晏子(あんし)は、春秋時代に斉(せい)の霊公・荘公・景公の3君主に仕えた、かの管仲と並び称される名宰相です。清貧を旨とし、卿や宰相になってからでも、家庭の食事には肉料理を二品と用いず、家の女には絹物を着せないという徹底ぶりでした。朝廷にあっては、君の相談を受けたときには憚ることなく意見を述べ、国に正しい道が行われているときには粛々と命令に従い、正しい道が行われなくなると命令を見直し正しい標準に合わせて行うべく行動しました。常にこうした姿勢で晏子が斉の政に携わったおかげで、霊公・荘公・景公の三代は、諸侯の中でもその名がひときわ脚光を浴びる存在となりました。
また、後に『史記』を編さんした司馬遷は、晏子の人品を尊敬し、「もし晏子が今の世にいたとしたら、私は御者のような低い身分でもよいから、仕えて心からその徳を仰ぎたい」とまで言っています。また、かの孔子も「平仲(晏子)は善く人と交わる。久しくして之を敬す」と褒めていますが、一方では晏子に対する否定的な評も加えています。ただ孔子は、斉に仕官しようとして晏子に拒まれたという経緯があり、これが影響していると考えられています。
その晏子が最初に仕えた霊公のとき、国じゅうの女性たちの間で男装が流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出しました。しかし、もともとこの流行は、男装の麗人を好んだ霊公が妃に男装させたのが始まりで、それが女官の間にも広がり、やがて国じゅうで流行するようになったのです。霊公は、下々の女性までもが真似をして男装するのが気に入らなかったのです。
しかし、霊公は、相変わらず妃には男装をさせていたので、流行が収まる気配はありませんでした。そこで晏子は、「君がおやりになっていることは、牛の頭を看板に掲げていながら馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」と諫言し、その通りにすると流行は収まりました。このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変じて「羊頭狗肉」の故事成語になります。
また晋との戦いで敗北した折に、まだ戦えるにもかかわらず霊公が逃亡しようとしたので、晏子はこれを必死で止め、「あなたも勇気がないのですね。まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」と諌めました。その際、霊公の袖を晏子が引きちぎってしまい、霊公がその無礼に怒って剣に手をかけましたが、晏子は、「私を斬り捨てる勇気を持って敵と戦って下さい」と言いました。しかし霊公はこれを聞かず、「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ」と言って、都へ逃げ帰ったのでした。
次代の荘公の時に、晋の卿が、国内の権力争いに敗れて斉に亡命してきました。荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、晏子は強く反対しましたが受け入れられませんでした。荘公は諫言ばかりしてくる晏子を疎ましく思うようになり、それを感じとった晏子は、職を辞して田舎にひきこもり、畑を耕す日々を送るようになりました。
諫言する者がいなくなった荘公は、軍兵を増やし、晋に攻めこむなど戦いをやめようとしません。国はどんどん疲弊し、国民は困窮してきます。さらに荘公は、当時の宰相・崔杼の妻と密通していました。これを知って怒った崔杼は自邸に荘公をおびき寄せ、私兵をもって殺してしまいます。君主の死を聞いた晏子は急いで宮廷に駆けつけました。しかし、もし荘公を悼む態度を示せば崔杼によって殺され、崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになります。
その向背が注目されるなか、晏子は、「君主が社稷(国家)のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の私事のためならば、近臣以外はお供する理由はない」と言い、型通りの哭礼のみ行って帰っていきました。崔杼の配下は晏子を捕えて殺そうとしますが、崔杼は人民に人気のある晏子を殺すのはまずいと考え、これを止めさせたのでした。
その後、崔杼は、慶封と共に景公を擁立し、反対派を圧迫するために、「我々に与しない者は殺す」と宣言しました。しかし晏子はこれに従わず、「君主に忠誠を尽くし、社稷のためになる者に従う」と言い返しました。
崔杼と慶封はいったんは政権を握りますが、後に崔杼はに慶封に殺され、その慶封も反対派に攻められて滅びました。この時にどちらの陣営も景公を手に入れて正当を主張しようとしましたが、晏子は、彼らの戦いを「私闘」として景公を守り通しました。これら一連の晏子の姿勢が、彼の名を不朽のものとしたのです。
〜『晏子春秋』
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(漢武帝)
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