小倉百人一首
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貞信公
歌意 >>>小倉山の峰の紅葉の葉よ、もし心があるのなら、もう一度ある行幸のときまで散らずに待っていておくれ。
作者 >>>藤原忠平(ふじわらのただひら:880~949年) 平安中期の人。関白藤原基経の四男で、時平や仲平と同腹の兄弟。貞信公は諡号(しごう)。兄の時平が若くして亡くなった後に氏長者となり、また摂政・関白として「延喜の治」と呼ばれる醍醐天皇の安定的な治世を司った。小一条太政大臣とも呼ばれ、藤原氏全盛の礎を築いた人物。兄の時平と対立した菅原道真とは親交を持っていた。
説明 >>>『拾遺集』巻17にある歌で、詞書に、宇多上皇が大堰川に御幸した際、紅葉のあまりの美しさに感動して、この紅葉を御子の醍醐天皇にもお見せしたいと言われたのを、貞信公がその気持ちを歌に詠んで天皇に奏上した、とある。「小倉山」は京都市右京区嵯峨にある山で、藤原定家が山荘の時雨亭(しぐれてい)を構えて百人一首を撰出した地。大堰川を挟んで対岸に嵐山がある。「心あらば」の「心」は、物事の情緒や道理を理解し、わきまえる人間の心。紅葉を擬人化した表現。「待たなむ」の「なむ」は願望の終助詞。
中納言兼輔
歌意 >>>瓶原(みかのはら)を二つに分かれて湧き出る泉川の「いつみ」ではないけれど、いつあなたに逢ったというのか、まだ逢ってもいないのに、なぜこんなに恋しく思われるのでしょう。
作者 >>>藤原兼輔(ふじわらのかねすけ:877~933年) 平安前期の人。紫式部(57番歌の作者)の曽祖父、定方(25番歌の作者)の従兄弟。邸が賀茂川堤にあったので「堤中納言」と呼ばれ、また歌人たちのパトロンでもあり、紀貫之や凡河内躬恒などの大歌人がよく出入りしていたという。10世紀歌壇の中心的存在で、三十六歌仙の一人。
説明 >>>『新古今集』巻11・恋の部に載る。「みかの原」は山城国(京都府)相楽郡加茂町を流れる木津川の北側一帯で、聖武天皇の時代に恭仁京が置かれた地。「わきて」は「湧きて」と「分きて」の掛詞。「いづみ」は泉川(今の木津川)の「泉」と「出水」の掛詞。上3句は「いつ見」を導く序詞。「いつ見きとてか」は、いつ逢ったというのか。この時代、風評でしか知らない美女に憧れる男の例は珍しくなく、この歌も、まだ見ぬ、そこはかとない恋心を歌っている。ただ、この歌は本当に兼輔の作かどうか不明。
源宗于朝臣
歌意 >>>山里はいつもさびしいけれど、とりわけ冬はさびしさが増してしまう。訪れる人もなくなり草も枯れてしまうから。
作者 >>>源宗于(みなもとのむねゆき:?~939年) 平安中期の人。光孝天皇(15番歌の作者)の孫で、父親は是忠親王。三十六歌仙の一人。臣籍に下って源姓となり、摂津や伊勢などの地方官を歴任した後、正四位下右京大夫となったが、元皇族にもかかわらず官位が進まず不遇だった。
説明 >>>『古今集』巻6・冬の部に載る。「山里」は「都」に対しての称。『古今集』のころから用いられる歌詞で、中国の隠遁思想が影響しているとされる。「冬ぞ」の「ぞ」は強意の係助詞。「人目も草も」の「人目」は人のことで、人も草もすべての生き物が、の意。「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞。「離る」は人が訪問しなくなる意。山里には訪ね来る人もなく、草も枯れ果ててしまう冬景色になると、生命とのふれあいがなくなったことを実感させ、孤独な寂しさを浮き彫りにしている。
凡河内躬恒
歌意 >>>あてずっぽうに折るなら折ってみようか、初霜で見分けがつかなくなった白菊の花を。
作者 >>>凡河内躬恒(おおしこうちのみつね:生没年未詳) 9世紀後半から10世紀初頭、平安前中期の人。淡路権掾(掾は国司の第三等官)などを歴任した下級役人だったが、紀貫之と並称される歌人で、『古今集』の撰者の一人。同集には貫之に次ぐ60首の歌が採られている。宇多上皇や醍醐天皇に召されて歌合や行幸に参じて歌を奉ったこともあった。
説明 >>>『古今集』巻5・秋の部に載る、初霜の純白に紛れてしまうほどの白菊の白さを詠んだ歌。朝の凛とした寒気、そして白菊の可憐な白さと初霜の清楚な白さという、とても高潔な美が描写されている一首。ただし、明治時代の歌人・俳人である正岡子規がこの歌に対し、「噓の趣向であり、初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなるはずがない。些細なことをやたらに大げさに述べていて一文半の値打もない」と強く批判したのは有名。一方では、印象を効果的に表現するため、こうした技法を認める立場もある。「心あてに」は、あてずっぽうに。「置きまどはせる」は、置いて紛らわしくしている。
壬生忠岑
歌意 >>>有明の月が無情に見え、あなたの態度が冷たく感じられたあの別れのとき以来、夜明けほど私にとって辛く切ないものはありません。
作者 >>>壬生忠岑(みぶのただみね:生没年未詳) 9世紀末から10世紀前半、平安前期の人。壬生忠見(41番歌の作者)の父。『古今集』撰者の一人。三十六歌仙の一人。官職は六位で止まり下級官吏に終わったが、勅撰集に入った歌は多く、『拾遺集』では巻頭を飾っている。
説明 >>>『古今集』巻13・恋の部に載る、後朝(きぬぎぬ)の別れの歌。下旬の月である有明の月は、夜明け近くの月。その時分に男が女のもとから別れて帰っていく。それを有明の別れと呼んで、逢瀬の後の余情がこめられた言葉としてよく用いられた。「つれなく」は「月がひややかに」と「女の態度が冷たく」の掛詞。歌の解釈は、女がつれない、月が冷たく見える、あるいは女と月の両方がつれなく感じられた、と3通りに分かれる。「暁」は夜明け前のまだ暗い時分。
なお、『古今著聞集』の記述に「後鳥羽院の御時、古今第一の歌はいづれぞと定家、家隆に御尋ねありけるに、二人ながらこの歌を申されけるとぞ」とあり、『古今集』第一の名歌にこの歌をあげたという。
坂上是則
歌意 >>>ほのぼのと夜が白んできた。ところが、有明の月が照っているのかと見間違うほどに、この吉野の里に白雪が降り積もっていた。
作者 >>>坂上是則(さかのうえのこれのり:生没年未詳) 9世紀末から10世紀前半、平安前期の人で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫。三十六歌仙の一人で、紀貫之や凡河内躬恒らとも交流があった。蹴鞠(けまり)の名手でもあり、醍醐天皇の御前で200回を超えて鞠を蹴り続けたと伝わる。
説明 >>> 『古今集』巻6・冬の部に載る、雪が降るのを見て詠んだ歌。「朝ぼらけ」は夜明け方のことで、「朝びらき(朝開。朝、舟で港を出て行くこと)」が転化したという。「有明の月」は、夜が明けてもなお空に残っている月。有明の月と見まがうばかりだというので、実際には月は出ていない。かつて離宮が置かれたこともある「吉野」は、天武皇統の聖地であり、昔を懐かしむ山里として、平安時代になっても歌に多く詠まれた。冬は雪、春は桜の名所。作者は大和国(奈良県)の掾(じょう:国司の第三等官)を務めていたことがあるので、吉野は身近な地だったかもしれない。
春道列樹
歌意 >>> 山間の谷川に風がかけた柵(しがらみ)は、流れることができずにたまっている紅葉の葉だったよ。
作者 >>>春道列樹(はるみちのつらき:?~920年) 物部氏の末裔といわれ、大学寮で漢学を学ぶ文章生(もんじょうしょう)から、後、太宰大典からに壱岐守となったが、赴任前に没したという。詳しい経歴は不明。歌人としては無名に近かったが、この歌が百人一首に採られ、名を残した。
説明 >>> 『古今集』巻5・秋の部に載る。作者が京都から山を越えて近江の志賀に至る道筋で詠んだ歌。『古今集』にしばしば出てくる「志賀の山越え」は、当時は往来も多く、歌枕の一つだったとされる。「山川」は、山の中を流れる川。「しがらみ(柵)」は、流れをせきとめるために、川の中に杭を打って竹などを横に編んだり結びつけたりしたもの。「流れもあへぬ」は、流れようとしても流れきれずにいる。谷川に、風がかけたしがらみができているという。それはしきりに落ちたまった深紅のもみじ。秋が過ぎゆく谷川の情景が鮮やかに浮かびあがってくる。
紀友則
歌意 >>> 日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた気持ちもなく、あわただしく花は散っていくのだろうか。
作者 >>>紀友則(きのとものり:?~905?年) 平安前期の人で、紀貫之の従兄弟(いとこ)。40歳くらいまで無官だったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。後に土佐掾、少内記、大内記に昇進した。紀貫之や壬生忠岑と共に『古今集』撰者となったが、完成前に亡くなったといわれる。『古今集』巻16に友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。三十六歌仙の一人。
説明 >>>『古今集』巻2・春の部に載る、桜の花の散るのを詠んだ歌。「ひさかたの」は天・空・日・月などに掛かる枕詞で、ここでは「(日の)光」に掛かる。「しづ心」は「静心」で、落ち着いた心の意。「らむ」は現在推量。のどかな春爛漫の日差しの中、なぜ桜の花だけが落ち着いた心もなく散り急ぐのかという。「は」行の頭韻と「の」が4回繰り返されることで、耳に心地よいやわらかな調べとなっており、『古今集』中で特に名歌とされる歌。定家はこの歌を本歌取りし、「いかにしてしづ心なく散る花ののどけき春の色とみゆらん」と歌っている。
藤原興風
歌意 >>>年老いた私はいったい誰を友としようか。長寿の高砂の松でさえ昔からの友人ではないのに。
作者 >>>藤原興風(ふじわらのおきかぜ:生没年未詳) 9世紀後半から10世紀初頭、平安前期の人。藤原四家のうち、文化・芸術面で優れた人材が多い京家の出身。官位は低かったが、宇多天皇の歌壇で活躍、勅撰集に38首が載る。三十六歌仙の一人で、家集『興風集』がある。
説明 >>>『古今集』巻17・雑の部に載る、老齢の孤独を嘆いた歌。「誰をかも」は、誰を~としようか。「か・も」はともに係助詞で、詠嘆的な疑問。「知る人」は友だち。「高砂」は今の兵庫県高砂市の海岸。年を経たものの引き合いとして「高砂の松」をあげるのは、当時として普通のことだった。住吉(大阪市住吉区)の松とともに長寿とされ親しまれてきた。「ならなくに」は、ではないのに、の意。親しい友人はみな亡くなり、今さら新しい友人もできない、かといって長寿の象徴である松は語り合えるような相手ではない、といっている。老境の身のみが実感する、沈痛な嘆き。
紀貫之
歌意 >>>いくら親しくしていたとはいえ人の心は変りやすい。だからあなたのお心は、昔のままかどうか分かりませんが、昔馴染みのこの里では、梅の花だけは変らない香りで咲き匂っていますよ。
作者 >>>紀貫之(きのつらゆき:866?~945年) 平安前期から中期にかけての人。『古今集』撰集に主導的役割を果たし、巻頭にある「仮名序」を執筆。「仮名序」は日本最初の歌論であり、またこの中で6人の歌人を批評したのが「六歌仙」である。『土佐日記』の作者でもあり、かな文学、日記文学の創始者となった。官吏としての履歴には恵まれなかったが、文学的業績は偉大。
説明 >>> 『古今集』巻1・春の部に載る。かつて長谷寺参詣の常宿にしていた家を久しぶりに訪ねた折、その家の主人が疎遠の恨み言を言ったので、この歌で応じたとある。「そういうあなたの心も、変わっているかいないか分かりません」と皮肉で応酬している。長谷寺は、奈良県桜井市初瀬町にある寺。「いさ」は下に打消しの語を伴い、「さあどうだろうか、・・・ない」の意。「ふるさと」は、ここでは昔馴染みの場所。「花」は、ここでは梅。「にほふ」は美しく照り映える意ながら、「香」に続いて「匂う」の意も持つ。
ちなみにこの歌に対する」主人の返歌は「花だにもおなじ心に咲くものを植えたる人の心も知らなむ」で、主人は女性であったという説もある。
清原深養父
歌意 >>>夏の夜は、まだ宵だと思っているうちに明けてしまったが、いったい雲のどこに月は宿っているのだろうか。
作者 >>>清原深養父(きよはらのふかやぶ:生没年未詳) 9世紀末から10世紀前半、平安中期の人。清原元輔(42番歌の作者)の祖父、清少納言(62番歌の作者)の曾祖父。紀貫之や中納言兼輔と親交があったが、官吏としては不遇だった。勅撰集に41首が載る。琴の名手であったとも伝わる。
説明 >>> 『古今集』巻3・夏の部に載る。詞書には「あかつきがたによめる」とあり、暮れたかと思うとすぐに明けてしまう、そんな夏の夜の短さを「月はまだ空に残っているはずだが、いったいどこの雲にに宿っているのだろう」と分析的に推量している歌。時節は旧暦6月下旬ごろとみられ、このころは下弦の月。「まだ宵ながら」の「宵」は日没からしばらくの間のこと。「ながら」はここでは、~のままの状態で、の意。「明けぬるを」の「ぬる」は完了の助動詞。「を」は順接の接続助詞で、~ので、の意。「らむ」は現在推量の助動詞。
文屋朝康
歌意 >>> 葉の上の白露に風が吹きつける秋の野は、その露が散りこぼれ、まるで紐を通していない玉が飛び散るようだ。
作者 >>>文屋朝康(ふんやのあさやす:生没年未詳) 9世紀後半から10世紀初頭、平安前期の人。文屋康秀(22番歌の作者)の子。駿河掾、大舎人大允などを歴任、官位には恵まれなかったが、歌才は認められ、多くの歌会に参加したらしい。『古今集』に1首、『後撰集』に2首。
説明 >>>『後撰集』秋の部に「延喜の御時、歌めしければ」とあるが、実際は「寛平の御時の后の宮の歌合」の歌であるという。風に吹き散らされる秋の野の一面の白露の美しさを詠った歌。白露は草の葉の上に乗って光る露のこと。それを玉に見立てて、それを紐で貫くというのは、平安時代の歌の常套的な表現だった。「玉」は真珠または水晶で、古来、富貴を象徴する宝とされた。「吹きしく」の「しく」は「頻く」で、しきりに吹く意。「玉ぞ散りける」は、風で木草が激しく揺れて散る露を、紐で貫いていないのでばらばらになる玉と見立てている。
右 近
歌意 >>> あなたに忘れられてしまう私の身は何とも思いません。しかし、神に愛を誓ったあなたが、神罰を受けて命を落してしまわないか、それが気がかりなのです。
作者 >>>右近(うこん:生没年未詳) 10世紀前半期、平安中期の人。父の藤原季縄(ふじわらのすえなわ)が右近少将だったので「右近」と呼ばれる。醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)に仕え、村上朝の歌壇で活躍する。艶聞の多い女性として知られる。
説明 >>> 『拾遺集』巻14・恋の部に載る。永遠の愛を神に誓った相手が心変わりをした。それは神への裏切りでもあり、相手の男は神罰をこうむって命を落すかもしれない。その相手の死を惜しむとともに、諦めたはずの恋への執着がこみあげている。「誓ひてし」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形。「人の命」の「人」は相手の男のことで、相手の身を案じている、それとも「神罰」に恨みが込められているのか、解釈が分かれるところ。『大和物語』(84段)にも見える歌で、相手は藤原時平の三男の敦忠(あつただ)とされる。身分違いの恋だったようだ。
参議等
歌意 >>> 浅茅の生えている小野の篠原の「しの」ではありませんが、私はじっと忍んでこらえています。なのに、どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょうか。
作者 >>>源等(みなもとのひとし:880~951年) 平安中期の人。嵯峨天皇の曾孫で、三河守、丹波守、山城守など地方官を歴任し、天暦元年(947年)に参議となる。『後撰集』に4首入っているが、歌人としては無名に近い。
説明 >>>『後撰集』巻9・恋の部に「人(女)につかはしける」として出ている歌。『古今集』にある詠み人知らずの「浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめや言ふ人なしに」の歌を本歌取りしたもの。本歌がひたすら忍ぶ内容であるのに対し、人目を忍ぶ恋ながらも、抑えがたい恋情の不可解さを詠んでいる。上2句は「しのぶ」を導く序詞。「浅茅生の」は「小野」に掛かる枕詞。「浅茅生」は、まばらに生えている茅(ちがや)、「小野」の「小」は語調を整える接頭語で、地名ではなく野原のこと。「あまりて」は、多すぎてあふれる状態で、ここは「しのびあまりて」で、我慢できなくなっての意。「などか」は「どうして~だろうか」の意。
平兼盛
歌意 >>> 誰にも知られないように切ないまでの恋心を包み隠してきたのに、とうとう顔色に出るまでになってしまった。「何かに思い悩んでいらっしゃるのですか」と人に問われるほどに。
作者 >>>平兼盛(たいらのかねもり:?~990年) 平安中期の人。光孝天皇の玄孫で篤行(あつゆき)王の子。父とともに臣籍に下って平氏を名乗り、従五位上駿河守に至った。59番歌の作者・赤染衛門の実父といわれるが、真偽は不明。『後撰集』時代の代表的歌人で、勅撰和歌集に多数入撰。三十六歌仙の一人。
説明 >>>『拾遺集』巻11・恋の部に「天暦の御時の歌合(うたあわせ)」として載る。この歌は、天徳4年(960年)3月の村上天皇主催の歌合で、次(41番)の壬生忠見の歌と優劣を競わされ、判者が結論を出すのに困っていたところ、天皇が「しのぶれど」と口ずさんだことから、直ちにこの歌が勝ちとされた。もっとも、天皇は双方の歌を口ずさんで、ゆっくり優劣を考えるつもりだったかもしれない。「しのぶれど」は、人に覚られないように隠してきたけれど。「色」は表情。
なお、「歌合」とは、参加者が左右二組に分かれ、題に沿った歌を詠み、審判である半者が優劣を決める対戦。歌人の力量が判断される重要な場となり、負けることがかなりの不名誉とされたため、参加者は真剣だった。
壬生忠見
歌意 >>> 恋をしているという私のうわさが、早くも立ってしまった。誰にも知られまいと、ひそかに思い始めたばかりなのに。
作者 >>>壬生忠見(みぶのただみ:生没年未詳) 10世紀半ば、平安中期の人。30番歌の作者・壬生忠岑(みぶのただみね)の子。父同様、官位には恵まれなかったが、歌人として評価されていた。貧しいため、宮中から召されて、参内のための乗り物がないと返事したこともあった。三十六歌仙の一人。
説明 >>> 『拾遺集』巻11・恋の部に「天暦の御時の歌合」として載る。前の40番歌の平兼盛と歌の勝負に負けた忠見は、落胆のあまり食欲がなくなり、病になってついには亡くなったという話がある。それほどに忠見にとっては自信作だった。当時の評価は、兼盛の歌に負けず劣らず高く、勅撰集への入集数で比較すると、兼盛が86首、忠見が37首だが、『新古今集』以後では忠見がやや多い。「恋すてふ」の「てふ」は「といふ」がつづまった形で、「ちょう」と発音する。「わが名」は自分の噂。「まだき」は、早くもの意の副詞。「思ひそめ」は「思い初め」で、恋は始まったばかりという気持ち。
清原元輔
歌意 >>>固く約束をしたよね、互いに涙で濡れた袖をしぼりながら。あの末の松山を決して波が越えることがないのと同じに、私たちの仲も絶対に変わるまいと。
作者 >>>清原元輔(きよはらのもとすけ:908~990年) 平安中期の人で、清少納言(62番歌の作者)の父、清原深養父(36番歌の作者)の孫。和歌所の寄人となって『万葉集』に訓点をつける事業にたずさわり、『後撰集』の編纂にもかかわった。官位の最後は従五位上・肥後守。三十六歌仙の一人。
説明 >>> 『後撰集』巻14・恋の部に載る。詞書によれば、心変わりした女に、相手の男に頼まれて代作した歌という。恨みと未練の気持ちが綯い交ぜとなっており、古歌の「君をおきてあだし心をわが待たば末の松山浪も越えなむ」を本歌取りしたもの。「契りきな」の「き」は過去を表す助動詞。「な」は感動を表す終助詞。「かたみに」は、お互いに。「袖をしぼる」は、涙で濡れた袖を絞ること。「末の松山」は、現在の宮城県多賀城市あたりの地。絶対に波の越さない位置にあったので、絶対にできないこと、つまり変わらぬ愛を示す常套の歌枕として当時の王朝で多く使われた。
権中納言敦忠
歌意 >>>あなたに逢って一夜の契りを交わした後の今の深い思いに比べると、逢う前のあなたへの思いは、まるで何も思っていなかったようなものです。
作者 >>>藤原敦忠(ふじわらのあつただ:906~943年) 平安中期の人で、左大臣・時平(ときひら)の三男。美貌で名高い母は在原業平の孫で、時平が強奪して妻にした。政治家としてよりも、むしろ風流貴公子として名を残し、琵琶の名手でもあった。三十六歌仙の一人。38番歌の作者・右近の恋人だったが、若くして亡くなり、右近を裏切った罰とも噂された。
説明 >>>『拾遺集』巻12・恋の部に載る。逢瀬を遂げたいと願って恋い焦がれてきた人と、はじめて一夜を共にした翌朝、自宅へ帰った男が女のもとに贈った歌(後朝の歌)。ただし右近に贈ったものかどうかは不明。「逢ひ見ての」の「逢ふ」も「見る」も、男女が契りを結ぶ意。「後の心」は、逢瀬を遂げた後の気持ち。「昔は」は、逢う前は。なお「物を」は、出典の『拾遺集』では「物も」となっている。
中納言朝忠
歌意 >>> もしもあなたに逢うことがなかったならば、あなたの無情を恨んだり自分の不幸を恨んだりすることもなかったろうに。
作者 >>>藤原朝忠(ふじわらあさただ:910~966年) 平安中期の人。三条右大臣・定方(さだかた:25番歌の作者)の五男。従三位となり、土御門中納言とも呼ばれる。雅楽の管楽器である笙(しょう)の名手、また三十六歌仙の一人で、勅撰集に21首が入る。家集に『朝忠集』がある。
説明 >>> 『拾遺集』巻11・恋の部に「天暦の御時歌合に」として載る。「逢ふこと」は男女の逢瀬をいう。「なかなかに」は、かえって、なまじっか、の意。「人をも身をも」の「人」は相手、「身」は自分。「ざらまし」の「ざら」は打消しの助動詞の未然形、「まし」は反実仮想の終助詞で、もし~ならば~だろうの意。まれの逢瀬があり、それを期待するあまり、いらだたしい気持ちになって、相手のつれなさや自分の運命を恨んでしまう、といっている。歌合では藤原元真との勝負で、「詞清げなり」と評されて勝利した。
謙徳公
歌意 >>>哀れんでくれるはずの人も思い浮かばず、あなたに恋焦がれる私は、このままむなしく死んでしまいそうです。
作者 >>>藤原伊尹(ふじわらのこれまさ:924~972年) 平安中期の人。貞信公忠平(26番歌の作者)の孫で、義孝(50番歌の作者)の父。和歌所の別当(長官)として『万葉集』の訓点、『後撰集』を撰進する「梨壺(なしつぼ)の五人」の事業を主宰。学才にも優れ、順調に出世し大臣・摂政となるが、49歳で死去。「謙徳公」は諡号。勅撰集に37首入集。
説明 >>>『拾遺集』巻15・恋の部に「物いひ侍りける女の後につれなく侍りてさらにあはず侍りければ 一条摂政」として出ている。言い寄っていた相手の女が、しばらくして冷たくなり、逢ってもくれなくなったときに詠んだ傷心の歌。「思ほえで」は、思い当たらないで。「いたづらなる」は、むなしくなる意。『源氏物語』で、光源氏の正室・女三の宮に横恋慕した柏木が、彼女にせめて「あはれ」と言ってほしいと求めつつ、ついに命を落としてしまう話を彷彿とさせる。
曾禰好忠
歌意 >>> 由良の瀬戸を渡る船頭が、櫂をなくして行く先もわからず漂うように、私の恋路もこの先どうなることか不安でたまらない。
作者 >>>曾禰好忠(そねのよしただ:生没年未詳) 10世紀後半、平安中期の人。下級官吏として終わったため、家系・官歴ともに不明な点が多い。一風変わった歌風で知られ、偏屈な性格で奇行も多かったため排斥された。例えば、招かれもしない歌合の席に乗り込んで、自分のような名歌人が招かれぬはずがないと言い張り、ついに襟をつままれて外に出されてしまったという。斬新な歌風が再評価されたのは死後になってから。家集『好忠集』、通称『曾丹集』がある。
説明 >>>『新古今集』巻11・恋の部に載る。上3句は序詞。「由良の門」は丹後国(京都府)の由良川の河口。「門」は「水門(みなと)」で、海峡や瀬戸など水の流れが速くなる場所。「かぢ」は現在の楫ではなく、櫓や櫂の総称。「たえ」は「絶え」で、無くす。激しい波浪に楫を無くして翻弄される様子である。作者は丹後国の掾(じょう:国庁の三等官)だったことがある。そのため曾丹・曾丹後とも呼ばれたが、やや軽んじた呼び名である。
恵慶法師
歌意 >>>雑草が幾重にも生い茂ったこの寂しい邸には、誰一人尋ねてこないけれど、秋だけは今年もまたいつものようにやって来てくれた。
作者 >>>恵慶法師(えぎょうほうし:生没年未詳) 10世紀後半、平安中期の人で、播磨国(兵庫県)の国分寺の僧侶。出自や経歴は不明ながら、歌合せや花山天皇の熊野行幸に供奉した記録があり、清原元輔、平兼盛らの一流歌人とも親交を結んでいた。
説明 >>> 『拾遺集』巻3・秋の部に載る。詞書によれば、歌に詠まれた宿は、源融(みなもとのとおる:14番歌の作者)の豪邸跡(河原院)とされる。河原院は、風流をきわめたとされるが、融の死後は、亡霊が出るという噂や賀茂川の氾濫などがあって荒れ果て、今は訪れる人もいなくなってしまった。それでも秋だけはきちんとやって来る、という。「八重」は幾重にも、の意。「葎(むぐら)」は茜草科の植物で、茎に刺毛があり、地上を這って広がる。「さびしきに」の「に」は原因・理由を表す接続助詞。「人こそ見えね」は、訪ねる人は見えないが。河原院は、『源氏物語』の夕顔の巻の、荒廃した邸「某(なにがし)の院」のモデルともされている。この当時は融の子孫の安法法師が住んでいて、恵慶らはここでしばしば歌会などを開いていた。
源重之
歌意 >>> 風が激しくて、岩を打つ波がひとりでに砕け散るように、私だけが心砕けて恋に悩んでいるのか。
作者 >>>源重之(みなもとのしげゆき:?~1000年) 平安中期の人で、清和天皇の曾孫。父の兼信が陸奥に土着したため、伯父の参議兼忠の養子になった。相模権守、肥後守、筑前守などの地方官を歴任し、陸奥国で没した。三十六歌仙の一人で、勅撰集に66首が載り、『重之集』という歌集もある。
説明 >>>『詞花集』恋の部に載る。相手の女が岩のように冷淡で、自分はその岩に当たって砕け散る波のように、千々に悩み苦しんでいる、という。上2句は「くだけて」を導く序詞。「風をいたみ」は、風が激しいので。「~(を)+形容詞の語幹+み」は、原因・理由を表す語法。「くだけて物を思ふころかな」は恋の慣用表現で、ここでは波が岩に当たって砕けるのと、自分の心が悩んで砕けるのを掛けている。
大中臣能宣
歌意 >>> 宮中の御門を守る衛士の焚くかがり火が、夜は燃え昼は消えるように、私の恋心も夜には燃え上がり、昼は悶々と思い悩んでいる。
作者 >>>大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ:921~991年) 平安中期の人で、神職の家柄に生まれた。60番歌の作者・伊勢大輔の祖父。神祇大副を経て、伊勢神宮の祭主となった神官。また、『万葉集』の訓点や『後撰集』の撰進にあたった「梨壺(なしつぼ)の五人」の一人。官位は正四位下。
説明 >>>『詞花集』恋の部に載る。「みかきもり(御垣守)」は、宮中の諸門を警護する衛士。「衛士」は諸国の軍団から集められた兵士で、3年交替とされた。ここでは「みかきもり」を指しており、みかきもりである衛士、という意。上2句が「夜は燃え」を導く序詞。夜に赤々と燃え、夜が明けると消されてしまう篝火に、昼と夜、まるで別人だと思えるほど恋に焦がれる男の姿を対比させており、とりわけ夜の闇に浮かぶ篝火の炎が印象的。なお、『古今六帖』に3・4句を「昼は絶え夜は燃えつつ」とした歌が詠み人知らずとしてあることから、実際には能宣の作ではないという説が有力。
藤原義孝
歌意 >>>あなたのためなら惜しくないと思っていた命も、逢うことがかなった今となっては、ずっと長らえたいと思うのです。
作者 >>>藤原義孝(ふじわらのよしたか:954~974年) 平安中期の人。45番歌の作者・藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)の三男で、三蹟の一人である藤原行成の父。「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ」と言われるほどの美男子で、父の権勢を背景に18歳で正五位下・右少将になったが、天然痘に罹り21歳で死去した。熱心な仏教徒で、出家を望んだが叶わなかった。
説明 >>>『後拾遺集』恋の部に「女のもとより帰りてつかはしける」とある、いわゆる後朝の歌。逢瀬の願いが叶った途端、それまで命を捨ててもいいと思っていた自分の心が大きく変わったと言っており、恋が成就した感動によって、新たに生への執着が生じている。相手の女の名はわからない。「長くもがな」の「もがな」は願望の終助詞。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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