ホッブズは人間の存在を、神が作り賜うたものではなく、物質として捉えることによって、その自己保存の権利は一人ひとりが平等に有している「自然権」であると考え、その自然権から秩序(国家)が導き出されるのだと主張しました。それまでは、国家や教会といった秩序の下に人間があるとされていた考えを逆転する発想でした。
ホッブズは、まず国家の定義を考えるにあたり、国家がまだない状態、すなわち誰も権力を持たず、ルールも法もない状態(自然状態)で人間たちを放置するとどうなるかを想像しました。彼が至った結論は、「万人の万人による闘争」、すなわち人間の自然権は自由・平等であるものの、同時にその利己的動物としての本質から「互いに殺し合う」ことになってしまう、「人間は人間に対して、オオカミにすぎない」というものでした。
ずいぶん極端で悲観的な人間観のように感じますが、ホッブズが生きた17世紀前半は、利権を争う宗教戦争によって日常的に人と人が殺し合う悲惨な時代でした。そんな中で生きてきたホッブズが、人間の本質をそのように捉えたのは無理からぬことだったのかもしれません。
ホッブズは、そのような悲惨な状態にならないように、個々の権利を国家権力、すなわち国王に委譲するという社会的な契約を結んでいるのだと主張しました。それまでの、絶対王政国家の王権神授説(王の権力は神から授かったものであり、王の統治権は正当であるとする考え)を否定し、個人と国家(国王)の関係を一種の「契約」であると捉えたのです。すなわち「他者を殺す自由を全面的に放棄した見返りに、安全を得る」、これがホッブズの考えた国家の本質です。
ホッブズは、このことを著作の『リヴァイアサン』で説きましたが、リヴァイアサンというのは、聖書に登場する海の巨大な怪獣の名です。国家をリヴァイアサンにたとえ、それを恐れ従うことによって、人間同士の殺し合いを避けられ、生き延びることができる、と主張したのです。逆に言えば、国家の権力は絶対で恐ろしい存在であるものの、個々人の「自然権」を侵害してはならないという意味になり、ここにホッブズが唱えた社会契約説の意義があります。
しかし一方で、ホッブズの思想は、結果として個人が国王に権力を委譲したことによって王の統治権の正当性が認められるとしたので、絶対王政を支える新たな理念となり、その立場からすると、人民による君主への反抗は許されないこととなり、絶対王政を擁護するものでした。ホッブズの着想自体は、後のロックやルソーなどの社会契約説につながっていく革新性を有していましたが、ルソーの社会契約説において革命権が認められたこととは決定的に異なるものでした。
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