいます。これほどに、当時の日本人は国の安全にたいして深刻な不安を抱えていたんですね。とりわけ福沢は何度か欧米を訪問していましたから、インドや中国で白人たちが横暴を極めているさまを実際に目撃していましたし、アメリカ人の激しい人種差別も知っていたはずです。

 福沢は多くの書物を残し、「脱亜入欧」を説きましたが、それは単なる欧米崇拝ではなく、白人の奴隷になってしまうかもしれないという焦燥感の現れだったのでしょう。だからこそ、彼は慶応義塾をつくり、「下からの近代化」を目指したわけです。彼が塾生たちに説いたのは、「官僚になるのではなく、民間人として新しい知識を活用せよ」ということでした。
 

西郷さんの銅像

 西南戦争に敗れた西郷隆盛が鹿児島城山で自刃したのは、1877年(明治10年)9月24日のことでした。その後しばらくの間は朝敵とみなされていましたが、12年後の憲法発布に際して、西郷に対しての特赦が行なわれました。

 特赦の内容は、朝敵の汚名を除き正三位を贈るというもので、すると、すぐに銅像建立の話が持ち上がりました。同郷の樺山資紀(かばやますけのり)らが発起人となり、宮内省からの下賜金や2万5000人からの寄付もあって、1893年に着工されました。最初は、丸の内に建てるという案もあったそうですが、華族たちが皇居に近すぎると猛反対、結局、井上馨の意見に従い、上野に建てられることになりました。

 勝海舟との会談で江戸城無血開城を実現させ、江戸の町を戦火から救った功績もさることながら、その人柄が庶民に愛され、むしろ、下町である上野のほうが西郷のイメージに合うとも考えられたようです。また、軍服ではなく着物姿にしたのも、親しみやすさを演出するためだったようです。

 1898年12月に序幕された銅像は、身長が3.7メートルあり、正面から見るとやや頭が大きく感じますが、これは下から見上げたときにバランスよく見えるようにとの配慮によるそうです。当初、親族からは本人に似ていないという不満も出たようですが、現在に至るまで、上野の西郷像ほど庶民に愛され続けてきた銅像はないでしょう。
 

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徳川慶喜が生きた時代

1837年
水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれる
1847年
一橋家の養子となり家督を相続する
1859年
幕府から隠居謹慎を命じられる
1862年
一橋家再相続を命じられ、将軍後見職に就く
1863年
孝明天皇に謁見
1864年
禁門の変で活躍
1866年
15代将軍に就任
1867年
山内容堂が政権奉還の建議書を提出
1867年
大政奉還
1868年
王政復古の大号令
1868年
鳥羽・伏見の戦い、大坂城を脱出
1868年
慶喜追討の勅命
1868年
江戸城を出て上野寛永寺で謹慎
1868年
江戸城開城、慶喜は江戸を出て水戸へ向かう
1868年
徳川家に駿河遠江70万石を賜う
1868年
水戸から駿府に向かう
1871年
廃藩置県
1889年
大日本帝国憲法公布
1894年
日清戦争
1898年
明治天皇に謁見
1901年
小石川小日向に転居
1902年
公爵に叙せられる。貴族院議員に就任
1904年
日露戦争
1908年
大政奉還の功により勲一等旭日大綬章を授与される
1910年
七男・慶久に家督を譲る
1913年
病没(享年77歳)
 

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