マケドニア生まれのアリストテレスは、17、8歳のころにアテネに出て、プラトンが創設した学園アカデメイアに入門します。そして、プラトンが死去するまでの20年近い年月、学徒として勉学に励みました。彼は師のプラトンから「学校の精神」と評されたとも伝えられ、時には教師として後進の指導にあたったこともあったようです。
プラトンが亡くなり、アカデメイアを去ったアリストテレスは、42歳のころにマケドニア王フィリッポス2世から招聘され、当時13歳だった王子のアレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の教育にあたることになります。また、首都ペラ郊外にミエザの学園を開き、弁論術、文学、科学、医学、哲学などを教えました。ミエザの学園にはアレクサンドロスのほかにも貴族階級の子弟が学友として多く学び、のちに彼らはマケドニア王国の中核を担う存在となっていったのです。
アレクサンドロスが王に即位すると、アリストテレスは再びアテネに出て、学園「リュケイオン」を開設します。リュケイオンとは、アテネ郊外のアポロン・リュケイオスの神域とされた地を指します。弟子たちとは学園内の歩廊(ペリパトス)を逍遥(そぞろ歩き、散歩)しながら議論を交わしたことから、彼の学派は逍遥学派(ペリパトス学派)と呼ばれます。このリュケイオンは、529年にユスティニアヌス1世によって閉鎖されるまで、アカデメイアと対抗しながら存続しました。
紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、広大なアレクサンドロス帝国は政情不安に陥り、マケドニアの支配力は大きく減退しました。これに伴ってアテネではマケドニア人に対する迫害が起こったため、紀元前323年の61歳頃、アリストテレスは母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せました。しかし、そこで病に倒れ(あるいは毒人参をあおったとも)、62歳で死去しました。
師のプラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えましたが、アリストテレスはイデア論を「無意味に物事を二倍に増やしただけ」と批判して、イデアすなわち実体は現実の現象的世界に内在するものであり、現象みずからの発展によって実現されるものと考え、個物に内在するものとして「エイドス(形相)」と「ヒュレー(質料)」の概念を提唱しました。個物に内在するそのものの本質で、素材を限定して現実的なものとする事物の原型がエイドス(形相)、銅像の素材が銅であるように個物の材料を意味するのがヒュレー(質料)です。
また世界に起こりうる現象の原因には「質料因」と「形相因」があり、後者をさらに「動力因」「形相因」「目的因」の3つに分け、全部で4つの原因(アイティア)があるとしました(四原因説)。事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こすのが「動力因」、そして、それが目指している終局が「目的因」です。
そして、ある素材(質料)が目的(形相)に向かう変化の過程において、素材がもつ完成への可能性を秘めたあり方を「可能態」とよび、完成への可能性をもった質料が、形相を得て目的を達するにいたる具体的なあり方を「現実態」とよんで区別しました。
アリストテレスはそうした現実主義の観点から、天文・気象・動植物・地球などあらゆるものを対象に観察を行い、抽出した特徴を体系的に分類し整理することで世界を把握しようとする学問(自然科学)を始めました。実際、現在に至る天文学、気象学、動物学、植物学、地学などの学問はすべてアリストテレスから始まっており、彼が「万学の祖」と呼ばれる所以です。
しかし、物体の落下現象は物体の本来の位置に戻る性質によるとして重力を否認。また、地上の物質は水・土・火・空気の4基本元素から成り、天体は第5の元素エーテルでできているとして、デモクリトスの原子説に反対するなど、物理的学の分野では実験を伴わなかった欠陥もあったことを付言しておきます。
イデア論を否定するアリストテレスは、政治に関してもプラトンの哲人王思想はただの理想論にすぎないとし、そもそもどのような政治体制がありえて、それぞれどのような特徴があるのかを学問的に分析しました。そして、一人の王が支配する「君主制」、少数の特権階級が支配する「貴族制」、多数者が支配する「共和制」の3種類に分類できると考え、君主制は独裁制(僭主制)になりやすく、貴族制は寡頭制になりやすく、共和制は衆愚制になりやすいと分析しました。最良の政治体制というものは存在せず、いずれも堕落する可能性があると考えたのです。その後に起きるのが、「革命」という名のもとに行われる政治体制の交代劇である、と。
アリストテレスの著作
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