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木鶏(もっけい)

 『荘子』(達生篇)に次のような故事が収められています。
 
 紀悄子(きせいし)という闘鶏(とうけい)を育てる名人が、王の依頼を受けて、1羽の強い闘鶏を育てることになりました。そして、闘鶏を訓練し始めて10日が経過しました。王が、仕上がり具合を確認しようと彼のところへやってきて、「もう、ほかの鶏と蹴り合いをしても負けないか」と尋ねました。
 
 すると紀悄子は、「まだでございます。カラ元気で虚勢をはっていますから、だめです」と答えました。

 また10日たって、王が尋ねると、「まだでございます。他の鶏の姿を見ただけで、いきり立って飛びかかろうとするから、だめです」

 さらに10日たって尋ねられても、「まだでございます。目を怒らせて己の強さを誇示していますから、だめです」

 さらに10日たって王が尋ねると、やっと、「もう大丈夫でしょう。敵の鶏が鳴いて挑みかかってきても、少しも態度を変えず、泰然自若としています。少し離れてみると、まるで木彫りの鶏のようです」

 木彫りの鳥、すなわち木鶏(もっけい)のように、敵意をまったく持たない人に、抗争心は湧いてきません。敵意を持たない人の周囲は、つねに平穏なのです。また、道を体得した人物は他者に惑わされることなく、鎮座しているだけで衆人の範となるものだというのです。

〜『荘子』達生

曾子の教育方針

 曾子(そうし)は、孔子の主要な弟子の一人だった人物です。その曾子の妻が市場に出かけようとしたとき、子があとを追いかけて「連れて行って」と泣きつきました。困った妻は、子に言いました。「おうちへお帰り。帰ってきたら、お前のために豚を殺してご馳走してあげるから」
 
 そうして市場へ行って帰ってきたところ、曾子が豚をつかまえて殺そうとしました。妻はあわてて、「子供相手のほんの冗談ですよ」と言って止めようとしましたが、曾子はこう言いました。
 
「子供には冗談は通じない。子供は何も分からずに親に学んでいくもので、親の教えのままになる。今お前が子供をだましたら、それは子供にだますことを教えたことになる。母親が子供をだまし、子供は母親を信じられないということになれば、これから先、どのようにして子供を教え導くことができるのか」
 
 そして、そのまま豚を殺して料理しました。
 

自ら恃(たの)むに如かず

 魯(ろ)の宰相、公儀休(こうぎきゅう)は、大の魚好きでした。それを知った多くの人が、公儀休のところに魚を贈り届けてきます。ところが、彼はいっこうにそれらを受け取ろうとしません。それを見た弟が、魚が大好きなのになぜ断るのかと尋ねると、彼はこう言いました。

「好きだからこそ断るのだ。魚を受け取れば、そのたびにお世辞の一つも言わなければならない。そうなれば、やがては相手のために法を曲げることにもなりかねない。そのようなことをすれば、たちまち職を解かれる。職を解かれたら、いくら好物だといっても誰も届けてきはしまい。それどころか、自分で買って食うこともできなくなるだろう。今こうして断っていれば、職を解かれることもなく、いつでも好きな時に魚を買って食えるではないか」
 

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