本文へスキップ

小倉百人一首

 『百人一首』は数百種類あるといわれますが、それらの模範となったのは『小倉山荘色紙和歌』などと題される藤原定家の私撰歌集です。後に選定された多くの百人一首と区別するため、定家が晩年を過ごした別荘があった小倉山の地名をとり、『小倉百人一首』とよばれます。
・1~25 ・26~5051~7576~100

小倉百人一首  

  1. 秋の田の かりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ

    天智天皇

    歌意 >>>秋の田のほとりの番小屋に私は泊まっている、その屋根を葺いた苫の編み目が粗いために、私の着物の袖が夜露に濡れていくばかりだ。

    作者 >>>天智天皇(てんじてんのう)626~671年 舒明天皇の皇子(中大兄皇子)。藤原鎌足らと蘇我氏を滅ぼし、大化改新を実現した。

    説明 >>>「かりほ」は「刈穂」と「仮庵」の掛詞。「苫」は菅(すげ)や萱(かや)で編んだ菰(こも)。この歌はもともと『万葉集』にある「秋田刈る仮庵を作り我が居れば衣手寒く露そ置きにける」(巻10-2176)という作者不明歌であり、これが口伝えで伝わるうち、王朝人好みの歌詞に変化し、さらに天智天皇の作とされるようになったらしい。晩秋の農作業にいそしむ静寂な田園風景を詠んだ歌。

  2. 春すぎて 夏来にけらし 白妙(しろたへ)の 衣ほすてふ 天の香具山(かぐやま)

    持統天皇

    歌意 >>>もう春が過ぎて夏がやってきたようだ。昔から夏のならわしとして、天の香具山に真白い衣が干されているという。

    作者 >>>持統天皇(じとうてんのう)645~702年 天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后。

    説明 >>>「白妙の」は「衣」にかかる枕詞。「天の香具山」は奈良県橿原市にある大和三山の一つで、天上から降りてきたという伝説から、「天の」を冠する。『万葉集』の原歌では「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」(巻1-28)となっており、藤原京で目にした情景をそのまま歌っているのに対し、ここでは平安調の婉曲な表現に変えられている。

  3. あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

    柿本人麻呂

    歌意 >>>山鳥の垂れ下がった尾のように長い長い秋の夜に、私はただ一人寂しく寝ることよ。

    作者 >>>柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)持統~文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人の第一人者。官人としては下級だった。

    説明 >>>「あしびきの」は「山鳥」にかかる枕詞。「山鳥」はキジ科の鳥で、昼は雌雄が一緒にいるが、夜は谷を隔てて別々に寝ると考えられており、恋しい女に逢えないまま、秋の夜長を一人寂しく過ごさねばならない悲しみを表す歌の言葉となった。この歌は『万葉集』に「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」とあり(巻11-2802)、左注に「或る本の歌に曰はく」として上掲の歌が詠み人知らずとして載っている。『拾遺集』では人麻呂の作として載っているが、人麻呂の作かどうかは未詳。

  4. 田子の浦に うちいでてみれば 白妙の富士の高嶺に 雪は降りつつ

    山部赤人

    歌意 >>>田子の浦の海辺に出て仰ぎ見ると、真っ白な富士山の高い峰。そこには今も雪が降っているんだな。

    作者 >>>山部赤人(やまべのあかひと) 元正、聖武期の宮廷歌人。

    説明 >>>「白妙の」は「富士」にかかる枕詞。近景の具体的な描写がないのに対して、遠景の富士山頂の姿が鮮明に映像化されており、古来、叙景歌の絶唱として人口に膾炙し、赤人作中の傑作とされる。ただし、『万葉集』には「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高値に雪は降りける」(巻3-318)とあり、『新古今集』に転載されたときに、しらべを重視した調子に変えられてしまった。

  5. 奥山に もみぢ踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

    猿丸大夫

    歌意 >>>奥深い山で、散った紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声がする。その声を聞くとき、秋は悲しいものだといっそう感じてしまう。

    作者 >>>猿丸大夫(さるまるだゆう) 8~9世紀ごろの伝説的歌人で、実在の人物ではないとも。あるいは「大夫」は官職ではなく神職を意味し、猿丸大夫を名乗る複数の宗教関係者が諸国を巡業していたとする見方もある。

    説明 >>>『古今集』巻4・秋の部に「是定(これさだ)の親王の家の歌合の歌」として載る、詠み人知らずの歌。秋に雄鹿が雌鹿を求めて鳴くとされ、恋人や遠く離れた妻を恋い慕う歌によく詠まれた。この歌の解釈には、紅葉を踏みわけているのは鹿ではなく人とする説もある。

  6. かささぎの 渡せる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

    中納言家持

    歌意 >>>かささぎがかけるという天の川の橋。その橋にたとえられる宮中の御橋に霜が降り、白く輝いているのを見ると、夜もすっかり更けてきたようだ。

    作者 >>>大伴家持(おおとものやかもち) 718?~785年 旅人の長男。万葉末期の代表的歌人。『万葉集』の編纂に関係。三十六歌仙の一人。

    説明 >>>『新古今集』巻6・冬の部に載る。厳冬の夜の寒さを、宮中の御階(みはし=階段)に降りた霜の白さによって表現した歌。「かささぎ」はカラス科の鳥で、中国の七夕伝説では、翼を連ねて橋となり、天の川にかかって織女が牽牛のもとへ渡るとされていた。
     この歌は『万葉集』には載っておらず、『家持集』に第5句を「夜はふけにけり」として載っている。なぜ、家持の代表作とはいえない、また家持作ではないかもしれないこの歌が採られたのか疑問とされている。

  7. 天の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠の山に いでし月かも

    阿倍仲麻呂

    歌意 >>>この唐土にあり、大空を遠く眺めれば中天に月が上っている。ああ、あの月は、故郷の春日の三笠山に出ていた懐かしい月と同じなのだなあ。

    作者 >>>阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)698~770年 17歳で遣唐留学生として唐に渡り、玄宗皇帝に仕えて高級役人となり、李白や王維らとも親交を深めたが、帰国できないまま没した。

    説明 >>>『古今集』巻9・羇旅の部に載る。作者が中国での長年の留学生活を終えて帰国しようとする惜別の折に、美しくのぼった月を見て詠んだ歌。古くから日本人に愛された望郷歌である。「天の原」は大空。「春日」は現在の奈良公園から春日神社の辺り。

  8. わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言ふなり

    喜撰法師

    歌意 >>>私の草庵は都の東南にあり、こんなに心静かに暮らしている。それなのに人々は、ここを世を憂えて逃れ住む宇治山だと言っている。

    作者 >>>喜撰法師(きせんほうし) 9世紀後半の宇治山の僧。六歌仙の一人。

    説明 >>>『古今集』巻18・雑の部に載る。「たつみ」は東南の方角。「しか」は、このように、の意で、「鹿」も暗示しているか。「うぢ」は「憂し」と「宇治」の掛詞。ここでは、人々は宇治山というと「憂し」と掛けて、自分が世間を憂しと思ってここに隠棲していると思っているが、そうではないといっている。

  9. 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

    小野小町

    歌意 >>>春の長雨を眺めているうちに、桜も色あせてしまった。そしてむなしく物思いにふけって過ごしているうちに、私の美貌も衰えてしまった・・・。

    作者 >>>小野小町(おののこまち) 9世紀後半の女流歌人で、六歌仙の一人。僧正遍昭や在原業平、文屋康秀などとの歌のやり取りが見られる。絶世の美人といわれるが、その生涯は定かでなく、各地に小町伝説がある。

    説明 >>>『古今集』巻2・春の部に載る。「花」は桜の花で、女の容姿にも重ねている。「ふる」は「降る」と「経る」の掛詞。「ながめ」は「長雨」と「眺め」の掛詞。女ざかりの美しさを人前で発揮できずに過ぎていく自分の人生に、強い哀惜の気持ちを抱いて詠んだ歌。
     『古今集』仮名序で紀貫之が小町の歌を評し「あはれなるやうにてつよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり」と言っている。

  10. これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

    蝉 丸

    歌意 >>>これがあの、東国へ下る人も帰京する人も、ここで別れては逢い、知っている人も知らない人も、ここで別れては出逢うという、逢坂の関なのか。

    作者 >>>蝉丸(せみまる) 9世紀後半の人か。盲目の琵琶の名手だったという伝説がある。

    説明 >>>『後撰集』巻15・雑の部に「あふ坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て」として載る。逢坂の関は、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)の境にある関所。「逢ふ」との掛詞として詠まれることが多い歌枕。

  11. わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎいでぬと 人には告げよ あまの釣舟(つりぶね)

    参議篁

    歌意 >>>「私は海原はるかに数多くの島々をめざして漕ぎ出た」と、恋しい人に伝えておくれ、そこの釣り人たち。

    作者 >>>小野篁(おののたかむら) 802~852年 小野妹子の子孫で、当時の第一級の学者だったが、直情径行の性格だったとされる。838年、遣唐副使としての出発に際し、大使の藤原常嗣と争い、さらに遣唐を諷する詩文を書いたので咎めを受け、官位を剥奪されて隠岐に流された。

    説明 >>>『古今集』巻9・羇旅の部に載る。隠岐の国に流されるとき、あたりに出ていた漁船を見て呼びかけたもので、他にたよるもののない、やるせない心情が吐露されている。なお、篁は2年後に許されて都へ復帰、その後は順調に昇進して、のちには参議にまで進んだ。「わたの原」は広い大海原、「八十島」はたくさんの島の意。

  12. 天つ風 雲のかよひ路(じ) 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

    僧正遍昭

    歌意 >>>空の風よ、どうか雲の中の通り道を吹き閉ざしてほしい。天女のような舞姫の姿を、もうしばらくここにとどめておきたいのだ。

    作者 >>>僧正遍昭(そうじょうへんじょう)816~890年 俗名・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。僧正は最上級の僧官。六歌仙の一人。

    説明 >>>『古今集』巻17・雑の部に載る、五節の舞姫を見て詠んだ歌。五節の舞は、毎年11月の新嘗祭(にいなめさい)に宮中で行われた少女たちの舞で、公卿や国司の未婚の娘から選ばれて舞姫となった。それぞれの家が華美を競ったので、さぞや美しい姿だったろう。

  13. 筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる男女川(みなのがは) 恋ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる

    陽成院

    歌意 >>>筑波山の峰から流れ落ちる男女川の水は、しだいに深い淵となっていきます。それと同じように私の恋心もつのりつのって深い淵のようになってしまいました。

    作者 >>>陽成院(ようぜんいん) 868~949年 清和天皇の皇子。10歳で即位したが、病のため17歳で譲位した。

    説明 >>>『後撰集』巻11・恋の部に載る、釣殿(つりどの)の皇女に贈った歌。釣殿の皇女は光孝天皇の皇女の綏子(すいし)内親王のことで、後に陽成院の后となった。はじめはほのかだった恋心が、しだいに淵のように深くなった、と歌っている。陽成院は脳を病んで、しばしば宮中で狂態を演じたとも伝えられるが、この歌からは、まだ無垢なころの少年の恋心が思われる。

  14. 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

    河原左大臣

    歌意 >>>陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は忍ぶ恋に乱れております。いったい誰のためにそうなってしまったのでしょう、私のせいではありません。

    作者 >>>源融(みなもとのとおる) 822~895年 嵯峨天皇の皇子だったが、臣籍に下って源姓となる。国守などを歴任、順調に昇進し左大臣になった。東六条に河原院という豪邸を構え、豪奢な生活を送ったことから「河原左大臣」と呼ばれた。

    説明 >>>『古今集』巻14・恋の部に載る、「陸奥のしのぶもぢずり」の乱れ模様に、動揺する恋心を託した歌。「しのぶもぢずり」の語義の定説はなく、しのぶ草の葉を布に摺りつけて染めたものとかいう。この歌は『伊勢物語』の初段にあり、元服直後の若い男が奈良の春日の里で、美しい姉妹を偶然見たときの気持ちを語る歌として援用されている。「そめ」は「染め」と「初め」の掛詞。

  15. 君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ

    光孝天皇

    歌意 >>>あなたに差し上げるために、早春の野に出て若菜を摘んでいる私の着物の袖に、しきりに雪が降っています。

    作者 >>>光孝天皇(こうこうてんのう) 830~887年 仁明天皇の第三皇子。無道のふるまいがあった陽成天皇が廃位させられたのち、藤原基経に擁立され55歳で即位したが、政治判断はすべて基経に任せていた(関白の始まり)。

    説明 >>>『古今集』巻1・春の部に載る。まだ即位する前の天皇が、誰かに若菜を摘んで贈ったときに添えた歌。当時は人に物を贈るとき、慣習として和歌を添えていた。また、若菜は、春の七草のように食べたり薬にする野草の総称で、新春にそれを食べると長生きすると信じられてきた。

  16. 立ち別れ いなばの山の峰に生(お)ふる まつとし聞かば いま帰り来む

    中納言行平

    歌意 >>>今あなたと別れて因幡の国に行ったとしても、稲葉山の峰に生えている松の言葉ではないが、あなたが待つと聞いたら、すぐにも帰ってくるよ。

    作者 >>>在原行平(ありわらのゆきひら) 818~893年 父は平城天皇の皇子の阿保親王。業平の異母兄。弟の業平はなかなか出世できなかったが、行平は中納言にまで昇進した。

    説明 >>>『古今集』巻8・離別の部に載る。作者が因幡国(鳥取県)の地方官として赴任する際に、都の人々と別れを惜しんで詠んだ歌とされる。「いなば」は「往なば」と「因幡」の掛詞。「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞。

  17. ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず竜田川(たつたがわ) からくれなゐに 水くくるとは

    在原業平朝臣

    歌意 >>>不思議なことが多かったという神代にも聞いたことがない。一面に紅葉が浮いて流れる竜田川が、真紅に水をくくり染めにしているなどとは。

    作者 >>>在原業平(ありわらのなりひら) 平城天皇の皇子・阿保親王の第五子。在原氏を賜る。在五中将ともよばれ、『伊勢物語』の主人公にも擬せられる。六歌仙の一人。

    説明 >>>『古今集』巻5・秋の部に載る。「ちはやぶる」は「神代」にかかる枕詞。二条后(清和天皇の后)が東宮の御息所とよばれていたころ、御屏風に竜田川に紅葉が流れている絵が描かれていたのを題にして詠んだ歌(屏風歌)。屏風歌の流行が、古今集時代の歌風を風雅ならしめた原因とされる。

  18. 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路(じ) 人めよくらむ

    藤原敏行朝臣

    歌意 >>>住の江の岸に寄る波の「よる」という言葉ではないが、夜の夢の中でまで、私の恋路は人目を避けている。

    作者 >>>藤原敏行(ふじわらのとしゆき) ?~907年 三十六歌仙の一人。『敏行集』がある。

    説明 >>>『古今集』巻12・恋の部に載る。「住の江」は大阪市住吉区の一帯の海岸。「よる」は「寄る」と「夜」の掛詞。昼はもちろん、夢にも会えない嘆きを歌った歌で、相手をなじる気持ちも含まれている。女の立場に立って詠んだ歌。

  19. 難波潟(なにはがた) みじかき芦(あし)のふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

    伊 勢

    歌意 >>>難波潟に生えている芦の短い節と節の間のように、わずかな時間でさえあなたに逢うこともできずに、この世を過ごせというのですか。

    作者 >>>伊勢(いせ) 877?~938?年 伊勢守・藤原継蔭の娘。宇多天皇の中宮温子に仕える。『伊勢集』もある古今集時代の代表的女流歌人。

    説明 >>>『新古今集』巻11・恋の部に載る。「難波潟」は大阪湾の一部。「ふしのま」は「節と節の間」と「短い時間」の掛詞。「世」は「節と節の間」「世の中」「男女の仲」にかかる掛詞。わずかな逢瀬も許されない恋への絶望感を詠んだ歌。

  20. わびぬれば 今はた同じ難波(なには)なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

    元良親王

    歌意 >>>こんなに辛く思い悩むくらいなら、今はもう難波の澪標(みおつくし)の言葉のように、身を尽くし身を捨ててもあなたにお逢いしたいと思っています。

    作者 >>>元良親王(もとよししんのう) 890~943年 陽成天皇の第一皇子。風流好色として知られ、今昔物語には「いみじき好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける」と書かれており、また、歌集の『元良親王御集』は、全編が女性との恋のやり取りの歌となっている。

    説明 >>>『後撰集』恋の部に「事いできてのちに、京極御息所につかはしける」として載る。宇多天皇の寵愛が厚かった女御の京極御息所(藤原褒子、藤原時平の娘)との不義の恋が発覚した時に詠んだ歌。褒子はもともと時平が醍醐天皇の後宮に入れるために入内させたのに、天皇の父の宇多院が、褒子を見るなり連れ帰り、自分の妃にしてしまったほどの美人だったという。「みをつくし」は「澪標」と「身を尽くし」との掛詞。

  21. 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな

    素性法師

    歌意 >>>「すぐに行く」とおっしゃったから、私は九月の長い夜を待ち続けたのに、とうとう有明の月が出てしまいましたよ。

    作者 >>>素性法師(そせいほうし) 9世紀後半~10世紀初頭のころの人。俗名は良岑玄利(よしのみねのはるとし)。僧正偏昭の子。三十六歌仙の一人で、歌集『素性集』がある。

    説明 >>>『古今集』巻14・恋の部に載る。女の立場に立ち、来ない男のために夜通し待ち続けた恨みを詠んだ歌。「長月」は陰暦の9月、「有明の月」は夜更けに昇ってきて明け方まで空に残っている月のことで、満月を過ぎた十六夜以降の月。

  22. 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

    文屋康秀

    歌意 >>>吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、それで山から吹く風を嵐(荒らし)というのですね。

    作者 >>>文屋康秀(ふんやのやすひで) 9世紀半ばの人。官職は低かったが、六歌仙の一人。三河掾になって三河国(愛知県東部)に下るときに小野小町を任地へ誘った話が有名。

    説明 >>>『古今集』巻5・秋の部に「是貞親王の家の歌合(うたあはせ)の歌」として載る。「あらし」は「嵐」と「荒らし」の掛詞。「山嵐」という漢字二字を合わせると「嵐」になるという文字遊びを詠んだ歌。

  23. 月みれば ちぢに物こそかなしけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

    大江千里

    歌意 >>>月を見ていると、さまざまに悲しい思いがつのってくる。決して私一人を悲しませるためにやってきた秋ではないのだけれど・・・。

    作者 >>>大江千里(おおえのちさと) 9世紀後半から10世紀初頭にかけての人で、在原業平、行平の甥にあたる。文章博士。家集『句題和歌』がある。

    説明 >>>『古今集』巻4・秋の部に「是貞親王の家の歌合によめる」として載り、22の歌と同じ時に作られたとみられる。月を眺めて物思いにふける孤独な姿を詠じた歌で、『白氏文集』の漢詩を翻案したといわれる。秋を悲哀の季節としてとらえる心情は、平安時代初頭、漢詩文の影響を受けて一般化した。

  24. このたびは ぬさもとりあへず手向山(たむけやま) もみぢの錦 神のまにまに

    菅 家

    歌意 >>>今度の旅は、お供えの幣帛(へいはく)さえ用意しておりません。ですから、この手向山の美しい紅葉の錦を捧げますので、どうぞ神の御心のままお受け取りください。

    作者 >>>菅原道真(すがわらのみちざね)845~903年 文章博士。「菅家」は菅原道真の尊称。宇多天皇に重用され右大臣となったが、のち大宰府に左遷された。

    説明 >>>『古今集』巻9・羇旅の部に載る。宇多天皇が退位後、道真らを伴い大和地方を旅行、その折の歌。この時の道真は54歳で、権大納言で右大将だった。「ぬさ」は木綿や錦の切れ端でつくられた、神への捧げ物。「たむけ」は「手向け」と「手向山」の掛詞。

  25. 名にし負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られで 来るよしもがな

    三条右大臣

    歌意 >>>「逢って寝る」という名を持つ逢坂山のさねかずら。その蔓(つる)を手繰るように、人に知られずにやって来る方法がないものか。

    作者 >>>藤原定方(ふじわらのさだかた) 873~932年。父は内大臣・高藤。醍醐天皇の御代の歌壇における中心人物の一人。邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれた。

    説明 >>>『後撰集』巻11・恋の部に「女のもとにつかはしける」として載る歌で、人目を忍ぶ恋の切なさを詠んでいる。「あふ」は「逢う」と「逢坂」の掛詞。「さね」は「さねかずら」と「さ寝」の掛詞。「くる」は「来る」と「繰る」の掛詞。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

藤原定家

藤原定家(ふじわらのさだいえ)
 1162~1241年。鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と有識読みされることが多い。藤原北家御子左流で藤原俊成の二男。後鳥羽院に認められ和歌所寄人、『新古今集』選者となる。承久の乱直前には後鳥羽院から退けられるが、『新勅撰和歌集』を編纂。古典を校訂し後世に伝えた人でもあり、本居宣長が歌人の中で最も尊んだ。なお、分家の冷泉家は現在に続いている。

おもな歌枕

【宇治】
京都府宇治市の一帯で、「宇治山」「宇治川」「宇治橋」などと詠まれる。俗世から離れた隠遁の地とイメージされ、また冬に氷魚漁の網代(あじろ)が設けられたことから、「網代木」「霧」とともに冬の風景として詠まれた。
 
【逢坂山・逢坂の関】
近江国(滋賀県)と山城国(京都府)との国境にある山が逢坂山で、逢坂の関はその近江側にあった関。伊勢の鈴鹿、美濃の不破とともに三関の一つで、人々の往来が多かった。
 
【小倉山】
『万葉集』では奈良県桜井市近辺の山をいい、『竹取物語』の石作皇子の話に出てくる「小倉山」もこれにあたる。
平安期以降は京都市右京区嵯峨の嵐山と向き合う山をいう。
 
【末の松山】
陸奥(みちのく)の古地名で、岩手県二戸郡一戸町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。
 
【須磨】
神戸市須磨区の海岸に近いあたり。天智天皇のころに関が設けられたことから、「須磨の関(守)」などとも詠まれた。
 
【住の江】
大阪市住吉区の住吉神社を中心とした一帯。「住吉」ともいう。「波」「松」「忘れ草」とともに詠まれることが多い。
 
【高砂】
兵庫県高砂市。常緑の松の名所だったことから、長寿・不変がイメージされた。
 
【竜田】
奈良県生駒郡斑鳩町の一帯で紅葉の名所。「竜田川」は生駒山地の東側を南に流れる川。
 
【吉野】
奈良県吉野郡吉野町。春は桜、冬は雪を連想させる歌枕。

  

 

 

   

powered by まめわざ