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土佐日記

門出 / 送別の宴船出元日大湊の泊宇多の松原羽根室津暁月夜安倍仲麿の歌かしらの雪海賊の恐れ子の日の歌阿波の水門黒崎の松忘れ貝住吉淀川渚の院・山崎帰京

 土佐日記

門 出

 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。それの年の、十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の、戌(いぬ)の時に、門出(かどで)す。そのよし、いささかにものに書きつく。

 ある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例のことども皆し終へて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よく具しつる人々なむ、別れ難く思ひて、その日、しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜(よ)(ふ)けぬ。

 二十二日に、和泉(いずみ)の国までと、平(たい)らかに願(ぐわん)立つ。藤原の言実(ときざね)、船路(ふなじ)なれど、馬(むま)の餞(はなむけ)す。上中下(かみなかしも)、酔(ゑ)ひ飽きて、いとあやしく、潮海(しほうみ)のほとりにて、あざれ合へり。

 二十三日。八木(やぎ)の康教(やすのり)といふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、馬の餞(はなむけ)したる。

 守(かみ)がらにやあらむ。国人(くにひと)の心の常(つね)として、「今は」とて見へざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来(き)ける。これは、物によりて褒(ほ)むるにしもあらず。

【現代語訳】
 男の人も漢文で書くと聞いている日記というものを、女の私も仮名文で書いてみようと思い、書き記す。ある年の十二月二十一日の午後八時ごろに出発することになった。そのときのようすをいささか書きつける。

 ある人が、国守としての任期四、五年が過ぎ、交替時の例となっている事務の引継ぎなどをすっかりすませ、解由状などを受け取り、住んでいた館から出て船に乗る場所に行く。あれやこれやの人々、そして知っている人も知らない人も、見送りをする。この数年間、とても親しくしていた人たちはとくに別れ難い心境で、一日中何やかんやと立ち回って、大きな声で言い騒いでいるうちに夜が更けてしまった。

 二十二日に、せめて和泉の国までは無事に着きますようにと願をかける。藤原のときざねが、船旅でありながら、馬のはなむけをして送別の宴をしてくれる。身分の上中下にかかわらずみな深酔いして、不思議にも、潮海だからあざる(魚が腐る)はずもないのに海辺であざれ(ふざけ)合っている。

 二十三日。八木の康教という人がいた。この人は国司の役所に仕えるものとは必ずしも言えない人だった。けれども、この者が、きちんと格式のあるやり方で餞別の宴を開いてくれた。

 国守のお人柄もあろうが、このような田舎の人の心の常としては、「今は(もう任の果てた前の国守などに用はない)」といって顔も見せないものだが、康教のように心ある者は、それを何ら恥じることなくやって来た。これは、餞別の品が立派だったからといって褒めているのではない。

(注)ある年・・・承平4年(934年)とされる。
(注)馬の餞・・・旅立つ人を送る送別の宴。
(注)解由状・・・前任者に不正がないことを後任者が証明する書類。

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送別の宴

 二十四日。講師(こうじ)、馬(むま)の餞(はなむけ)に出(い)でませり。ありとある上下(かみしも)、童(わらは)まで酔(ゑ)ひ痴(し)れて、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者、しが足(あし)は十文字(じふもんじ)に踏みてぞ遊ぶ。

 二十五日(はつかあまりいつか)。守(かみ)の館(たち)より、呼びに文(ふみ)持て来たなり。呼ばれて至りて、日一日(ひひとひ)、夜一夜(よひとよ)、とかく遊ぶやうにて、明けにけり。
 
 二十六日(はつかあまりむゆか)。なほ守(かみ)の館(たち)にて、饗応(あるじ)しののしりて、郎等(らうどう)までに物かづけたり。漢詩(からうた)、声あげて言ひけり。和歌(やまとうた)、主(あるじ)も、客人(まらうど)も、他人(ことひと)も言ひあへり。漢詩(からうた)は、これにえ書かず。和歌、主(あるじ)の守(かみ)の詠めりける、
 
 都出でて君に会はむと来(こ)しものを来しかひもなく別れぬるかな
 
となむありければ、帰る前(さき)の守(かみ)の詠めりける、
 
 しろたへの波路(なみぢ)を遠く行き交ひて我(われ)に似(に)べきは誰(たれ)ならなくに
 
 異(こと)人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。とかく言ひて、前(さき)の守(かみ)、今のも、諸共(もろとも)におりて、今の主(あるじ)も、前(さき)のも、手取り交はして、酔(ゑ)い言(ごと)に心よげなる言(こと)して、出で入りにけり。

【現代語訳】
 (十二月)二十四日。国分寺の講師(最高位の僧、旧国師)も、餞別の宴をしたいといっておいでになった。その場にいた上位の者も下位の者も、はては童子まで、こぞって酔っぱらい、目に一丁字なき者どもまでが、足で十の字を書くようによろけながら遊び高じている。

 二十五日。土佐の守の館から、招待の書を使いが持ってきた。招かれていき、一日中、一晩中、何やかんやと楽しく過ごすうちに夜が明けてしまった。
 
 二十六日。なお土佐の守の館で饗応を受けて大騒ぎし、従者にいたるまで祝儀をくれた。漢詩を声高らかに朗詠した。また和歌を、主も客人も他の人たちも詠みあった。漢詩はここには載せない。和歌では、主の土佐の守が詠んだのが、
 
 
都を出発してあなたに会おうとせっかくやって来たのに、来た甲斐もなく、もうお別れしなくてはいけない。

とあったので、帰京する前の土佐の守(貫之のこと)が詠んだのが、
 
 
白波が立つ海路をはるか遠く、都に帰る私と入れ替わりにこの地にやって来て、私と同じに無事任期を終えて帰京するのは、誰でもないあなたですよ。
 
 その他の人たちの歌もあったが、気の利いた歌などないようだ。あれこれ語り合ううちに、前の土佐の守も今の土佐の守も一緒に庭先に下りて、お互いに手を取り合い、酔っ払った口調で心地よい祝福のことばを述べて、前の土佐の守は館を辞し、今の土佐の守は館の中に入っていった。
 

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船 出

(一)
 二十七日(はつかあまりなぬか)。大津(おほつ)より浦戸(うらど)をさして漕(こ)ぎ出(い)づ。かくあるうちに。京にて生まれたりし女児(をんなご)、国にてにはかに失(う)せにしかば、この頃の出(い)で立ちいそぎを見れど、何ごともえ言はず、京へ帰るに女児(おんなご)のなきのみぞ、悲しび恋ふる。ある人もえ堪(た)へず。この間に、ある人の書きて出(い)だせる歌、
 
 都へと思ふものの悲しきは 帰らぬ人のあればなりけり
 
 また、ある時には、
 
 あるものと忘れつつなほなき人を いづらと問ふぞ悲しかりける
 
と言ひける間に、鹿児崎(かこのさき)といふ所に、守(かみ)の兄弟(はらから)、また他人(ことひと)、これかれ酒なにと持て追ひ来て、磯(いそ)に降りゐて、別れがたきことを言ふ。守の館(たち)の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうに言はれほのめく。かく別れ難く言ひて、かの人々の口網(くちあみ)ももろ持ちにて、この海辺にて、担(にな)ひ出(い)だせる歌、
 
 惜(を)しと思ふ人やとまると葦鴨(あしがも)のうち群れてこそ我は来にけれ
 
と言ひてありければ、いといたく賞(め)でて行く人の詠めりける、
 
 棹(さを)させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
 
と言ふ間に、楫(かぢ)取り、ものの哀れも知らで、己(おのれ)し酒を食らひつれば、早く往(い)なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒(さわ)げば、船に乗りなむとす。この折(をり)に、ある人々、折節(をりふし)につけて、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしき言ふ。また、ある人、西国(にしぐに)なれど、甲斐歌(かひうた)など言ふ。かく歌ふに、「船屋形(ふなやかた)の塵(ちり)も散り、空行く雲も漂ひぬ」とぞ言ふなる。今宵(こよひ)浦戸に泊(とま)る。藤原の時実(ときざね)、橘(たちばな)の季衡(すゑひら)、こと人々追ひ来たり。

【現代語訳】
 (十二月)二十七日。大津から浦戸をめざして漕ぎ出した。このようにあわただしくしているうちにも、京で生まれた娘がこの国で急に死んでしまい、出発の準備を見ていて辛くて何も言い出せず、帰京に際して娘がいないのがただひたすらに悲しく恋しく思われる。その場にいる人たちも悲しみに堪えられない。この間に、ある人が書いてくれた歌、
 
 
京へ帰ろうと思うものの、何とも悲しいのは、亡くなってしまい、いっしょに帰ることができない人がいるからだ。
 
また、あるときには、
 
 
まだ生きているものと思い、死んでしまったのを忘れて、どこにいるのかと尋ねる。はっと気がつき、なお悲しみがつのる。
 
と言っているうちに、鹿児崎という所に、新しい国守の兄弟やまた他の人たちが、いろいろと酒などを持ってきて磯に下りて座り込み、別れがたいと言って酒宴を張った。国守の館の人々の中でも、やって来たこの人たちはとくに人情に厚いといわれ、時おり姿を見せる。このように別れを惜しみ、まるで漁師が総出で網を担ぎ出すように、みんなで口をそろえて海辺で歌いだした歌は、
 
 
名残惜しく思っている人が、もしやとどまってくれるのではと、葦鴨(あしがも)のように大勢連れ立ってやって来ましたよ。
 
と詠じたので、とても感激して帰っていく人が詠んだ歌、
 
 
棹をさしても、奥底も分からない海のように、あなた方の深いお気持ちを感じます。
 
と言っているうちに、船頭は情緒も解さず、自分はすっかり酒を飲んでしまったので、早く出発しようとばかりに、「潮が満ちた。風も吹いてくるに違いない」と騒ぐので、みな船に乗ろうとする。この時、そこに居合わせた人たちが、その場に合わせて別れにふさわしい漢詩などを朗吟する。またある人は、西国の地ではありながら東国の甲斐の国の歌などを歌う。このように歌うのに対し誰かが、「船の屋形の塵も散り、空を飛ぶ雲も行くのをやめて漂っている」と言っているのが聞こえる。今夜は浦戸に泊まる。藤原時実、橘季衡、他の人々が追いかけてやって来た。
 

(二)
 二十八日。浦戸(うらど)より漕(こ)ぎ出(い)でて、大湊(おほみなと)を追ふ。この間に、以前(はやく)の守(かみ)の子、山口の千岑(ちみね)、酒、よき物ども持て来て、船に入れたり。行(ゆ)く行く飲み食ふ。

 二十九日。大湊に泊れり。医師(くすし)ふりはへて、屠蘇(とうそ)、白散(びゃくさん)、酒加へて持て来たり。志(こころざし)あるに似たり。

【現代語訳】
 (十二月)二十八日。浦戸の港から漕ぎ出して、次の寄港地である大湊を目指す。この折に、以前この国の国守であった人(貫之)の子で、山口の千岑という者が酒や良い肴(さかな)などを持って来て、船に差し入れた。船旅の途中でそれらを飲み食いした。

 二十九日。大湊に停泊。土佐の国の官医が、わざわざ屠蘇、白散(漢方薬の一種)に酒までも添えて持って来た。それなりの好意があるようだ。
 

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元 日

 元日。なほ、同じ泊(とまり)なり。白散(びやくさん)を、ある者、夜(よ)の間(ま)とて、船屋形(ふなやかた)にさし挿(はさ)めりければ、風に吹き慣らさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎(いもじ)・荒布(あらめ)も、歯固(はがため)もなし。かやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ押鮎(おしあゆ)の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎もし思ふやうあらむや。「今日(けふ)は都をのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)の注連縄(しりくべなは)のなよしの頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ」とぞ言ひあへなる。

 二日。なほ大湊に泊れり。講師(こうじ)、物、酒などおこせたり。

 三日。同じ所なり。もし、風波(かぜなみ)の、しばしと惜(を)しむ心やあらむ、心もとなし。

 四日。風吹けば、え出(い)で立たず。昌連(まさつら)、酒、よき物たてまつれり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす物もなし。賑(にぎ)ははしきやうなれど、負くる心地す。

 五日。風波やまねば、なほ同じ所にあり。人々、絶えず訪(とぶら)ひに来(く)

 六日。昨日(きのふ)のごとし。

【現代語訳】
 元日。やはり同じ港に泊まる。医師の持って来た白散(びゃくさん)を、ある者が、「一晩の間だから」と言って船屋形に差し挟んでおいたのが、風に吹かれて海に落ちてしまい、飲むことができなくなった。芋茎(ずいき)・荒布も、歯固めの品もなかった。これほどに物のない国(船のこと)なのだ。特に買い求めもしていない。ただ、押鮎の口ばかりを吸った。これらの吸う人々の口を、押鮎は何と思うであろうか。「今日は都ばかり思われて仕方がない。小さな家の門にしめ縄として飾るぼらの頭やひいらぎなどは、今ごろどんなふうだろうか」と、みんな言い合っている。

 二日。なお大湊に泊まっている。国分寺の講師が食べ物や酒を贈ってよこした。

 三日。同じところにいる。風や波に、もう少しここにおとどまりくださいと惜しむ心があるのだろうか。気がかりなことだ。

 四日。風が吹くので出航できない。昌連が、酒や良い肴を献上してきた。このように物を持ってくる人に何もしないわけにはいかないので、わずかばかりの返礼をさせる。とはいってもろくな物はないが。入れ替わり立ち替わり餞別をもらって少々のお返しというので儲かっているように見えるが、気の引ける思いがする。

五日。風も波も止まないので、なお同じところにいる。いろいろな人たちがひっきりなしに訪ねて来る。

六日。昨日と同じである。
 
(注)芋茎・・・サトイモの茎を乾燥させたもの。
(注)荒布・・・海藻の一種。
(注)歯固め・・・正月三が日に、長寿を祈って大根、瓜、押鮎などを食べる行事。
 

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大湊の泊

(一)
 七日になりぬ。同じ湊(みなと)にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。かかる間(あひだ)に、人の家の、池と名ある所より、鯉(こひ)はなくて鮒(ふな)よりはじめて、川のも海のも、他物(こともの)ども、長櫃(ながびつ)に担(にな)ひ続けておこせたり。若菜(わかな)ぞ今日(けふ)をば知らせたる。歌あり。その歌、
 
 浅芽生(あさぢふ)の野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり
 
 いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、皆(みな)人、童(わらは)までにくれたれば、飽き満ちて、船子(ふなこ)どもは腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海をさへ驚かして、波立てつべし。

【現代語訳】
 (正月)七日になった。まだ同じ港にいる。今日は都の白馬(あおうま)の節会(せちえ)のことを思うものの、どうすることもできない。ただ波の白さが見えるばかりである。こうしている間に、池という名の所の家から、鯉はないものの、鮒をはじめ川の魚や海の魚ほかを、長櫃に入れて次々に担いで持ってきてくれた。その中にあった若菜が、七種(ななくさ)の節句である今日という日を思い起こさせてくれる。歌が添えてある。その歌は、
 
 
私どもの家は、短い茅萱(ちがや)が一面に生えた野にあり、地名は池ながら、水もない池で摘んだ若菜です。
 
 とても趣がある。この「池」というのは地名だ。送り主は身分のある女性で、夫に従って下向し、ここに住んでいるという。この長櫃の中のものは、全員、子どもにまでくれてやったので、飽きるほど食べ、船乗りたちは腹鼓を打ち、海神をも驚かし、また波を立ててしまいそうだ。
 

(二)
 かくて、この間(あひだ)に事(こと)多かり。今日(けふ)、破籠(わりご)持たせて来たる人、その名などぞや、今思ひ出(い)でむ。この人、歌詠まむと思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、「波の立つなること」と憂(うれ)へ言ひて、詠める歌、
 
 行く先に立つ白波の声よりも遅れて泣かむわれやまさらむ
 
とぞ詠める。いと大声なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌をこれかれあはれがれども、一人も返しせず。しつべき人も交(まじ)れれど、これをのみいたがり、物をのみ食ひて、夜ふけぬ。この歌主(うたぬし)なむ、「まだ罷(まか)らず」と言ひてたちぬ。ある人の子の童(わらは)なる、ひそかに言ふ、「まろ、この歌の返しせむ」と言ふ。驚きて、「いとをかしきことかな。詠みてむやは。詠みつべくは、はや言へかし」と言ふ。「『罷(まか)らず』とて立ちぬる人を待ちて詠まむ」とて求めけるを、夜ふけぬとにやありけむ、やがて往(い)にけり。「そもそもいかが詠んだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢて言はず。強(し)ひて問へば、言へる歌、
 
 行く人もとまるも袖(そで)の涙川(なみだがは)汀(みぎは)のみこそ濡れまさりけれ
 
となむ詠める。かくは言ふものか。うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。「童言(わらはごと)にては何かはせむ。嫗(おんな)・翁(おきな)、手おしつべし。悪(あ)しくもあれ、いかにもあれ、便りあらば遣(や)らむ」とて、置かれぬめり。

【現代語訳】
 このように、この間にいろいろなことがあった。今日、破籠(弁当)を従者に持たせてやって来た人、名前はちょっと思い出せない。この人は、歌を詠もうという下心があって来たのだ。あれこれ言いつつ、「波が立っているようですね」としめっぽく言って詠んだ歌は、
 
 
あなたが行く先に立つ白波の音より、あとに残されて泣く私の声のほうが大きいことでしょう。
 
というもの。波の音に負けないとはずいぶん大きな声に違いない。持ってきたご馳走にくらべて、歌のできばえはいかがなものか。この歌を幾人かが感心してみせるが、一人も返歌をしようとしない。返歌できる人(貫之)もいるのだが、この歌に感服するのみで、ご馳走を食べてばかりいて、そのうち夜が更けてしまった。この歌を詠んだ人は、「まだお暇はしません」と言いながら座を立った。そこに居合わせた小さな子どもが、こっそりと「私が、この歌の返歌をします」と言った。驚いて、「それはとても面白い。本当に詠めるの? 詠めるのなら早く言ってごらん」と言う。「『お暇はしません』と言って座を立った方を待って詠みます」と言ってその人を捜したが、夜が更けたためか、そのまま帰ってしまっていた。「いったい、どんなふうに詠んだのか」と、知りたく思って聞くと、その子はさすがに恥ずかしがって言わない。無理に聞き出したところ、言った歌は、
 
 
旅立つ人もとどまる人も、その袖を濡らす涙が川のように流れ落ちる。それが水際まであふれてどんどん濡れていくことだ。
 
と詠んだもの。これほど見事に詠めるものだろうか。この子がかわいいからか、思ってもみなかったことだ。「いくらなんでも返歌が子どもの作では失礼だろう。お婆さんかお爺さんが署名したらよかろう。そんなことをして悪かろうが何だろうが、つてがあれば送ってやろう」と言って、手元に取って置かれたようだ。
 

(三)
 八日。障(さは)ることありて、なほ同じ所なり。今宵(こよひ)の月は海にぞ入る。これを見て、業平(なりひら)の君の、「山の端(は)逃げて入(い)れずもあらなむ」という歌なむ思ほゆる。もし、海辺にて詠(よ)まましかば、「波立ちさへて入れずもあらなむ」とも詠みてましや。今、この歌を思ひ出でて、ある人の詠めりける、

 照る月の流るるみれば天の川(あまのがは)出(い)づる港は海にざりける

とや。

【現代語訳】
 (正月)八日。差しさわりがあって、なお同じ所にいる。今宵の月は、山に入らず海に没した。これを見て、在原業平公が詠んだ「飽かなくにまだきも月のかくるるか山の端逃げて入れずもあらなむ」の歌が心に浮かぶ。もし、これを海辺で詠じたなら「波立ち障(さ)へて入れずもあらなむ」とでも詠んだだろうか。今、この歌を思い出してある人が詠んだ歌は、

 
照る月が西に流れていくのを見ると、あの天の川が流れ出ていく河口もまた、海だったのだなあ。

とかいうことである。
 

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宇多の松原

(一)
 九日のつとめて、大湊(おほみなと)より奈半(なは)の泊(とまり)を追はむとて、漕(こ)ぎ出(い)でけり。これかれ互ひに、国の境(さかひ)の内はとて見送りに来る人あまたが中に、藤原の時実(ときざね)、橘の季衡(すゑひら)、長谷部(はせべ)の行政(ゆきまさ)(ら)なむ、御館(みたち)より出(い)で給(たう)びし日より、ここかしこに追ひ来る。この人々ぞ志ある人なりける。この人々の深き志は、この海にも劣らざるべし。これより今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来(き)ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりに留(と)まれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にも言ふことあるべし、船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとり言(ごと)にしてやみぬ。
 
 思ひやる心は海を渡れども ふみしなければ知らずやあるらむ
 
 かくて、宇多(うだ)の松原を行き過ぐ。その松の数(かず)(いく)そばく、幾千年(いくちとせ)経たりと知らず。根(もと)ごとに波うち寄せ、枝ごとに鶴(つる)ぞ飛び通ふ。おもしろしと見るに耐(た)へずして、船人の詠める歌、
 
 見渡せば松の末(うれ)ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる
 
とや。この歌は、所を見るに、えまさらず。

【現代語訳】
 (正月)九日の早朝、大湊より奈半の港をめざそうと漕ぎ出した。誰も彼もが土佐の国境までは見送ろうと来る大勢の人の中で、とりわけ藤原時実・橘季衡・長谷部行政たちは、官舎を出た日からずっとここかしこの宿所に追ってくる。この人々こそは志の深い人たちであった。その深い志は、この海の深さにも劣らないに違いない。これよりいよいよ漕ぎ離れていく。これを見送ろうとして、この人々はここまで追ってやってきたのだった。こうして漕いでいくにつれて、海辺にとどまっている人も遠くなってしまった。船上の人も、向こうからは見えなくなった。彼らもまだ話したいことがあったに違いない。船上の我々もそう思うのであるが、どうしようもない。だけども、この歌を独り言にして終わった。
 
 
思いやる心は海を渡って思うものの、手紙もないし海を渡っていくわけにもいかないが、あちらの人は私の心を知らないでいるのだろうか。
 
 こうして、宇多の松原を通り過ぎる。その松の数はどれくらい多いのだろう。何千年経っているのか分からない。それぞれの根元に波が打ち寄せ、それぞれの枝ごとに鶴が飛び通っている。ただすばらしいと見ているだけでは耐え切れなくなって、船上の人が詠んだ歌、
 
 
見渡すと、松のこずえごとに住む鶴は、それらの松を千年の友と思っているようだ。
 
とか。この歌は、実際の景色を見たらとても及ぶものではない。
 

(二)
 かくあるを見つつ漕ぎ行くまにまに、山も海も皆暮れ、夜ふけて、西東(にしひむがし)も見えずして、天気(てけ)のこと、楫取(かぢとり)の心に任せつ。男(をのこ)も慣らはぬは、いとも心細し。まして女は船底に頭(かしら)を突き当てて、音(ね)をのみぞ泣く。かく思へば、船子(ふなこ)・楫取は、舟唄歌ひて、何とも思へらず。その歌ふ唄は、
 
春の野にてぞ音(ね)をば泣く、
わがすすきに手切る切る摘(つ)んだる菜(な)を、
親やまぼるらむ、
姑(しうとめ)や食ふらむ。帰らや。
昨夜(よむべ)のうなゐもがな、銭(ぜに)乞(こ)はむ、
虚言(そらごと)をして、おぎのりわざして、
銭も持て来ず、おのれだに来ず。

 
 これならず多かれども、書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒(あ)るれども、心は少し凪(な)ぎぬ。かく行き暮らして、泊(とまり)に至りて、翁人(おきなびと)ひとり、専女(たうめ)ひとり、あるが中にここち悪(あ)しみして、物もものし給(た)ばで、ひそまりぬ。

【現代語訳】
 このような景色を見ながら漕いで行くうちに、山も海もすっかり暮れ、夜も更けて西も東も分からなくなり、天候のことは船頭任せにした。男であっても夜の船旅に慣れない者は、とても心細い。まして女は船底に頭を押し当てて、声をあげて泣くばかりだ。このように思っているのに、船乗りや船頭は舟唄を歌い、何とも思っていない。その歌う舟唄は、
 
 
春の野原で声をあげて泣くよ。私がすすきで手を切りながら摘んだ菜っ葉を、舅や姑が今ごろむさぼり食べているのだろう。もう帰ろう。夕べの娘を見つけたい。銭を取ってやる。うそをついて掛買いをして、銭も持って来ず、姿も見せない。
 
 これだけでなく他にも多くあったが、ここには書かない。これらの唄を人々が笑うのを聞けば、海は荒れているものの、心は少し和らいだ。こうして一日中船を漕ぎ進めて港に着いたが、老翁ひとりと老女ひとりが、みんなの中で気持ちが悪くなって、食事もせずに寝込んでしまった。
 

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羽 根

 十日。今日は、この奈半(なは)の泊(とまり)に泊りぬ。
 
 十一日。暁(あかつき)に船を出だして、室津(むろつ)を追ふ。人皆まだ寝たれば、海のありやうも見えず。ただ月を見てぞ、西東(にしひむがし)をば知りける。かかる間に、皆夜明けて、手洗ひ、例の事(こと)どもして、昼になりぬ。今し、羽根(はね)といふ所に来ぬ。若き童(わらは)、この所の名を聞きて、「羽根といふ所は、鳥の羽根のやうにやある」と言ふ。まだ幼き童の言(こと)なれば、人々笑ふ時に、ありける女童(をんなわらは)なむ、この歌をよめる、
 
 まことにて名に聞く所羽根ならば飛ぶがことくに都へもがな
 
とぞ言へる。男も女もいかで疾(と)く京へもがな、と思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げにと思ひて人々忘れず。この羽根といふ所問ふ童のついでにぞ、また昔の人を思ひ出でて、いづれの時にか忘るる。今日はまして、母の悲しがらるることは、下りし時の人の数足らねば、古歌(ふるうた)に「数は足らでぞ帰るべらなる」といふ言(こと)を思ひ出でて、人の詠める、
 
 世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな
 
と言ひつつなむ。

【現代語訳】
 (正月)十日。今日は、この奈半の泊に泊まる。
 
 十一日。夜明け前に船を出して室津を目指す。人々は皆まだ寝ているので、ひとり起き出すわけにもいかず、海のようすも見えない。ただ月を見て、西東を知るばかりだ。こうしている間にすっかり夜が明けて、手を洗いやいつものことなどをしているうちに昼になった。ちょうどそのころ、羽根という所にやって来た。幼い子どもが、この所の名を聞いて、「羽根という所は、鳥の羽根のようなかたちなの」と言う。まだ幼い子どもの言葉なので人々が笑っていると、例のあの女の子が歌を詠んで、
 
 
この子の言うとおり、この土地がほんものの羽根だったら、その羽根で飛ぶように都に帰りたいな。
 
と言った。男も女も、何とか早く京へ着きたいという思いがあるので、この歌がよいというわけではないけれども、本当にそうだと思い、この歌を忘れられない。この羽根という所のことを聞いた子どもにつけても、また亡くした子が思い出され、いつになったら忘れられるのだろうか。今日はふだんにも増して母親の悲しみもひとしおであろう、土佐に下った時の人数に足らないのが、古歌にある「数は足りないで帰っていくようだ」という文句を思い出して、ある人が詠んだ、
 
 
この世の中をいろいろ考えてみても、亡き子を恋い慕う親の思いにまさる思いはないのだ。

と言いつつ。
 

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室 津

(一)
 十二日。雨降らず。文時(ふむとき)、維茂(これもち)が船の遅れたりし、奈良志津(ならしづ)より室津(むろつ)に来(き)ぬ。

 十三日の暁(あかつき)に、いささかに雨降る。しばしありて止(や)みぬ。女これかれ、「沐浴(ゆあみ)などせむ」とて、あたりのよろしき所に下りて行く。海を見やれば、

 雲もみな波とぞ見ゆる海女(あま)もがないづれか海と問ひて知るべく

となむ歌詠める。さて、十日(とおか)あまりなれば、月おもしろし。船に乗り始めし日より、船には紅(くれなゐ)(こ)くよく衣(きぬ)着ず。それは、「海の神に怖(お)ぢて」といひて、何(なに)の葦蔭(あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)のつまの貽鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)にあげて見せける。

【現代語訳】
 (正月)十二日。雨は降らない。一行の中で、文時、維茂、両名の船が遅れていたのが、ようやく奈良志津(ならしづ)から室津に追いついて来た。

 十三日の夜明け前に少しばかり雨が降ったが、しばらくして止んだ。女たちのだれかれが「水浴びでもしましょう」と言い、そのあたりの適当な場所に下りて行く。遠く海を眺めると、

 
雲もみな波のように見える。近くに海人でもいればなあ。どっちが海なのかと聞いて知りたいので。

こんな歌を詠んだことだ。さて今夜はもう十日を何日か過ぎているので、月が美しい。船に乗り始めた日から、船中では、女たちは紅の濃い衣は着ない。なぜかというと、「そんな恰好をすると、海の神が女に取り憑いて怖いから」というわけだが、今は何も構うものかと、頼りない葦の陰にかこつけて、ホヤの連れ合いの貽貝(いがい)の鮨(すし)や鮨鮑やらを、不用意にも心にもなく脛まで高々とまくりあげて、海神に見せつけたのであった。

(注)老海鼠・・・海産物のホヤ。その形状から、男性器の比喩。
(注)貽鮨・・・鮑とともに女性器の比喩。性器の露出が悪霊を祓うという民間信仰による。

(二)
 十四日。暁(あかつき)より雨降れば、同じ所に泊れり。船君(ふなぎみ)、節忌(せちみ)す。精進物(さうじもの)なければ、牛時(むまどき)より後(のち)に、梶取(かぢとり)の昨日(きのふ)釣りたりし鯛(たひ)に、銭(ぜに)なければ、米(よね)を取り掛けて落ちられぬ。かかること、なほありぬ。梶取、また鯛持て来たり。米(よね)、酒、しばしばくる。梶取、気色(けしき)(あ)しからず。

 十五日。今日(けふ)、小豆粥(あづきがゆ)(に)ず。口惜(くちを)しく、なお日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日(けふ)二十日(はつか)あまり経(へ)ぬる。いたづらに日を経(ふ)れば、人々、海を眺めつつぞある。女(め)の童(わらは)の言へる、

 立てば立つ居(ゐ)ればまた居(ゐ)る吹く風と波とは思ふどちにやあるらむ

いふかひなき者のいへるには、いと似つかはし。

 十六日。風波(かぜなみ)やまねば、なほ同じ所に泊れり。ただ、海に波なくして、いつしか御崎(みさき)といふ所渡らむ、とのみなむ思ふ。風波(かぜなみ)ともに止(や)むべくもあらず。ある人の、この波立つを見て詠める歌、

 霜(しも)だにも置かぬかたぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける

 さて、船に乗りし日より今日(けふ)までに、二十日あまり五日になりにけり。

【現代語訳】
 (正月)十四日。明け方から雨が降っているので、同じところに停泊。船主(貫之のこと)が節忌の精進斎戒をする。といって、精進の食べ物が無いので午前中で取りやめにし、正午から後には、船頭が昨日釣った鯛を、銭の持ち合わせが無いので、手持ちの米を代金の代わりとして船頭に支払い、精進落ちをなさった。このようなことが何度かあった。船頭がまた鯛を持ってきたことがある。その度に米や酒を与えた。それで船頭は機嫌がいい。

 十五日。今日は小正月で小豆粥を煮る日だったが、小豆がないので取りやめにした。口惜しいうえに、天気が悪く、船が進まないでいるうちに、今日で出立の日から二十日あまりも経ってしまった。無為に日を過ごしているので、人々は、ただ海を眺めて過ごしている。すると例の女の子が歌を詠んだ。

 
風が立てば波も立ち、風が静まれば波もおさまる。風と波とは仲良し同士なのかしら。

取るに足りない幼い者の言った歌としては、とても似つかわしい。

 十六日。風も波も止まないので、なおも同じ港に停泊。

 ただ、海に波がなくなったので、いつになったら御崎(室戸岬)を通り過ぎるのだろうかとばかり思う。しかし、風も波もにわかに止む気配が無い。ある人が、この波立つありさまを見て歌を詠んだ。

 
霜さえ降りない南国だというけれど、見れば波の中には雪が降っていることよ。

 さて、船に乗り込んだ日から今日まで二十日と五日にもなってしまった。

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暁月夜

(一)
 十七日(とをかあまりなぬか)。曇(くも)れる雲なくなりて、暁月夜(あかつきづくよ)いともおもしろければ、船を出(い)だして漕ぎ行く。この間に、雲の上も海の底も、同じごとくになむありける。むべも昔の男は、「棹(さを)は穿(うが)つ波の上の月を。船は圧(おそ)ふ海のうちの天(そら)を」とは言ひけむ。聞きされに聞けるなり。また、ある人の詠める歌、
 
 水底(みなそこ)の月の上よりこぐ船の棹にさはるは桂(かつら)なるらし
 
これを聞きて、ある人のまた詠める、
 
 影見れば波の底なる久方(ひさかた)の空こぎ渡るわれぞわびしき
 
 かく言ふ間に、夜やうやく明けゆくに、楫取(かぢとり)ら、「黒き雲にはかに出で来ぬ。風吹きぬべし。御船(みふね)返してむ」と言ひて、船帰る。この間に雨降りぬ。いとわびし。

【現代語訳】
 (正月)十七日。曇っていた雲がなくなり、暁月夜がとても美しいので、船を出して漕いで行く。この時には、雲の上にも海の底にも同じように月が輝いていた。なるほど、それで昔の人は「棹は差す、波の上に映る月を。船は通る、海の中に広がる空の上を」と歌ったのだろう。人が言っているのを聞きかじったのである。また、ある人が詠んだ歌は、
 
 
水底に映った月の上をこいで行く船の棹にからむのは、(月に生えているという)桂であるようだ。
 
この歌を聞いて、ある人がまた詠んだ歌、

 
海に映っている月の姿を見ると、波の底にある空をこぎ渡る私こそ寂しく心細いものだ。
 
 このように歌を詠んでいるうちに、夜が次第に明けていき、その時に、船頭たちは、「黒い雲が急に出てきた。風が吹くに違いない。御船を戻そう」と言って、もとの港に引き返した。そのうちに雨が降りだした。ほんとうに辛い。 

(二)
 十八日。なほ、同じ所にあり。海荒ければ、船(ふね)(い)ださず。この泊(とまり)、遠く見れども、近く見れども、いとおもしろし。かかれども、苦しければ、何事(なにごと)も思(おも)ほへず。男(をとこ)どちは、心やりにやあらむ。漢詩(からうた)など言ふべし。船も出(い)ださで、いたづらなれば、ある人の詠める、

 磯(いそ)ふりの寄する磯には年月(としつき)をいつとも分(わ)かぬ雪のみぞ降る

 この歌は、常にせぬ人の言(こと)なり。また、人の詠める、

 風による波の磯(いそ)には鶯(うぐひす)も春もえ知らぬ花のみぞ咲く

 この歌どもを、少しよろし、と聞きて、船の長(をさ)しける翁(おきな)、月日(つきひ)ごろの苦しき心やりに詠める、

 立つ波を雪か花かと吹く風ぞ寄せつつ人をはかるべらなる

 この歌どもを、人の何かと言ふを、ある人聞きふけりて詠めり。その歌、詠める文字(もじ)、三十(みそ)文字あまり七(なな)文字。人みな、えあらで、笑ふやうなり。歌主(うたぬし)、いと気色(けしき)(あ)しくて、怨(ゑ)ず。真似(まね)べどもえ真似(まね)ばず。書けりとも、え読み据(す)ゑ難(がた)かるべし。今日(けふ)だに言ひ難し。まして後(のち)にはいかならむ。

【現代語訳】
 (正月)十八日。なお同じ所にいる。海が荒れているので船を出さない。この港は、遠くから見ても近くから見てもとても美しい。ではあるけれど、やはりこう旅がはかどらぬと嫌になってしまい、何の感興も起こってこない。男衆は憂さ晴らしであろうか、漢詩などを互いに吟じ合うている。船も出さないですることがないので、ある人が詠んだ歌、

 
岩をとどろかせて波の寄せる磯には、季節をいつともわきまえぬ雪だけが降っている。

 この歌は、いつもは歌を詠まない人の作である。また、別の人が詠んだ、

 
風に吹き寄せられる波が立つ磯には、鶯も春も知らない波の花ばかりが咲いている。

 この歌どもを、まあ悪くもないというので、船客の長である老人が、先月来の心の憂さを晴らそうと詠んだ歌は、

 
立つ波を、ある人は雪かと言い、またある人は花かと言う。さては吹く風が波を寄せつつ、人をだまそうとしているらしい。

 これらの歌を、居合わせた人々が何かと批評するのを、ある人がじっと聞いていて、歌を詠んだ。ところが、その歌はなんと三十七文字にもなっていた。人々はみんなこらえきれずに笑い出してしまったので、歌を詠んだ人はひどく機嫌をそこねて、人々を恨めしがる。あまりに長ったらしい歌なので、口まねに繰り返そうとしても真似ることができない。たとえ紙に書きつけたとしても、ちゃんと読み下すのが難しかろう。たった今聞いたのを復唱するのさえ難しいのだから、まして後日にはどうであろうか。

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安倍仲麿の歌

 十九日(とをかあまりここぬか)。日悪しければ、船(ふね)(い)ださず。
 
 二十日。昨日(きのふ)のやうなれば、船出ださず。皆人々憂へ嘆く。苦しく心もとなければ、ただ日の経ぬる数を、けふ幾日(いくか)、二十日、三十日(みそか)と数ふれば、指(および)もそこなはれぬべし。いとわびし。夜は寝(い)も寝ず。

 二十日の、夜の月(つき)(い)でにけり。山の端(は)もなくて、海の中よりぞ出で来る。かうやうなるを見てや、昔、安倍仲麿(あべのなかまろ)といひける人は、唐(もろこし)に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人(くにびと)、馬(むま)の餞(はなむけ)し、別れ惜しみて、かしこの漢詩(からうた)作りなどしける。飽かずやありけむ。二十日の、夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これを見てぞ、仲麿の主(ぬし)、「わが国にかかる歌をなむ、神代(かみよ)より神もよんたび、今は上中下(かみなかしも)の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む」とて詠めりける歌、
 
 青海原(あをうなばら)ふりさけ見れば春日(かすが)なる三笠の山に出でし月かも
 
とぞ詠めりける。かの国人(くにひと)、聞き知るまじく思ほえたれども、言(こと)の心を、男文字に様(さま)を書き出(い)だして、ここの詞(ことば)伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外(ほか)になむ愛(め)でける。唐土(もろこし)とこの国とは、言(こと)異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ人の心も同じことにやあらむ。さて今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌、
 
 都にて山の端(は)に見し月なれど 波よりいでて波にこそ入れ

【現代語訳】
 (正月)十九日。天候が悪いので、船は出さない。
 
 二十日。昨日と同じような天候なので、またも船を出さない。人々はみな憂い嘆く。辛くて気がせいてならず、ただ日数が過ぎていくのを、今日で何日、二十日、三十日と数えるので、指も痛めてしまいそうだ。とても辛い。夜は寝もしない。

 二十日の夜の月が出た。山の端もないので、何と海の中から出てくる。このような月を眺めて、昔、安倍仲麿という人は唐に渡って帰ってくるときに、船乗り場であちらの国の人が餞別の宴を開いてくれ、別れを惜しみつつあちらの詩を作ったりしたという。物足りなかったのか、二十日の夜の月が出るまでその場にいたそうだ。その月はやはり海から出たという。これを見て仲麿は、「わが国ではこのような歌を、神代から神もお詠みになり、今では上・中・下の身分の人も、このように別れを惜しんだり、喜びや悲しいことがあったりしたときに歌を詠むのです」と言って、詠んだ歌、
 
 
青々と広がった海をはるかに見渡すと、月が上ってきた。この月は、わが故郷、奈良の春日にある三笠の山に出ていたあの月と同じなのだなあ。
 
と詠んだそうだ。あちらの国の人は、聞いても分からないだろうと思われたが、歌の意味を漢字に書き表して日本語を習い伝えている人に説明させたところ、歌の心を理解できたのだろうか、意外なほど感心したという。唐とこの国とは言葉は違っているが、月の光は同じはずだから人の心も同じなのだろうか。そこで今、その昔に思いをはせて、ある人が詠んだ歌、
 
 
都では山の端に見た月だけれど、ここでは波から月が出て、また波に入っていく。

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かしらの雪

(一)
 二十一日(はつかあまりひとひ)。卯(う)の時ばかりに船(ふね)(い)だす。みな人々の船出づ。これを見れば、春の海に秋の木(こ)の葉しも散れるやうにぞありける。おぼろけの願(ぐあん)によりてにやあらむ、風も吹かず、よき日出で来て、漕ぎ行く。この間に、使はれむとて、付きて来る童(わらは)あり。それが歌ふ船唄、
 
 なほこそ国の方は見やらるれ、わが父母(ちちはは)ありとし思へば。帰らや
 
と歌ふぞあはれなる。かく歌ふを聞きつつ漕ぎ来るに、黒鳥(くろとり)といふ鳥、岩の上に集まり居(を)り。その岩のもとに、波白く打ち寄す。楫取(かじとり)の言ふやう、「黒鳥のもとに、白き波を寄す」とぞ言ふ。この詞(ことば)、何とにはなけれども、物言ふやうにぞ聞こえたる。人のほどに合はねば、咎(とが)むるなり。
 
 かく言ひつつ行くに、船君(ふなぎみ)なる人、波を見て、「国より始めて、海賊(かいぞく)報いせむと言ふなることを思ふ上に、海のまた恐ろしければ、頭(かしら)もみな白けぬ。七十(ななそ)ぢ、八十(やそ)ぢは、海にあるものなりけり。わが髪の雪と磯辺の白波といづれまされり沖つ島守(しまもり)、楫取、言へ」

【現代語訳】
 (正月)二十一日。午前六時ごろに船を出す。人々が乗っている船はみな出る。このようすを見ると、春の海に秋の木の葉が散っているようだった。一生懸命に願をかけたおかげだろうか、風も吹かず、よい天気になって船を漕いでいく。このようなときに(貫之に)使ってもらおうとして、ついてきた子どもがいる。その子どもが船歌を歌った。
 
 
今となってもやはり故郷のほうへ目が向いてしまう。自分の父母がいらっしゃると思うと、帰ろうよ。

と歌うのがしみじみと心にしみる。このように歌うのを聞きながら船を漕いでくると、黒鳥という鳥が岩の上に集まっている。そしてその岩の下に波が白く打ち寄せている。楫取りが、「黒鳥のもとに白い波が打ち寄せている」と言う。この言葉は別にどうということはないが、しゃれた言葉にも聞こえた。楫取りという身分に似合わないので心にとまったのだ。
 
 このように言いながら行くと、船の主人(貫之)が波を見て、「(土佐の)国を出て以来、海賊が仕返しをするといううわさを心配する上に、海がまた恐ろしく、頭もすっかり白くなってしまった。七十歳、八十歳のようになる原因は海にあるものなのだ。私の髪の雪のような白さと磯辺の白波とでは、どちらが白いか、沖の島の番人よ、船頭よ、答えておくれ」
 

(二)
 二十二日。昨夜(よんべ)の泊(とまり)より、異泊(ことどまり)を追ひて行く。遥(はる)かに山見ゆ。歳九つばかりなる男(を)の童(わらは)、歳よりは幼くぞある。この童、船を漕(こ)ぐまにまに山も行くと見ゆるを見て、あやしきこと、歌をぞ詠める。その歌、

 漕ぎて行く船にて見ればあしひきの山さへ行くを松は知らずや

とぞ言へる。幼き童の言(こと)にては、似つかはし。今日(けふ)、海荒げにて、磯に雪降り、波の花咲けり。ある人の詠める、

 波とのみひとつに聞けど色見れば雪と花とにまがひけるかな

【現代語訳】
 (正月)
二十二日。昨夜の港から別の港を目指して行く。遥か遠くに山が見える。船中に九歳ばかりの男の子がいて、歳よりは幼く見える。この子が、船が漕ぎ進むにつれて遠くの山もいっしょに進んでいくように見えるのを見て、不思議に思い、歌を詠んだ。その歌は、

 漕いで行く船から見ると、山さえもいっしょに動いているのに、山に生える松はそれに気づかないのだろうか。

と言う。幼い子供の詠みぶりとしては、まあ似つかわしい。今日は海の波は荒く、磯には白雪のような波が打ち、真っ白な花が咲いている。ある人が詠んだ歌は、

 耳で聞けばただ波だなと一つに聞こえるだけだが、目で見ると、雪にも花にも見まがうものだ。 

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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「土佐日記」について

作者の紀貫之は平安前期に活躍した歌人で、漢詩文にもすぐれていた。官人としては詔勅の起草などにあたる少内記・大内記を勤めた。わが国最初の勅撰集である『古今集』撰進の中心となってその仮名序を執筆するなど、仮名文学の成立に寄与した。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。

『土佐日記』は、わが国最初の和文による旅日記体の作品で、平安期の日記文学のさきがけとなった。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。
 
内容は、土佐国の国守の任期を終え、土佐国を出発して京に帰る道中のできごとを記述。土佐守という公的な立場から離れ、架空の女性を筆者として、その目を通して道中に出会ったさまざまな人物やできごとを観察させている。貫之自身もその対象となっており、時には笑われたり、からかわれたり、同情されたりしている。

筆者を女性に仮託した理由については、①男性官人が仮名文で書いたため、②諧謔風刺のための韜晦(とうかい)、③公的身分を離れて私的感情を開陳するためなどの諸説がある。作歌の田辺聖子は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、『泣血(きゅうけつ)』のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」と述べている。
 
55日間の船旅の経緯を1日の記事も省略せず書かれており、女性の立場からの率直な旅の感想に加え、亡児への追慕の記、人に見せぬことを前提とした独語的叙述や社会風刺などがちりばめられている。ただし、内容は虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく、あくまで文学作品である。57首の和歌を含み、歌人・貫之の和歌に対する意見も随所に見られ、歌論書めいたところもある。

『土佐日記』は、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えており、『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性が高い。

なお、『土佐日記』はある時期まで貫之自筆のものが伝わっていた。鎌倉時代までは京都蓮華王院の宝蔵に納められていたものが、のちに歌人尭孝の手に渡り、さらにそれが足利義政に献上されてからは足利将軍家の所蔵となっていたらしいが、その後の消息については絶えている。写本としては、自筆本から直接に藤原定家、藤原為家、松木宗綱、三条西実隆らにより筆写され、これら4系統の写本が伝わっている。中でも定家本と為家本は、貫之自筆本の再構成には重要とされている。
 

紀貫之の略年譜

866または872年
このころ京都に生まれる

893年
寛平御時后宮歌合に参加

894年
遣唐使の停止


898年
朱雀院女郎花合に参加

901年
菅原道真が藤原氏によって大宰府に流される


905年
醍醐天皇の勅により『古今和歌集』の選集に、実際上の編集主幹として携わる(自身の詠歌は102首入集)

906年
越前権少掾に任官

907年
内膳典膳に遷任

910年
少内記に遷任

913年
亭子院歌合に参加
大内記に転任

917年
従五位下に叙位
加賀介に遷任

918年
美濃介に遷任

923年
大監物に遷任

929年
右京亮に遷任

930年
土佐守に遷任
醍醐天皇が崩御

932年
藤原定方が死去

933年
藤原兼輔が死去

935年
平将門の乱・藤原純友の乱
土佐守の任を終え帰京
後にこのときの紀行を参考に『土佐日記』を書く

943年
従五位上に叙位

945年
死去

1904年
贈従二位

「土佐日記」の行程

12月21日
国司交替の事務を終え、午後8時、大津に向け官舎を出発
 
12月22日
海上平穏を祈願
 
12月23~24日
餞別があり、送別の宴が続く
 
12月25日
後任の国司の招待を受け国府に出向く
 
12月26日
守の官舎で宴を催す
宴が終わり、大津に向かう
 
12月27日
浦戸に向けて船を漕ぎ出す
土佐国で急逝した女児を恋い悲しむ
途中、鹿児崎で新任の国守の兄弟らが送別の宴を催す
 
12月28日
大湊へ
前の国守の子から差し入れを受ける

12月29日
土佐国の官医から差し入れを受ける
 
1月1日
以後8日まで風波が強く出航できない

1月7日
七種の節句を行う
 
1月9日
早朝、人々と別れを惜しみ、大湊から奈半の港に向かう
宇多の松原を通過
 
1月11日
室津に向かう
羽根という土地のことを尋ねた子どもにつけても、亡き女児を思い悲しむ
 
1月15・16日
風波やまず
 
1月17日
出航するが、雨が降り出し、引き返す
天候が悪く、20日まで船を出せず
 
1月20日
月を見て、阿倍仲麻呂の歌をしのぶ
 
1月21日
午前6時ごろ船を出す
 
1月22日
海は荒れ模様
 
1月23日
海賊の心配があるので、神仏に祈る
 
1月26日
夜中ごろから船を漕ぎ出す
 
1月27~28日
風波が強い
 
1月29日
都の行事をなつかしく思い出す
土佐の泊
 
1月30日
海賊を避けて夜中ごろ船を出す。神仏を祈りつつ阿波の海峡を渡る
和泉の灘に到着
 
2月1日
海岸沿いに北上
黒崎の松原
箱の浦
風波が高く泊まる
 
2月4日
美しい貝や石を見て亡き女児を追慕
 
2月5日
石津
住吉の松を見て女児を追慕
 
2月6日
難波に着き、河口に入る。人々は都が近いと喜ぶ
 
2月7日
河口を上るが水が少なく苦労する

2月8日
鳥飼の御牧
 
2月9日
船上から渚の院を眺め、昔をしのぶ
鵜殿に泊まる
 
2月11日
山崎に到る
石清水八幡宮
13日まで山崎に泊まる
 
2月14日
京に車を取りに人を出す
 
2月15日
船からある人の家に移る
 
2月16日
島坂
夜になるのを待って京に入る

土佐国について

平安時代の延喜式は、各国を「大国(たいこく)」「上国(じょうこく)」「中国(ちゅうこく)」「下国(げこく)」と分類し等級を定めており、土佐国(現在の高知県の大部分)は「中国」に分類され、京からは遠国とされていた。また、古くから流刑の地でもあった。国府と国分寺は現在の南国市に置かれていた。

位階に応じて役職が決まる官位相当制では、土佐国守は正六位下が相当位であったが、実際には五位クラスの官僚が赴任している。官位の高い者の中には自分は赴任せず、代理人を現地に送るケースもあった。また左遷人事として土佐守になった例もある。

紀貫之の官位は従五位下であり「栄転でもないが左遷でもない官位相当の人事」であり、家族を帯同して自ら赴いている。彼が土佐国に着任したのは、延長8年(930年)59歳の時のこと。すでに『古今和歌集』を編纂するなど歌人として実績を残しており、地方官として赴任するのは初めてだったようだ。(過去に越前権少掾、加賀介、美濃介に任官した時は、実際には赴任していない。)

土佐守は中級以下の貴族が任官されることが多かったため、著名人は少なく、紀貫之は『土佐日記』を執筆したこともあり、土佐守を代表する人物として名を残している。

国守としての紀貫之

国守の主な任務は地方から庸(よう)・調(ちょう)などの税を徴収し朝廷に送ることなので、紀貫之も同様の仕事に携わっていたと考えられている。後任の島田公鑑(しまだきみあき)への引き継ぎを終え、任務の完了を証明する解由状(げゆじょう)を受納していることから、貫之は特段の問題も滞りもなく任務を終えたようだ。

島田公鑑が土佐国着任を延引したことから、「後任者の遅れで足掛け5年の赴任になった」と不満をもらしているが、もともと国守の任期は4~5年とされていたので、貫之がとりわけ長期の赴任だったいうわけではない。

彼が土佐を離れるに際しては、国府(現在の南国市比江)およびその周辺の人々が離別の宴を開いてくれており、また在地の豪族から餞別をもらったりもしているため、地元との関係も良好だったようだ。

それまで位階の昇進が極端に遅れていた貫之は、土佐守に任じられたことが官吏として行政実務に就いた最初であったかもしれない。それだけに貫之は清廉謹直に職責を果たしたが、その間、彼の後ろ盾となっていた醍醐天皇をはじめ右大臣藤原定方、権中納言藤原兼輔などの有力者が相ついで亡くなり、任を終えて帰京したときの貫之は、政官界において孤立無援であった。

一族を扶養するためには権力者に接近して官職を求めねばならないが、国守として当然とされていた不正蓄財をいっさい避けていた貫之としては、和歌の学識をもって権力者の知己を求めるよりほかに道はなかった。そこで創作したのが『土佐日記』であるとされる。

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