
兄・頼朝の追っ手を逃れた義経は、奥州藤原氏にかくまわれていました。しかし、文治5年(1189年)、藤原泰衡はついに頼朝の圧力に屈し、義経を攻めます。観念した義経は平泉で自害。この経緯は、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』に記されています。
しかし、義経がその後も生存したという説があり、その根拠も、同じく『吾妻鏡』の記述から生まれました。『吾妻鏡』には義経の首実検の様子も書かれており、それによれば、義経の首が鎌倉に届くのは死後43日も経た6月13日とあります。あまりに日数がかかり過ぎているのです。首は美酒に浸されていたとされますが、季節は今の8月に当たる猛暑真っ盛りです。首は腐敗することなく運べたのでしょうか。
こうした疑問から、鎌倉へ送られたのは実は義経の首ではなくニセ首で、顔が判別できないようにわざと時間をかけたとする説が生まれたのです。そして、泰衡に追い詰められた義経は、実は死を偽装して平泉から逃げ延び、三陸海岸を北へ向かって逃避行を続けたというのです。まーここまでは状況証拠というか推測にすぎません。あるいは歴史ロマンといっていいものでしょうか。
ところが、東北地方には今でも、義経主従が立ち寄ったという伝承が数多く語り継がれています。岩手県遠野(とおの)では、義経一行はある農家の風呂に入れてもらい、旅の疲れを癒したと伝えられています。あたたかいもてなしに感激した義経は、その家に「風呂」という姓を授け、その家は現在も「風呂」姓を名乗っているとか。
また、三陸海岸の宮古には、義経主従が参詣したとされる横山八幡宮や、籠城したと伝わる黒森神社などが残っています。黒森の「くろ」は源九郎義経の「くろう」に由来するのだと。この寺で義経が写経したものの一部も残っているといいます。八戸市にも義経が滞在したとする伝承地が点在し、小田八幡宮などゆかりの深い社寺が多数存在します。
さらに義経の北行伝説は北海道へ渡ります。義経が馬をつなぎ止めたという馬岩、弁慶岬、弁慶の刀掛け岩など、函館、松前から積丹半島にかけての海岸には、義経主従にちなんだ名称が多く残されています。また、日高地方平取には、その名前ズバリの義経神社があり、そこに祀られた義経の木像は、かつてアイヌの人たちに「ホンカイ様」として崇められていました。ホンカイは判官が変化したものだといいます。さて真相はいかに?
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