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哲学に親しむがんばれ高校生!

ホッブズ

イギリスの哲学者(1588年~1679年)。近代政治思想の基礎を築いたとされる。オックスフォードに学び、メルセンヌ、ガッサンディ、デカルトらと交わった。ピューリタン革命の動乱でフランスへ亡命し、『リヴァイアサン』を著作。その後帰国し学問にはげんだ。
人間の自然権を重視し、「万人の万人に対する闘争」の状態から生命の安全を守るため、社会契約により主権を譲渡して国家主権に委ねよと説いた。彼の主張は絶対王政を擁護するものだったが、のちのロックやルソーらによる人民主権論への道を開いた。

 ホッブズは人間の存在を、神が作り賜うたものではなく、物質として捉えることによって、その自己保存の権利は一人ひとりが平等に有している「自然権」であると考え、その自然権から秩序(国家)が導き出されるのだと主張しました。それまでは、国家や教会といった秩序の下に人間があるとされていた考えを逆転する発想でした。
 
 ホッブズは、まず国家の定義を考えるにあたり、国家がまだない状態、すなわち誰も権力を持たず、ルールも法もない状態(自然状態)で人間たちを放置するとどうなるかを想像しました。彼が至った結論は、「万人の万人による闘争」、すなわち人間の自然権は自由・平等であるものの、同時にその利己的動物としての本質から「互いに殺し合う」ことになってしまう、「人間は人間に対して、オオカミにすぎない」というものでした。
 
 ずいぶん極端で悲観的な人間観のように感じますが、ホッブズが生きた17世紀前半は、利権を争う宗教戦争によって日常的に人と人が殺し合う悲惨な時代でした。そんな中で生きてきたホッブズが、人間の本質をそのように捉えたのは無理からぬことだったのかもしれません。
 
 ホッブズは、そのような悲惨な状態にならないように、個々の権利を国家権力、すなわち国王に委譲するという社会的な契約を結んでいるのだと主張しました。それまでの、絶対王政国家の王権神授説(王の権力は神から授かったものであり、王の統治権は正当であるとする考え)を否定し、個人と国家(国王)の関係を一種の「契約」であると捉えたのです。すなわち「他者を殺す自由を全面的に放棄した見返りに、安全を得る」、これがホッブズの考えた国家の本質です。
 
 ホッブズは、このことを著作の『リヴァイアサン』で説きましたが、リヴァイアサンというのは、聖書に登場する海の巨大な怪獣の名です。国家をリヴァイアサンにたとえ、それを恐れ従うことによって、人間同士の殺し合いを避けられ、生き延びることができる、と主張したのです。逆に言えば、国家の権力は絶対で恐ろしい存在であるものの、個々人の「自然権」を侵害してはならないという意味になり、ここにホッブズが唱えた社会契約説の意義があります。
 
 しかし一方で、ホッブズの思想は、結果として個人が国王に権力を委譲したことによって王の統治権の正当性が認められるとしたので、絶対王政を支える新たな理念となり、その立場からすると、人民による君主への反抗は許されないこととなり、絶対王政を擁護するものでした。ホッブズの着想自体は、後のロックやルソーなどの社会契約説につながっていく革新性を有していましたが、ルソーの社会契約説において革命権が認められたこととは決定的に異なるものでした。

ホッブズの著作

  • 『リヴァイアサン』
    1647年刊。ホッブズの代表的な政治哲学の著作であり、17世紀ヨーロッパにおける国家理論の白眉。ピューリタン革命という悲惨な政治状況を目の当たりにしたホッブズが、いかにして人間の生命や自由を保障できる平和で統一的な政治社会を確立するかを考えて構想・執筆したもの。
    しかしこの著作によって、同時代の王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは絶対王政の擁護者と見られた。現代に至るまでホッブズの評価は定まらず、相反する立場から全く異なったホッブズ観が提示されている。

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ホッブズの言葉から

  • 自然は、神が世界を支配する技術である。
  • 閑暇は哲学の母。
  • 社会をつくるまえの人間の自然状態が戦争であったこと、しかも、いわゆる戦争ではなく、すべての人に対する、すべての人の戦争であったことは、否定できない。
  • 人間は利己的動物であるから、自然的状態では自己保存のために相互に利益を侵害し合い、かえって利己の目的を達し得ないから、契約によって国家を形成し、主権者のもとに各自の利己を制限し、調和する。
  • 人間の自然本性のなかに、我々は三つの主要な争いの原因を見出す。第一に競争、第二に不信、第三に自尊心である。
  • 小心は人々を不決断にし、その結果、行為の機会と最大の好機を失わせる。
  • 言葉は貧者の貨幣である。
  • いかなる犯罪の源泉も、若干の思慮分別の欠如、理性の錯誤、情熱の爆発的な力である。
  • 他人の欠点を笑ってばかりいるのは、臆病の証拠である。
  • 失敗は落胆の原因ではなく、新鮮な刺激である。
  • 国民から認められると宗教という名を与えられ、国民が否認すれば迷信という名を付けられる。
  • 法は人間の活動を除去すべきものではなく、指導だけを行うべきものである。それは、自然の作った川の岸が、流れをせき止めるためのものではなく、流れに方向を与えるためのものであるのと同じである。
  • 神や神の属性について概念を持つことは、人間の能力をはるかに超えている。
  • 平和への希望が見えるや直ちに平和を求め、平和を持ち得ぬかぎりは戦争のための援助を探し求める。これが、正しい理性の命ずるところである。
  • 欲望がなくなった人間は、感覚や表象が停止した人間と同じで、もはや生きることができない。
  • ある私的な意見を是認する人びとは、それを意見とよぶのに、それを好まない人びとは、異端とよぶ。
  • 真実と誤謬は、言語の属性であって、事物の属性ではない。だから、言語のないところには真実も誤謬もない。

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旧約聖書のリヴァイアサン

『ヨブ記』に記された水棲の巨大な幻獣。神が天地創造の5日目に造った存在で、レビヤタンともいう。

堅いうろこと恐ろしい歯をもち、目は光り口からは火花を発し、鼻からは煙を出し息は炎のようで、いかなる武器も通用しなかった。また、その通った跡には強い脂が残るとある。1年ごとに死んで新しく生まれ変わる。ワニか巨大な蛇または鯨とも想像され、同じく神に造られた陸の怪獣ビヒモスと対をなす巨獣である。

その性質は暴君そのもので冷酷無情で、獲物を探しながら海面を泳いでいるらしい。本来はつがいで存在していたが、あまりにも危険なために繁殖せぬよう、雄は殺されてしまい雌だけしかいない。その代わり、雌は不死身である(ビヒモスを雄とする考え方もある)。

しかし、最後の審判には救世主が捕らえて、聖なる人の食物に供されるといわれる。

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