本文へスキップ

更級日記

門出上総から下総へ乳母を見舞う竹芝寺すみだ川足柄山富士の山遠江から三河へ尾張から近江へ帰京継母との別れ物語我が家の庭 『長恨歌』姉の言葉火事のこと姉の死姉の乳母司召の失意東山へ東山より帰京継母の名のり父の任官太秦参籠東より人来たり

夢告父の帰京宮仕へ結婚、家庭へ梅壺の女御冬の夜水鳥の歌の贈答友との語らい殿上人との語らい石山詣で初瀬詣で鞍馬の春秋石山寺の月また初瀬詣で充足した日々越前の旧友西山の奥太秦二人の友と筑前の友和泉へ夫の任官夫の死鏡の影阿弥陀仏の夢姥捨よもぎが露

 更級日記

門出

(一)
 東路(あづまぢ)の道の果てよりも、なほ奥(おく)つ方(かた)に生(お)ひ出(い)でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間、宵居(よひゐ)などに、姉・継母(ままはは)などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏(ひかるげんじ)のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。

 いみじく心もとなきままに、等身(とうしん)に薬師仏(やくしぼとけ)を作りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く候(さぶら)ふなる、ある限り見せたまへ」と、身を捨てて額(ぬか)をつき、折り申すほどに、十三(とをあまりみつ)になる年、上(のぼ)らむとて、九月(ながつき)三日(みか)門出(かどで)して、いまたちといふ所に移る。

 年ごろ遊び慣れつる所を、あらはにこほち散らして、立ち騒ぎて、日の入り際(ぎは)の、いとすごく霧(き)り渡りたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、人まには参りつつ額(ぬか)をつきし薬師仏(やくしぼとけ)の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。

【現代語訳】
 東海道の果ての常陸国よりもっと奥の地方で育った私は、どんなにか田舎びていただろうに、どう思い始めたものか、世の中に物語というものがあるのを何とか読みたいと思い続け、何もすることのない昼間や宵などに、姉や継母といった人たちが、あれこれの物語、そして光源氏の有様などを所々語ってくれるのを聞くと、ますます全部を知りたい気持ちが募るものの、彼女たちも、私が満足するほどに暗記してすらすらと語ってくれることなどできはしない。

 たいそうもどかしくてたまらないので、等身大の薬師仏を作って、手を洗い清めては、人が見ていない間にひそかに仏間に入っては、「早く京都に上らせてくださり、物語がたくさんあるのを、ある限り見せてください」と、一心不乱に額をすりつけてお祈りしていた。そのうちに、十三歳になった年、父の任期が果てて上京することになり、九月三日にひとまず門出して「いまたち」という所に移った。

 数年来遊びなれた家を、中が丸見えになるほどに家具を取り払い、皆が荷造りで大騒ぎしている。やがて日が暮れる時分となり、霧が物寂しく立ちこめる中を、車に乗ろうとしてふと家の方を振り返ると、人目に触れないようこっそりお参りして額づいたあの薬師仏が立っていて、このままお見捨て申し上げるのが悲しく、つい、人知れず泣いてしまった。

(注)門出・・・旅の出発。多くの場合、直接目的地に向かうのではなく、いったん他所に移る風習があった。
(注)いまたち・・・千葉県市原市。

(二)
 門出したる所は、巡りなどもなくて、かりそめの茅屋(かやや)の、蔀(しとみ)などもなし。簾(すだれ)かけ、幕など引きたり。南ははるかに野の方(かた)見やらる。東西(ひむがしにし)は海近くて、いとおもしろし。夕霧(ゆふぎり)立ち渡りて、いみじうをかしければ、朝寝(あさい)などもせず、かたがた見つつ、ここを立ちなむこともあはれに悲しきに、同じ月の十五日(とをかあまりいつか)、雨かきくらし降るに、境(さかひ)を出でて、下総(しもつさ)の国のいかだといふ所に泊まりぬ。庵(いほ)なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていも寝られず。

 野中(のなか)に丘だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる。その日は雨に濡れたる物ども干し、国に立ち遅れたる人々待つとて、そこに日を暮らしつ。

【現代語訳】
 門出をして移った所は、垣根や塀などもなく、ほんの間に合わせ程度の茅葺きの家で、蔀(雨戸)などもない。わずかに簾を掛け、幕などを引き巡らしてあるだけだった。南ははるかに野原が見渡せる。東と西は海が近くて、景色がとても美しい。夕霧が一面に立ち込めてたいへん趣きがあるので、翌朝は朝寝坊などもせず、あちらこちらを見て回っているうちに、ここを立ち去るのもしみじみと悲しく思われたが、同じ月の十五日、周りが暗くなるほど雨がひどく降る中を、国境を越え、下総の国の「いかだ」という所に泊まった。仮小屋も今にも浮いてしまいそうなほど雨が降るので、恐ろしくて寝ようにも寝られなかった。

 野中の丘のように高くなった所に、ただ木が三本だけ立っている。その日は、雨に濡れたいろいろの物を干し、国から一足遅れて出発した人たちを待つというので、そこで一日を過ごした。

(注)下総・・・千葉県北部と茨城県の一部。
(注)いかだ・・・下総国千葉郡池田の転訛あるいは誤写か。 

↑ ページの先頭へ

上総から下総へ

 十七日(とをかあまりなぬか)の早朝(つとめて)、立つ。昔、下総(しもつさ)の国に、「まのしてら」といふ人住みけり。疋布(ひきぬの)を千匹(ちむら)、萬匹(よろづむら)織らせ、晒(さら)させけるが家の跡(あと)とて、深き河を舟にて渡る。昔の門(かど)の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、河の中に、四つ立てり。人々、歌詠むを聞きて、心の中(うち)に、

 朽ちもせぬこの河柱(かはばしら)残らずは昔の跡をいかで知らまし

 その夜は、「くろとの浜」といふ所に泊まる。片つ方(かた)は広山(ひろやま)なる所の、砂子(すなご)遥々(はるばる)と白きに、松原茂りて、月いみじう明(あ)かきに、風の音もいみじう心細し。人々、をかしがりて歌詠みなどするに、

 まどろまじ今宵(こよひ)ならでは何時(いつ)か見むくろとの浜の秋の夜(よ)の月

【現代語訳】
 十七日の早朝、「いかだ」を出発する。昔、下総の国に「まのしてら」という長者が住んでいて、一疋の布を千も万も織らせ、川の水に晒して落ち着かせたという。その家の跡は、今は川の底に沈んでいる。深い川を舟で渡ると、昔の門の柱がまだ残っており、大きな柱が、川の中に四本立っている。それを見て人々が歌を詠むのを聞いて、私は心の中で、

朽ちることもなくこの川柱が残っていなければ、昔の跡をどうやって知ることができただろう。

 その夜は、「黒戸の浜」という所に泊まった。そこは、片側が広い砂丘になっている所で、白砂がはるか向こうまで続いている。その彼方に松原が茂り、折から月がたいそう明るく照らし、風の音もひどく心細く聞こえる。人々が風情を感じて歌を詠んだりするので、私も、

今夜は一睡もしないでいよう。今夜を逃したら、いったい、いつまた見ることができよう、この「くろとの浜」の美しい秋の月を。

(注)黒戸の浜・・・千葉市の登戸~稲毛の海岸。

【PR】

↑ ページの先頭へ

乳母を見舞う

 そのつとめて、そこを立ちて、下総(しもつさ)の国と武蔵との境にてある太井川(ふとゐがは)といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す。乳母(めのと)なる人は、男(をとこ)なども亡くなして、境(さかひ)にて子生みたりしかば、離れて別(べち)に上る。いと恋しければ、行かまほしく思ふに、せうとなる人いだきて率(ゐ)て行きたり。

 皆(みな)人は、かりそめの仮屋(かりや)などいへど、風すくまじく、引きわたしなどしたるに、これは男なども添はねば、いと手放(てはな)ちに、あらあらしげにて、苫(とま)といふものを一重(ひとへ)うち葺(ふ)きたれば、月残りなくさし入りたるに、紅(くれなゐ)の衣(きぬ)上に着て、うちなやみて臥したる月かげ、さようの人にはこよなくすぎて、いと白く清げにて、めづらしと思ひてかき撫でつつうち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎ率(ゐ)て行かるる心地、いとあかずわりなし。おもかげにおぼえて悲しければ、月の興(きよう)もおぼえず、くんじ臥(ふ)しぬ。

 翌朝(つとめて)、舟に車かき据(す)ゑて渡して、彼方(あなた)の岸に車ひきたてて、送りに来つる人々、これよりみな帰りぬ。上るは留(と)まりなどして、行き別るるほど、行くも留まるも、みな泣きなどす。幼心地にもあはれに見ゆ。

【現代語訳】
 その翌朝、そこ(黒戸の浜)を発って、下総の国と武蔵の国との境になっている太井川という川の上流の浅瀬、「まつさと」の渡し場に泊まって、一晩中かけて舟で少しずつ荷物などを対岸に運ぶ。私の乳母である人は、夫も亡くして、この国境で子を生んでいたので、出産の穢れを避けるというので、私たち一行とは別に上京することになった。私はこの乳母が恋しくてたまらず、お見舞いに訪ねたいと思っていると、兄にあたる人が、私を馬に抱き乗せて、連れて行ってくれた。

 皆は私たちの宿を間に合わせの仮小屋などと言うけれど、それでも風が吹き込まないように幕を引き巡らせている。それなのに、乳母の泊まっている宿はというと、夫なども付き添っていないせいか、ひどく手抜きをした雑なもので、屋根も苫というものを一重ふいただけ。月の光がそこらじゅうに射し込み、乳母は、紅の衣を上にはおって、辛そうに横になっていた。月の光に照らし出されたその様子は、乳母という身分の人には無いほど上品に見えて、たいそう白く清らかだ。私のお見舞いを珍しく思って、私の髪をしきりに撫でつつ泣くのを、たいそう不憫に見捨てがたく思うけれど、急いで兄に連れられて帰るのは、名残り惜しくてどうしようもない気分がした。帰ってからも乳母の姿が脳裏に浮かんで悲しくなり、月を見ても楽しい気分にはなれず、ふさぎこんで寝てしまった。

 翌朝、舟に車を運び上げて太井川を渡し、対岸でその車を立てて、見送りに来た人々は、ここから皆引き返す。京に上る私たちは立ち去り難く、長いこと留まって泣いていて、上総へ引き返す人たちも、やはり立ち去り難くて留まって泣いている。その情景は子供心にもしみじみ悲しく見えた。

(注)太井川・・・現在の江戸川の下流。ただし下総と武蔵の国境を流れるのは隅田川なので、作者の記憶違いか。
(注)まつさと・・・千葉県松戸市か。

↑ ページの先頭へ

竹芝寺

(一)
 今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子(すなご)白くなどもなく、こひぢのやうにて、紫(むらさき)(お)ふと聞く野も、葦(あし)、荻(をぎ)のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中を分け行くに、竹芝(たけしば)といふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、廊(らう)の跡の礎(いしずゑ)などあり。

 いかなる所ぞと問へば、「これは、いにしへ竹芝といふ坂なり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(ゑじ)にさし奉りたりけるに、御前(おまへ)の庭を掃くとて、『などや苦しき目を見るらむ。わが国に七つ三つ造り据ゑたる酒壺(さかつぼ)に、さし渡したる直柄(ひたえ)のひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごち、つぶやきけるを、その時、帝の御女(おんむすめ)、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾(みす)の際(きは)に立ちいでたまひて、柱に寄りかかりて御覧ずるに、このをのこのかくひとりごつを、いとあはれに、いかなるひさごの、いかになびくらむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾を押し上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と召しければ、かしこまりて高欄(かうらん)のつらに参りたりければ、『言ひつること、いま一(ひと)返りわれに言ひて聞かせよ』と仰せられければ、酒壺のことを、いま一返り申しければ、『われ率(ゐ)て行きて見せよ。さ言ふやうあり』と仰せられければ、かしこく恐ろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひ奉りて下るに、論なく人追ひて来(く)らむと思ひて、その夜、勢多(せた)の橋のもとに、この宮を据ゑ奉りて、勢多の橋を一間(ひとま)ばかりこぼちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひ奉りて、七日七夜といふに、武蔵の国に行き着きにけり。

【現代語訳】
 今はもう武蔵の国にさしかかった。とくに景色のよい所も見えない。浜辺も砂が白くて美しいなどということもなく泥のようで、紫草が生えていると古歌などに聞く武蔵野も、葦や荻ばかりが高く生い茂り、馬に乗った人の弓の先が見えないほどで、その中を分けて行くと、竹芝寺という寺があった。はるか向こうに、「ははさう」などという所の、廊の跡の土台石などがある。

 どういう所なのかと尋ねると、「ここは昔、竹芝といった坂です。その頃ここに住んでいた男を、国司が宮中の火たき屋の火をたく衛士として差し出したのですが、ある日のこと、その男が御殿の前の庭を掃きながら、『どうしてこんなに辛い目に合うのだろう。私の国では幾つも幾つも仕込んだ酒壺が置いてあり、そこに差し掛けて浮かべた直柄のひさごが、南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびく、そんな長閑な風景を見ることもなく、こんな勤めをしていることよ』と、独り言をつぶやいていました。その時、帝の姫宮でたいへん大切に育てられていたお方が、たった一人で御簾のそばに出られて、柱に寄りかかって辺りをご覧になっていると、この男の独り言を耳にされ、とても心惹かれ、いったいどんなひさごがどのようになびくのかしらと、たいそうご覧になりたく思われ、御簾をかき上げて、『そこの男、こちらへおいで』とお呼びになりました。男はつつしんで欄干のそばに参りますと、『先ほど言ったことを今一度私に言って聞かせておくれ』とおっしゃったので、酒壺のことをもう一度申し上げたところ、『私を連れていって、それを見せておくれ。こんなことを言うのはわけがあるのだから』とおっしゃった。男はもったいなく恐れ多いことと思ったが、そうなるはずの因縁だったのか、男は姫宮を背負って武蔵の国へ下って行きましたが、必ず人が追ってくるだろうと思い、その夜は勢多の橋のたもとに姫宮をお座らせ申し上げ、橋の橋板を一間分ほど壊し、それを飛び越え、姫宮を背負い申して、七日七晩めには武蔵の国に行き着いたのです。

(注)衛士・・・宮中の警備役。
(注)竹芝寺・・・東京都港区三田の済海寺か。

(二)
 帝(みかど)、后(きさき)、御子(みこ)(う)せたまひぬとおぼし惑ひ、求めたまふに、武蔵の国の衛士(ゑじ)のをのこなむ、いと香ばしきものを首に引き掛けて飛ぶやうに逃げけると申し出でて、このをのこを尋ぬるに、なかりけり。論なくもとの国にこそ行くらめと、公(おほやけ)より使ひ下りて追ふに、勢多の橋こぼれて、え行きやらず。三月(みつき)といふに、武蔵の国に行き着きて、このをのこを尋ぬるに、この御子、 公使(おほやけづかひ)を召して、『われさるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率(ゐ)て行けと言ひしかば率て来たり。いみじくここありよく覚ゆ。このをのこ罪し、れうぜられば、われはいかであれと。これも前(さき)の世に、この国にあとを垂(た)るべき宿世(すくせ)こそありけめ。はや帰りて公にこの由(よし)を奏せよ』と仰せられければ、言はむかたなくて、上りて、帝に、かくなむありつると奏しければ、『言ふかひなし。そのをのこを罪しても、今はこの宮を取り返し、都に返し奉るべきにもあらず。竹芝のをのこに、生けらむ世の限り、武蔵の国を預け取らせて、公事(おほやけごと)もなさせじ』。ただ宮にその国を預け奉らせたまふ由(よし)の宣旨(せんじ)下りにければ、この家を内裏(だいり)のごとく造りて住ませ奉りける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮の生みたまへる子どもは、やがて武蔵といふ姓(さう)を得てなむありける。それよりのち、火たき屋に女はゐるなり」と語る。

【現代語訳】
 帝と后は、姫宮がいなくなられたと動転なさり、お捜しになったところ、武蔵の国の衛士の男がとてもよい香りがするものを首に引っ掛けて飛ぶように逃げていったと申し出た者がいて、この男を捜したものの、影も形もありませんでした。間違いなく故郷に逃げただろうと、朝廷の使者が下って追うと、勢多の橋がこわれていて先に進めず、やっと三月めに武蔵の国に行き着いて、この男を捜して見つけ出します。すると、姫宮が朝廷の使者を呼び寄せられ、『私はこうなる宿命だったのでしょうか。この男の家が見たくて、私を連れて行けと言ったものですから、こうしてやって来たのです。ここはたいそう住みよく思います。もしこの男が処罰され、ひどい目に遭わされたら、私はどうしたらよいのでしょう。これも前世にこの国に住みつくという因縁があったからこそです。早く都に帰って朝廷にこのことを奏上してください』とおっしゃいました。使者は何とも言いようがなくて、上京し、帝にしかじかかくかくと奏上したところ、帝は、『どうにも仕方がない。その男を処罰したところで、今となっては姫宮を取り戻して都に戻すこともできない。それならば、竹芝の男に、生きている限りずっと武蔵の国を所領させ、税や賦役も免除することとしよう』とおっしゃり、ただ姫宮にその国をお預けするという旨の宣旨が下されたのです。男の家を皇居のように造り、姫宮をお住ませなさったのですが、その後、姫宮もお亡くなりになり、その家を寺にしてあったのを、竹芝寺というそうです。姫宮がお産みになったお子たちは、そのまま武蔵という姓をもらったそうです。こんなことがあったものですから、その後は火たき屋には男ではなく女を置くようになったそうです」と語った。 

【PR】

↑ ページの先頭へ

すみだ川

 野山(のやま)蘆荻(あしをぎ)の中を分くるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐて、あすだ川といふ、在五中将(ざいごちゆうじやう)の「いざ言問(ことと)はむ」と詠みける渡りなり。中将の集にはすみだ川とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。

 にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風(びやうぶ)を立て並べたらむやうなり。片つ方(かた)は海、浜のさまも、寄せかへる波のけしきも、いみじうおもしろし。

 もろこしが原といふ所も、砂子(すなご)のいみじう白きを二三日(ふつかみか)行く。「夏は大和撫子(やまとなでしこ)の、濃くうすく錦(にしき)を引けるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」と言ふに、なほ所々はうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり。「もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ」など、人々をかしがる。

【現代語訳】
 野や山、蘆や荻の中をかき分けながら進むほかなく、武蔵と相模の間を流れる「あすだ川」という川のほとりに出たが、そこは、在五中将が「いざ言問はむ」という歌を詠んだ渡し場である。中将の家集には「すみだ川」とある。舟で渡れば、相模の国になった。

 「にしとみ」(藤沢市)という所の山は、見事に描いた絵の屏風を立て並べたように素晴らしい景色だ。片側は海で、浜の様子も、寄せては返す波の様子も、たいへん趣深い。

 「もろこしが原」(大磯)という所も、浜の砂がたいそう白く続く中を二、三日かけて通っていく。「夏は大和撫子が濃くうすく錦を敷いたように咲いているのですが、今は秋の終わりなので見えません」と言うが、それでもまだ所々にこほれ落ちたように残っていて、趣深く咲いている。「地名がもろこしが原なのに、大和撫子が咲いているなんて」と人々は面白がっている。

(注)あすだ川・・・隅田川。武蔵と相模との間を流れるとあるのは誤り。作者の記憶違いか。
(注)在五中将・・・在原業平。「いざ言問はむ」は、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥思ふ人はありやなしやと」の歌のこと。

↑ ページの先頭へ

足柄山

 足柄山(あしがらやま)といふは、四、五日かねて、恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つ麓(ふもと)のほどだに、空の気色(けしき)、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり。

 麓に宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなく出で来たり。五十ばかりなる一人、二十(はたち)ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄み上(のぼ)りてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国(にしくに)の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波(なには)わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中(やまなか)に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。

 まだ暁(あかつき)より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半(なか)らばかりの、木の下のわづかなるに、葵(あふひ)のただ三筋(みすぢ)ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生(お)ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。

 からうじて越え出でて、関山(せきやま)にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺(いはつぼ)といふ所あり。えも言はず大きなる石の、四方(よはう)なる中に、穴のあきたる中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。

【現代語訳】
 足柄山という所は、四、五日も前から、恐ろしそうなほどに木々が生い茂って暗い道が続いていた。だんだんと山に入り込む麓の辺りでさえ、空の様子がはっきり見えない。言いようがないほど鬱蒼と木々がそそり立ち、ほんとうに恐ろし気だ。

 ふもとに宿泊したところ、月もなく真っ暗な夜で、暗闇に迷いそうになっていると、遊女が三人、どこからともなく姿を現した。五十歳くらいの一人と、二十歳くらいと十四、五歳くらいの遊女だった。人々は、宿の前に唐傘をささせて、遊女たちをそこに座らせた。供の男たちが火をともして見ると、二十歳くらいの遊女は、昔「こはた」とかいう名の知れた遊女の孫だという。髪がとても長く、額髪がたいそう美しく顔に垂れかかっていて、色は白くあかぬけしているので、このままでもかなりの下仕えとして都で通用するだろうなどと人々は感心した。すると、その遊女は、比べ物がないほどの声で、空に澄み上がるように見事に歌を歌った。人々はとても感動し、その遊女を身近に呼び寄せて皆でうち興じていると、誰かが、「西国の遊女はこのように上手には歌えまい」と言えば、遊女がそれを聞いて、「難波の辺りの遊女に比べたらとても及びません」と、即興で見事に歌った。見た目がとてもあかぬけしている上に、他の人と比べようがないほどの美声で歌い、そして、あれほど恐ろしげな山の中に立ち去って行くのを人々は名残惜しく思って嘆いている。幼い私の心には、それ以上にこの宿を立ち去るのが名残惜しく思われた。

 まだ夜が明けきらないうちから足柄を越えた。麓にまして山中の恐ろしさといったらない。山が高いので雲は足の下となる。山の中腹あたりの木の下の狭い場所に、葵がほんの三本ほど生えているのを見つけて、こんな山の中によくまあ生えたものだと人々が感心している。谷川の水はその山には三か所流れていた。

 やっとのことで足柄山を越え、関山に泊まった。ここからは駿河の国だ。横走の関のそばに岩壺という所がある。そこには何ともいいようがないほど大きくて、四角で中に穴の開いた岩があって、中から湧き出る水の清らかで冷たいことといったら、この上もなかった。

(注)足柄山・・・神奈川県から静岡県にまたがる連山。

↑ ページの先頭へ

富士の山

(一)
 富士の山はこの国なり。わが生(お)ひ出でし国にては西面(にしおもて)に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さま異なる山の姿の、紺青(こんじやう)を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平らぎたるより、煙(けぶり)は立ち上(のぼ)る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。

 清見(きよみ)が関は、片つ方(かた)は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫(くぎぬき)したり。けぶり合ふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。

 田子の浦は波高くて、舟にてこぎ巡る。

 大井川といふ渡りあり。水の、世の常ならず、すり粉(こ)などを濃くて流したらむやうに、白き水、速く流れたり。

【現代語訳】
 富士の山はこの国(駿河)にある。私が生まれ育った上総の国では西の方角に見えた山だ。その山のさまは、全く世の中に比類ない。他の山とは異なった姿で、紺青を塗ったような山肌に雪が消える時もなく積もっているのは、濃い紺青色の衣の上に白いあこめを着たように見えて、山の頂の少し平らな所から、煙が立ちのぼっている。夕暮れには火が燃え立つのも見える。

 清見が関は、片側は海だが、関屋がたくさんあり、海の中まで柵を作ってある。潮煙が多く立っているのだろうか、清見が関の波も高くなるにちがいない。風景のすばらしいことこの上ない。

 田子の浦は波が高くて歩けないので、舟で漕いで巡った。

 大井川という渡し場がある。川の水が並大抵でなく、すり砕いた米の粉などを濃く溶かして流したように、白い水が速く流れていた。

(注)あこめ・・・着物と着物の間に着る丈の短い衣服。
(注)関屋・・・関所の番人の詰め所。

(二)
 富士川といふは、富士の山より落ちたる水なり。その国の人の出でて語るやう、「一年(ひととせ)ごろ、物にまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水のつらに休みつつ見れば、川上の方(かた)より黄なる物流れ来て、物につきてとどまりたるを見れば、反故(ほぐ)なり。取り上げて見れば、黄なる紙に、丹(に)して濃くうるはしく書かれたり。あやしくて見れば、来年なるべき国どもを、除目(ぢもく)のごとみな書きて、この国来年あくべきにも、守(かみ)なして、また添へて二人をなしたり。あやし、あさましと思ひて、取り上げて、干して、をさめたりしを、かへる年の司召(つかさめし)に、この文に書かれたりし、一つ違はず、この国の守とありしままなるを、三月(みつき)のうちに亡くなりて、またなりかはりたるも、このかたはらに書きつけられたりし人なり。かかることなむありし。来年の司召などは、今年、この山に、そこばくの神々集まりて、ないたまふなりけりと見たまへし。めづらかなることにさぶらふ」と語る。

【現代語訳】
 富士川というのは、富士山から流れ下る川である。その国の人が出てきて語るには、「一年ばかり前、よそに出かけたところ、たいへん暑かったので、この川のほとりで休みながら眺めていますと、川上の方から黄色い物が流れてきて、何かにひっかかって留まりました。それを見れば、書き損じの紙でした。取り上げて見ると、黄色い紙に、朱筆で濃くはっきりと文字が書かれていました。不思議に思って見ると、来年、国守が任官される予定の国々のことを、除目のようにすべて書いてあり、ここ駿河の国も来年国守が変わるということで、新しい国守の名が書いてあり、その横に添えてもう一人の名が書いてあります。私は不思議に思い、おかしなことだと思って、この紙を拾い、干して大切にしまっておきましたところ、次の年の除目には、この紙に書かれたのが一つも違わず的中し、この駿河の国も、書かれていたその通りの人が任官したのですが、三か月も経たないうちに亡くなって、代わって任命された人も、この紙の傍らに書き添えられていた人だったのです。こんな不思議なことがあったのですよ。来年の司召のことなどは、今年、この富士の山に多くの神々が集まって決めていらっしゃるのだと分かったのでした。何とも珍しいことでございます」と語った。

(注)富士川は、実際は富士山が源流ではない。
(注)国守・・・地方長官。
(注)除目・・・人事異動。

↑ ページの先頭へ

遠江から三河へ

 沼尻といふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江(とほたふみ)にかかる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しければ、天ちうといふ川のつらに、仮屋(かりや)造り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やうやうおこたる。冬深くなりたれば、川風けはしく吹き上げつつ、堪へがたくおぼえけり。

 その渡りして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、下りし時は黒木を渡したりし、このたびは、跡だに見えねば舟にて渡る。入江に渡りし橋なり。外(と)の海は、いといみじく悪(あ)しく浪(なみ)高くて、入江のいたづらなる洲(す)どもに、こと物もなく松原の茂れる中より、浪の寄せ返るも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。

 それよりかみは、猪鼻(ゐのはな)といふ坂の、えも言はずわびしきを上りぬれば、三河の国の高師(たかし)の浜といふ。八橋(やつはし)は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし。二村(ふたむら)の山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木の下に庵(いほ)を造りたれば、夜一夜(よひとよ)、庵の上に柿の落ちかかりたるを、人々拾ひなどす。宮路(みやぢ)の山といふ所越ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉(もみぢ)散らでさかりなり。

 嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らで残れる

 三河と尾張となるしかすがの渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし。

【現代語訳】
 沼尻という所も無事に通り過ぎ、その後ひどい病にかかって、遠江にさしかかった。名高い歌枕の「さやの中山」などを越えたのも気づかなかった。たいそう苦しかったので、天中川(天竜川)という川のほとりに、仮屋を造って設け、そこで何日か過ごしているうちに、ようやく病が癒えてきた。冬も深くなっていたので、川風が激しく吹き上げ続き、寒さも堪えがたかった。

 その天中川を渡って浜名の橋に着いた。浜名の橋は、下向した時は樹皮のついたままの丸木をかけて渡してあったが、今回は、その橋の跡さえ見えないので舟に乗って渡る。その橋とは、かつて入江に渡してあった橋である。外海(遠州灘)は、たいそう荒れて波が高く、入江の殺風景な洲には、ただ松原の茂るその間から、波が寄せては返すのも、さまざまな色の玉のように見え、本当にあの古歌のように波が松の木を越えてしまうように見えて、たいそう趣深い。

 そこから上って行く先は、猪鼻という坂で、えも言われぬ難儀な坂を上れば、三河の国の高師の浜というところだ。八橋は名が残るだけで、橋の跡形もなく、何の見どころもない。二村の山の中に泊まった夜、大きな柿の木の下に仮屋を作ったところ、一晩中、仮屋の上に柿の落ちてくるのを、人々が拾ったりしている。宮路の山という所を越える頃は、十月末であるのに、まだ紅葉は散らず盛りであった。

 
この宮路山には嵐はここには吹いてはこないのだなあ。まだ紅葉が散らないで残っているのを見ると。

 三河と尾張の国境にある「しかすがの渡り」は、なるほど古歌にあるように、行くべきか、行かざるべきか思い悩んでしまいそうで、面白い。

(注)沼尻・・・所在不明。
(注)さやの中山・・・静岡県掛川市にある峠で、歌枕として名高い。
(注)天ちう川・・・天竜川。古くは天中川と呼ばれた。
(注)浜名の橋・・・浜名湖から海に通じる浜名川に架かる橋。歌枕として名高い。
(注)猪鼻・・・静岡県湖西市新居町あたりか。
(注)高師の浜、八橋、二村、宮路山、しかすがの渡り・・・いずれも歌枕。

↑ ページの先頭へ

尾張から近江へ

 尾張の国、鳴海(なるみ)の浦を過ぐるに、夕潮(ゆふしほ)ただ満ちに満ちて、今宵宿らむも中間(ちゆうげん)に、潮満ちきなば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。

 美濃の国なる境に、墨俣(すのまた)といふ渡りして、野上(のがみ)といふ所に着きぬ。そこに遊女(あそび)ども出で来て、夜一夜歌うたふにも、足柄なりし思ひ出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし。

 雪降り荒れまどふに、ものの興もなくて、不破(ふは)の関、あつみの山など越えて、近江(あふみ)の国おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり。

 みつさかの山の麓(ふもと)に、夜昼(よるひる)、時雨、霰(あられ)降り乱れて、日の光もさやかならず、いみじうものむつかし。そこを立ちて、犬上(いぬかみ)、神崎(かんざき)、野洲(やす)、栗太(くるもと)などいふ所々、なにとなく過ぎぬ。湖の面(おもて)はるばるとして。なで島、竹生島(ちくぶしま)などいふ所の見えたる、いとおもしろし。瀬田の橋みなくづれて渡りわづらふ。

【現代語訳】
 尾張の国の、鳴海の浦を通り過ぎる時に、夕潮がどんどん満ちてきて、今晩泊まるにも中途半端な位置に来てしまった。潮が満ちてくれば、ここを通り過ぎることもできなくなるからと、一行はあわてて走って通り過ぎた。

 美濃の国との境で、墨俣という渡し場を渡って、野上という所に着いた。そこに遊女たちが出てきて、一晩中歌うにつけても、足柄山で出会った遊女たちのことが思い出されて、しみじみとなつかしく恋しく思われた。

 雪が激しく降って荒れるので、何の情緒もなく、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国のおきながという人の家に泊まって、四、五日過ごした。

 みつさかの山の麓では、夜も昼も時雨やあられが降り乱れ、日の光もはっきり射さないので、大変うっとうしい。そこを出発して、犬上、神崎、野洲、栗太などいう所々を、何ということもなく通り過ぎた。琵琶湖の水面をはるかに見渡して、なで島、竹生島などいう所が見えるのは、たいへん趣深い。瀬田の橋はすっかり崩れていて、渡るのが大変だった。

↑ ページの先頭へ

帰京

 粟津(あはづ)にとどまりて、師走の二日、京に入る。暗く行き着くべくと、申(さる)の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなる切懸(きりかけ)といふものしたる上(かみ)より、丈六(ぢやうろく)の仏のいまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れて、いづこともなくておはする仏かなと、うち見やりて過ぎぬ。ここらの国々を過ぎぬるに、駿河の清見(きよみ)が関と、逢坂(あふさか)の関とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ。

 広々と荒れたる所の、過ぎ来つる山々にも劣らず、大きに恐ろしげなる深山木(みやまぎ)どものやうにて、都の内とも見えぬ所のさまなり。ありもつかず、いみじうもの騒がしけれども、いつしかと思ひしことなれば、「物語求めて見せよ、見せよ」と母を責むれば、三条の宮に、親族(しぞく)なる人の衛門(ゑもん)の命婦(みやうぶ)とてさぶらひける尋ねて、文(ふみ)やりたれば、珍しがりて、喜びて、御前(おまへ)のをおろしたるとて、わざとめでたき草子ども、硯(すずり)の箱の蓋(ふた)に入れておこせたり。うれしくいみじくて、夜昼これを見るよりうち始め、またまたも見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、たれかは物語求め見する人のあらむ。

【現代語訳】
 粟津に滞在して、いよいよ十二月の二日に京都に入った。暗くなって着くようにと、申の時ごろ(午後4時頃)に出発して行くと、逢坂の関近くになって、山の斜面にちょっとした切り懸け(板塀)を作ってある上から、一丈六尺(約5m)の仏像が建造の途中でいらっしゃり、そのお顔だけ遠くに眺められた。いとおしくも、人里離れ、どことなく所在なさそうな様子でいらっしゃる仏様だなと眺めながら通り過ぎた。ここまで多くの国々を過ぎて来たが、駿河の清見が関と、逢坂の関ほどすばらしい所はなかった。だいぶん暗くなって、三条の宮様(脩子)の御所の西隣にある我が家にたどり着いた。

 三条の我が家は広々と荒れた所で、これまで越えてきた山々にも劣らず、大きく恐ろしげな深山木が鬱蒼と生い茂り、とても都の中とも思えぬ有様だ。着いたばかりで落ち着かず、ひどく取り込んでいるけれども、都に着いたらすぐにも読みたいと思っていたので、「物語を捜して見せて、見せて」と母をせかすと、母は、三条の宮に、親戚で衛門の命婦として仕えている人に手紙を送ったので、命婦は私たちの帰京を珍しがって喜び、「宮様のお持ちのものを拝領しました」と言って、格別に素晴らしい冊子の数々を、硯箱の蓋に入れて贈ってくれた。たまらなく嬉しくて、夜も昼も夢中でこれを読みふけり、次々に読みたくなってきた。でも、あわただしい都のほとりで、いったい誰が私のために物語を捜し求めて見せてくれるというのか。

(注)粟津・・・大津市南部。
(注)逢坂の関・・・大津市逢坂山。
(注)清見が関・・・静岡市清水区。

【PR】

↑ ページの先頭へ

継母との別れ

 継母(ままはは)なりし人は、宮仕へせしが下りしなれば、思ひしにあらぬことどもなどありて、世の中恨めしげにて、ほかに渡るとて、五つばかりなる乳児(ちご)どもなどして、「あはれなりつる心のほどなむ、忘れむ世あるまじき」など言ひて、梅の木の、つま近くて、いと大きなるを、「これが花の咲かむをりは来(こ)むよ」と言ひおきて渡りぬるを、心のうちに恋しくあはれなりと思ひつつ、忍び音(ね)をのみ泣きて、その年も返りぬ。いつしか梅咲かなむ、来むとありしを、さやあると、目をかけて待ち渡るに、花も皆咲きぬれど、音もせず。思ひわびて、花を折りてやる。

 頼めしをなほや待つべき霜枯れし梅をも春は忘れざりけり

と言ひやりたれば、あはれなることども書きて、

 なほ頼め梅の立ち枝(え)は契りおかぬ思ひのほかの人も訪(と)ふなり

【現代語訳】
 私の継母だった人は、もともと宮仕えをしていて、父の妻となって上総の国まで下ったので、思ってもいなかった様々のことなどがあり、夫婦仲がしっくりいかなくなって、離婚してよそに移ることになった。五歳ばかりの幼子を連れて別れるとき、私に「これまでやさしくしてくれたあなたの気持ちを忘れる時はないでしょう」と言って、家の軒先近くにあるとても大きな梅の木をさして、「この花が咲く時はまた来ますからね」と言い残して行ってしまった。私は、心の中で恋しく切なく思いながら、声を忍ばせて泣いてばかりいて、とうとうその年も暮れて新たな年を迎えた。早く梅の花が咲いてほしい、そうしたら来ようと約束したけれど、本当にそうだろうかと、じっと見ながら待ち続けていたが、花がすっかり咲いても何の音沙汰もない。とうとう思い余って、花を折って歌を添えて継母に送った。

当てにさせられたことを、なお待ち続けなくてはならないのでしょうか。霜枯れていた梅でさえ春を忘れず花を咲かせたというのに、お母様はお忘れになったのでしょうか。

と言い送ったところ、継母からの情のこもったいろいろなことを書いた返事に、次のような歌が添えてあった。

まだ当てにして待っててください。梅の高く伸びた枝は古い歌にもあるように、約束もしていない思いがけない人さえ訪ねて来てくれるということです。私もいつかはきっと。(平兼盛の「わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる」をふまえている)

↑ ページの先頭へ

物語

(一)
 その春、世の中いみじう騒がしうて、松里(まつさと)の渡りの月影あはれに見し乳母(めのと)も、三月(やよひ)一日に亡くなりぬ。せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣き暮らして見出だしたれば、夕日のいと華やかに差したるに、桜の花残りなく散り乱る。

 散る花もまた来(こ)む春は見もやせむやがて別れし人ぞ悲しき

 また聞けば、侍従(じじゆう)の大納言の御(み)むすめ、亡くなりたまひぬなり。殿(との)の中将の思(おぼ)し嘆くなるさま、わがものの悲しき折なれば、いみじくあはれなりと聞く。上り着きたりしとき、「これ手本にせよ」とて、この姫君の御手(おほんて)を取らせたりしを、「さ夜ふけて寝覚めざりせば」など書きて、「鳥辺(とりべ)山谷に煙(けぶり)の燃え立たばはかなく見えしわれと知らなむ」と、言ひ知らずをかしげに、めでたく書きたまへるを見て、いとど涙を添へまさる。

【現代語訳】
 その年の春、疫病が大流行して世の中がひどく騒然とし、松里の渡し場で月光に照らされた姿を痛々しい思いで見た乳母も、三月一日に亡くなってしまった。どうしようもなく嘆いているうちに、物語を読みたいという気持ちも失せてしまった。一日中ひどく泣きながら過ごしていて、ふと外を眺めると、夕日がたいそう華やかに差している辺りに、桜の花が残りなく散り乱れている。

散っていく花は、再びやってくる春には見ることもできよう。しかし、そのまま別れてしまった人(乳母)は、二度と見ることができないので、恋しくてならない。

 また聞くところによると、侍従の大納言様の姫君が、やはり疫病でお亡くなりになったということである。夫君の殿の中将様が嘆き悲しんでいらっしゃると聞くご様子も、私自身が乳母の死を嘆き悲しんでいるときでもあったから、まことにお気の毒なことと聞いた。京に着いたとき、父が「これを手本にしなさい」と言って、この姫君のお書きになったものを下さったが、それには「さ夜ふけて寝覚めざりせば(夜が更けて目が覚めなかったならば)」などと書いてあり、「もしも火葬場のある鳥辺山の谷から煙が立ったならば、前々から弱々しく見えていた私だと知ってください」と、何とも言えず美しい風情に、みごとな筆跡で書かれている歌を見ると、いっそう涙をそそられる。

(注)松里の渡り・・・今の千葉県松戸市にあった渡し場
(注)侍従の大納言・・・藤原行成。名筆家として有名。

(二)
 かくのみ思ひくんじたるを、心も慰めむと心苦しがりて、母、物語など求めて見せたまふに、げにおのづから慰みゆく。紫のゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人語らひなどもえせず。誰(たれ)もいまだ都慣れぬほどにて、え見つけず。いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるままに、「この源氏の物語、一の巻よりして、皆見せたまへ」と、心の内に祈る。親の太秦(うづまさ)にこもりたまへるにも、異事(ことごと)なく、このことを申して、出でむままにこの物語見果てむと思へど、見えず。いと口惜しく思ひ嘆かるるに、をばなる人の田舎より上りたる所に渡いたれば、「いとうつくしう生ひなりにけり」など、あはれがりめづらしがりて、帰るに、「何をか奉らむ。まめまめしき物は、まさなかりかむ。ゆかしくしたまふなる物を奉らむ」とて、源氏の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。

 はしるはしるわづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳(きちやう)の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ。昼は日暮らし、夜は目の覚めたる限り、灯(ひ)を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢に、いと清げなる僧の、黄なる地の袈裟(けさ)着たるが来て、「法華経五の巻を、とく習へ」と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず。物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、盛りにならば、かたちも限りなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟(うきふね)の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなく、あさまし。

【現代語訳】
 私がこのようにずっとふさぎ込んでいるいるので、気持ちを慰めようと心配して、母が、物語などを捜して見せてくださり、気持ちが自然と晴れていく。『源氏物語』の若紫の巻の辺りを読み、その続きが読みたく思われるけれど、誰にも相談することもできない。家の者は誰もまだ都に慣れていない時だったので、物語を見つけ出すこともできない。とてももどかしく、読みたくてたまらないので、「この『源氏物語』を一の巻から皆お見せください」と心の中で祈る。親が太秦に参籠なさる際も一緒に行って、他の事は何もお願いせず、ただ物語のことばかりをお願いして、寺から出てきたらすぐにこの物語を終わりまで読んでしまおうと思っているのに、かなえられない。とても悔しくて嘆かわしい気持ちでいると、おばに当たる人が地方から上京してきたところに母が私を差し向け、おばが、「たいそう可愛らしく成長しましたね」などと懐かしがったり珍しがったりして、帰りがけに、「何を差し上げましょうか。実用的な物ではつまらないでしょう。欲しくてたまらない物を差し上げましょう」と言って、何と『源氏物語』五十余巻を櫃に入ったまま全部と、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどの物語を一袋に入れてくださった。それをいただいて帰るときの嬉しさといったら、どう言い表したらよいか分からない。


 これまで胸をわくわくさせながら、所々だけ拾い読みしては納得いかなくて、じれったく思っていた『源氏物語』を、最初の巻から読み始めて、誰にもじゃまされず几帳の中に横になり、次々に読んでいく気持ちは、后の位も問題にならないほどだ。昼は一日中、夜は目が覚めている間じゅう、灯を近くにともして、これを読むこと以外何もしないで過ごしているので、自然に頭の中にそらでも文章が浮かんでくるようになったのを嬉しく思っていると、夢の中に清浄な感じの僧侶が黄色い地の袈裟を着て出てきて、「法華経の五の巻を早く習いなさい」と言った夢を見た。しかし、これを誰にも話さず、法華経を習おうという気持ちにもなれない。物語のことで頭がいっぱいで、私は今はまだ器量はよくないが、年ごろになったら顔立ちもこの上なく美しくなり、髪もすばらしく長く伸びるに違いなく、きっと光源氏に愛された夕顔や、宇治の大将(薫)の恋人の浮舟の女君のようになるはずだわ、と思っていた心は、今考えると何とも他愛なく、とてもあきれ果てたものだった。

(注)をばなる人・・・何者であるか不明。
(注)在中将・・・『伊勢物語』をさしているとされる。『とほぎみ』『せり河』『しらら』『あさうづ』は現在には伝わっていない物語類。

【PR】

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

【PR】

「更級日記」について

 作者は菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)。本名不明。父の孝標は菅原道真の5世孫にあたり、兄・定義は大学頭・文章博士。母の姉は『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱の母)という文学的環境の中で成長した。

 作者の夫が亡くなり、火葬にしたのが康平元年(1058年)10月23日で、日付がわかる最後の記述である。作者はその後、悲しみのうちに孤独な日々を過ごしたことなどを書き記しているため、日記が成立したのは康平2~3年、作者52、3歳のころとされる。(上京の旅の記の部分だけは早くに成立していたとみる説も)

 『さらしな』の書名の由来は諸説あるが、日記の終わり近くに「月もいでて闇に暮れたる姨捨(をばすて)に何とて今宵たづね来つらむ」とあるのが、『古今集』巻17にある「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」をふまえており、姨捨山は夫の任地・信濃の国の更級の近くでもある。書名はおそらく後人がつけたとされるが、作者自身を「をばすて」と観じ、その縁をふくんで『さらしな』としたのではないかという。

 内容は、作者が13歳の年から52,3歳の年まで、およそ40年間の自己の人生を回想的に綴った自叙伝となっている。少女時代の、『源氏物語』や様々な物語の世界へのあこがれが、宮仕え・結婚・二児の母などの現実の厳しさを経るうちに、信仰生活に傾き、最後は彼岸へと夢を託した。なお、『源氏物語』 について最も早い時期に言及しているとされ、貴重な史料ともなっている。

 なお、本書の伝存する諸本はすべて藤原定家による書写の御物本に源を発しており、別系統のものは1本も発見されていない。

「更級日記」の略年表

1008年
作者が誕生。父・菅原孝標(36歳)、母・藤原倫寧女。
藤原道長の全盛期に当たり、道長の娘の彰子に敦成親王が生まれた年。彰子に仕えていたのが紫式部。

1017年(10歳)
父が上総(千葉県)介(地方官の次官)に任ぜられ、作者、継母、兄姉たちと父に従い下向。
姉や継母から物語の話を聞き、憧れを抱く。
帰京し、親戚の女性から物語を贈られ、夢中で読み耽る。

1020年(13歳)
父・菅原孝標が上総介の任を終えて上京、作者も同行。
京で、親族の、脩子内親王(一条天皇皇女)に仕える命婦から物語の一部を贈られ、昼夜耽読する。
作者の継母が、孝標と離別し家を去る。

1021年(14歳)
疫病が流行り、作者の乳母や侍従大納言(藤原行成)の娘が死去。
おばから『源氏物語』50余巻すべてを贈られ、暗記するほどまで読み耽る。
天照御神を祈念せよとの夢を見るが、気に留めない。

1022年(15歳)
迷い猫を飼い、姉とともに可愛がる。
姉の夢に、この猫が現れ、自分は侍従大納言の娘の生まれ変わりだと告げる。

1023年(16歳)
作者の家が家事で焼け、猫が焼死。転居する。

1024年(17歳)
姉が出産後に死去。2人の遺児を左右に寝かせて嘆く。

1025年(18歳)
孝標が司召に任官されず、一家悲嘆。
4月末、東山に移り住む。
一緒に水を飲んだ恋人らしき人が登場。

1027年(20歳)
物語に熱中。浮舟のような境遇になりたいと願う

1032年(25歳)
父の孝標が常陸介(茨城県)に任じられ、作者を残して単身で任地へ。
作者、太秦寺に参籠し父の無事を祈る。

1033~1035年(26~28歳)
清水寺の夢、初瀬(長谷寺)の鏡に映った将来の姿の夢、気に留めず。天照を祈るよう勧められるが、これも気に留めない。

1036年(29歳)
父の孝標が帰京し、西山の住まいに移り、やがて京に移る。
父が引退、母が出家。作者が一家の主婦となる。

1039年(32歳)
冬ごろから、祐子内親王(後朱雀天皇皇女)のもとに宮仕えする。

1040年(33歳)
春ごろ、橘俊通(39歳)と結婚。

1041年(34歳)
姪(姉の子)が、祐子内親王家に宮仕え。作者も時々出仕。

1042年(35歳)
夫・俊通が下野守として赴任。作者は京に残る。
祐子内親王と参内、その折、内侍所を拝する。
源資通と頼通邸で春秋の優劣を論じ合う。

1043年(36歳)
祐子内親王と参内、翌朝、源資通と再会するが、はかなく別れる。

1044年(37歳)
源資通、祐子内親王家に参上するが、人目が多く作者に会わずに帰る。

1045年(38歳)
このころ夫の俊通が帰京、長男・仲俊が誕生。
物詣でに目覚め、石山寺に参籠。

1046年(39歳)
初瀬(長谷寺)に数日間参籠。宇治で浮舟を思う。

1047年(40歳)
鞍馬寺に参詣。

1049年(42歳)
石山寺に参詣、初瀬に3日間参籠。
西山の奥に桜見物。
太秦寺に参籠。

1055年(48歳)
阿弥陀仏来迎の夢を見る。

1057年(50歳)
夫の俊通が信濃守となり、長男の仲俊を伴い赴任。(信濃は長野県、「守」は長官)

1058年(51歳)
4月、俊通が京に帰る。
10月、俊通が病で死去。

1059年(52歳)
親族の訪問も途絶え、過去を回想。
甥が訪れ、姨捨(おばすて)の歌を詠む。
尼と「蓬の宿」の贈答。

1060年
この年以後に『更級日記』を執筆。(上京の旅の記の部分は早くに成立していたと見る説もある。)

「更級日記」の登場人物

菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘
 作者であり主人公。平安時代の下級貴族の家に次女として生まれた。少女時代に『源氏物語』を読みふけり、宮仕えに憧れる。短い間、宮仕えをするが、大半は「家の女」として生きる。本名や女房名は不明。『更級日記』の執筆後も、なお物語の創作に当たったとも推測されており、『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』の作者でもあるとみられている。

菅原孝標(すがわらのたかすえ)
 作者の父。高祖父は「学問の神」として親しまれている菅原道真。母親は歌人の藤原倫寧の娘。官位は従四位上・常陸介。父の資忠、この定義がともに大学頭、文章博士になったのを鑑みれば、それらの官職に無縁だった孝標は凡庸な人物だったか。『更級日記』では弱々しげな好人物として描かれている。

実母
 藤原倫寧(藤原北家の系統)の娘で、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母の異母妹にあたる。作者のために物語を探してくれる。本名は不明。夫が上総国・常陸国に赴任した際は、同行することなく京にとどまった。引っ込み思案で、『更級日記』では「古代の人」と述べられている。

継母
 高階成行の娘で、宮仕えを経て父、孝標の第二夫人となった。『後拾遺集』に入集するほどの歌よみにすぐれた女性。孝標が上総国と常陸国に赴任した際に付き添ったが、作者が13歳の時に、父と離縁して去った。作者に物語を教え、大きな影響を与えた人で、離縁の後も作者との和歌のやり取りが続いた。上総大輔と呼ばれるが、本名は不明。なお、継母の叔父にあたる高階成章は、紫式部の娘・大弐三位を妻としている。

乳母
 当時の貴族社会では、実母が子に授乳はせず、乳母が乳を飲ませて養育した。作者をかわいがってくれたが、作者が14歳の時に亡くなった。本名は不明。


菅原定義(すがわらのさだよし)。作者の面倒をよく見てくれ、長じて学者となった。官位は従四位上・大学頭・和泉守。贈従一位。菅原道真から数えて6代目の菅原氏長者。また、作者の兄弟は、ほかに弟の基円があった。


 作者に劣らぬ読書好きで、浪漫的な人だったらしい。作者に物語を教えてくれたり、2人で猫を飼ったりした。帰京後まもなく結婚したらしく、作者が17歳の時に、2人の子を産んだ後に亡くなった。本名は不明。
 なお東山で歌を詠み交わした「しづくに濁る人」を、この亡き姉の夫にあたる人だとし、恋情の揺れを読み解く説もある。

姉の乳母
 作者だけでなく、姉にも乳母が付いていたが、姉の死とともに、作者が引き留めるのも聞かず、里に帰って行った。当時の乳母は、子が成人した後も一貫して親代わりを務めていた。


 人間ではないが、作者が15歳の時、突如、迷い猫として家に入ってきた上品な猫。姉の夢のなかで「自分は侍従大納言の姫君の生まれ変わり」と告白。火事で家が焼け、焼死した。貴族の屋敷では、猫は欠かせない存在だった。

橘俊通(たちばなのとしみち)
 作者が33歳の時に結婚した相手(俊通は39歳)。但馬守・橘為義の四男。作者との間に一男二女をもうける。結婚の翌年に下野守となって赴任するが、『更級日記』にこの記事はなく、作者はこれに同行せず、祐子内親王家に出仕している。後に信濃守に任官したものの、帰京後に発病、57歳で亡くなった。
 俊通に関する記述が乏しいことから、夫婦関係には齟齬があったともいわれるが、夫の死に際しての記述には、その存在がこの上なく大きかったことが窺われる。
 
橘仲俊(たちばなのなかとし)
 作者の長男。夫が信濃守に任官したときについて行った。10代で父の死にあう。

源資通(みなもとのすけみち)
 作者の出仕先の祐子内親王家で出会った貴公子。宇多源氏で、参議済政の子。琵琶、笛などの管弦にすぐれ、和歌もよくした公卿。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に4首が採録されている。作者の夫が単身赴任している間に、歌を交わしている。官位は従二位・参議。

祐子内親王(ゆうしないしんのう)
 後朱雀天皇の第3皇女で、作者が仕えた先の主人。しばしば邸宅で「歌合せ」が催されたが、このころの内親王はまだ幼かった。宮仕えに関する記事は約10年にわたるが、本格的な女房としての生活が中心だったわけではない。

旧国名比較

【南海道】
紀伊(和歌山・三重)
淡路(兵庫)
阿波(徳島)
讃岐(香川)
土佐(高知)
伊予(愛媛)
 
【西海道】
豊前(福岡・大分)
豊後(大分)
日向(宮崎)
筑前(福岡)
筑後(福岡)
肥前(佐賀・長崎)
肥後(熊本)
薩摩(鹿児島)
大隅(鹿児島)
壱岐(長崎)
対馬(長崎)
 
【山陰道】
丹波(京都・兵庫)
丹後(京都)
但馬(兵庫)
因幡(鳥取)
伯耆(鳥取)
出雲(島根)
隠岐(島根)
石見(島根)
 
【機内】
山城(京都)
大和(奈良)
河内(大阪)
和泉(大阪)
摂津(大阪・兵庫)
 
【東海道】
伊賀(三重)
伊勢(三重)
志摩(三重)
尾張(愛知)
三河(愛知)
遠江(静岡)
駿河(静岡)
伊豆(静岡・東京)
甲斐(山梨)
相模(神奈川)
武蔵(埼玉・東京・神奈川)
安房(千葉)
上総(千葉)
下総(千葉・茨城・埼玉・東京)
常陸(茨城)
 
【北陸道】
若狭(福井)
越前(福井)
加賀(石川)
能登(石川)
越中(富山)
越後(新潟)
佐渡(新潟)
 
【東山道】
近江(滋賀)
美濃(岐阜)
飛騨(岐阜)
信濃(長野)
上野(群馬)
下野(栃木)
岩代(福島)
磐城(福島・宮城)
陸前(宮城・岩手)
陸中(岩手)
羽前(山形)
羽後(秋田・山形)
陸奥(青森・秋田・岩手)


※東路の道の果て
 常陸国が東海道の果て(終着点)とされているのは、紀友則の「あづま路のはてなる常陸帯かごとばかりもあひ見てしがな」(『古今和歌六帖』という歌がもとになっている。
 なお、常陸よりももっと奥の上総(父の任国)で育ったとあるのは地理的に齟齬があるが、遥かな辺境の地であることを強調する表現か、あるいは作者が憧れる『源氏物語』の浮舟が成長した所が常陸だったので、意識的に変えたものか。

※『更級日記』の行程
 上総→下総→武蔵→相模→駿河→遠江→三河→尾張→美濃→近江→山城
 当時としては大旅行であり、帰京までに約3か月の期間を要している。順番などに記憶違いがあり、細かな地名は不正確なところもある。

※富士山
 富士山についての記述は「山の頂の少し平ぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃え立つも見ゆ」とあり、噴火に伴う降灰や鳴動などは書かれていない。従って、この時の富士山は、噴気を漂わせていたとはいえ噴火中のものではなく、「夕暮は火の燃え立つも見ゆ」というのは、火口にあった灼熱の溶岩または高音の噴出ガスによる火映現象を記述したものと考えられている。

【PR】