アテネの植民地のサモス島に生まれたエピクロスは、兵役義務をはたすため18歳でアテネに上京、このとき、プラトンが開設したアカデメイアで学ぶ機会を得たといわれます。2年間のアテネ滞在後、故郷に戻りますが、当時はアレクサンドロス大王による大侵略で多くの国家が崩壊していた混乱の時代です。アテネ人もアレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによる弾圧を受け、そんななか、エピクロスは、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学びました。
30歳ごろに自身の学校を開設、35歳ごろに弟子たちとともにアテネに移り、郊外に庭付きの小さな家を買い求めて共同生活を始めました。ここでエピクロスは、庭園学派ともよばれるエピクロス学派を創設、またこの場所は「エピクロスの園」として、万人に解放されて多くの人々が聴講しました。召使の奴隷も参加し、何人かの遊女が聴講したという記録もあるそうです。
なおこの時代には、混乱の時代をいかに幸福に生き抜くかという観点から、3つの哲学の学派が生まれました。1つ目が「キュニコス派」で、「世間的な幸せ」を放棄して「本当の幸せ」を得る、つまり何も持っていなければ何も奪われないというような考え方でした。実際にすべての所有物を捨てて、裸足で乞食のように生活したというから驚きです。2つ目が「ストア派」で、「ストイック」の語源にもなった、欲望を捨てて規律正しく生きれば幸福になれるとした禁欲主義の学派です。そして3つめがエピクロス派です。
エピクロスは自然哲学のデモクリトスの原子論の影響を強く受け、人間の生命も原子からなる以上、死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味であると説き、感覚に基づいた穏やかな快楽(アタラクシア)を求めることは正しい、と考えました。これは「快楽主義」とよばれ、ストア派の禁欲的な考えと真っ向から対立するものでした。
エピクロスは、人間の欲求を3つに分類しました。「自然で必要な欲求」「自然だが必要ではない欲求」「自然でもなく必要でもない欲求」の3つです。このうち自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居)だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることによって生じる「平静な心」こそが善であると定めます。そして、こうした理想を実現しようとして開いたのが「エピクロスの園」とよばれる共同生活の学園だったのです。
しかし、エピクロス派の、一般社会との関りを忌避するような閉鎖的で自己充足的な特性は、ストア派から激しく批判され、また、欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになりました。そんな批判に対しエピクロスは、弟子に宛てた手紙の中でこのように述べています。
――我々が、快楽が人生の目的であると言う場合、その快楽とは、一部の人たちが無知であったり誤解したりして考えているような、放蕩や享楽のなかにある快楽のことではなく、身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないことに他ならない。――
つまり、エピクロスのいう快楽とは、あくまで飢え、渇き、寒さ、暑さといった苦痛から解放された「普通」の状態のことであって、一過性の快楽をむさぼるなどとはほど遠いものでした。エピクロスはむしろ、一過性の快楽はかえって後で苦痛を生むとして、快楽の定義に含めていません。ごく自然な快楽を自然に満たして生きようとする彼の考え方は、キュニコス派やストア派の極端さから比べたら、よほど人間的であったといえます。
エピクロスはまた、平静心を乱すもとになる政治的・公共的生活からは離れて生きることを説き、エピクロス派の人々の生活信条を示す「隠れて生きよ」という言葉も残しています。なお、エピクロスは300余りの著作を残したとされますが、その殆どは失われ、弟子に宛てた3通の手紙と教説、箴言の断片が残されているだけです。
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エピクロスの言葉から
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