小倉百人一首
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法性寺入道
歌意 >>> 広い海に舟を漕ぎ出して見渡せば、雲と見まちがうほどに沖に白波が立っている。
作者 >>>藤原忠通(ふじわらのただみち:1097~1164年) 平安後期の人。関白だったが、弟の頼長との政争に敗れ、氏長者の地位を奪われた。1156年の保元の乱では後白河天皇側につき、崇徳上皇・藤原頼長と対立。平清盛らの軍勢が崇徳上皇側を破り、頼長を討った。晩年に法性寺に隠退して出家したので「法性入道」と呼ばれる。和歌を好み、勅撰集に69首入集、また漢詩にも優れていた。
説明 >>>『詞花集』巻10・雑の部に「新院、位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに詠める」とあり、崇徳上皇の御前で「海上の遠望」の題で詠んだ歌。「わたの原」は広々とした大海原。「ひさかたの」は「雲」に掛かる枕詞。ほかに、天・空・日・月・光などに掛かる。「雲ゐ」は「雲居」で雲のいる所、すなわち空。ここでは転じて雲そのもの。「沖つ白波」の「つ」は上代に使われた「の」にあたる格助詞。
崇徳院
歌意 >>> 川の瀬の流れが早いので、岩にせきとめられる急流はふたつに分かれてしまうけれど、やがてまた合流するように、ふたりの仲がさかれても最後にはきっとまた一緒になろうと思う。
作者 >>>崇徳院(すとくいん:1119~1164年) 鳥羽天皇の第1皇子、第75代天皇。母の待賢門院と曾祖父・白河院との密通の子と疑う父から疎まれた。鳥羽院崩御後、後白河天皇と皇位継承をめぐって対立、保元の乱に至り、敗れて讃岐(香川県)に流され、その地で崩御した。和歌の興隆を支えた実績は大きく、定家の父・俊成(83番歌の作者)は院の歌壇で活躍し、院が讃岐に流された後も交流を持っていたという。
説明 >>>『詞花集』巻7・恋の部に載る。「瀬をはやみ」の「はやみ」は、速いので。「~(を)+形容詞の語幹+み」は、原因・理由を表す語法。「せかるる」は、堰き止められる。「われて」は「水が分かれて」と「二人が別れて」にかかる掛詞。上3句が「われても」を導く序詞。「滝川」は急流・激流の意。「あは」は「流れが合う」と「二人が逢う」の掛詞。川の流れの行く末に自分の恋の将来を重ねて詠んだ、情熱的な恋の歌。
源兼昌
歌意 >>> 淡路島から渡ってくる千鳥の物悲しい鳴き声に、幾夜目を覚ましたことだろう、須磨の関守は。
作者 >>>源兼昌(みなもとのかねまさ:生没年未詳) 12世紀初め、平安後期の人で、宇多源氏の系統。詳しい経歴は不明。74番歌の作者・源俊頼が中心となっていた堀河院歌壇の一員。勅撰集には7首が入集。
説明 >>>『金葉集』冬の部に「関路(せきぢ)ノ千鳥といへるを詠める」とある歌。「関路」は関所への道。冬の夜、荒涼とした須磨の地を通り過ぎるとき、向かいの淡路島から飛んで通ってくる千鳥の鳴き声を聞き、昔の関守のわびしい気持ちを思いやる、というもの。「淡路島」は万葉時代から数多く詠まれた歌枕。「千鳥」は水辺に住む小型の鳥。「須磨」は神戸市須磨区周辺。昔は関所があったがすでに廃されており、『源氏物語』で光源氏が須磨流しにあう舞台になるほど、この時にはすでに寂れていた。
左京大夫顕輔
歌意 >>> 秋風にたなびく雲の切れ目から、もれ出てきた月の光の何とすがすがしいことか。
作者 >>>藤原顕輔(ふじわらのあきすけ:1090~1155年) 平安後期の人。84番歌の清輔の父。左京職の長官。俊成・定家以前の歌壇の大御所として、崇徳院の命により勅撰集『詞花集』を撰進した。源俊頼(74番歌の作者)と親交があった。
説明 >>>『新古今集』巻4・秋の部に載る、崇徳院に百首の歌を奉った(久安百首)ときの歌。いくつかの題ごとに歌を詠み、合計百首とするもの。「月の影」は月光。「さやけさ」は形容詞「さやけし」の名詞形で、くっきりと澄み切っていること。秋ならではの季節の感覚を夜空の景によってとらえ、率直ながらも、印象的に、格調高く詠んでいる。その言葉の美しさを、定家は「麗様(うるわしきよう)」と表現した。
待賢門院堀川
歌意 >>> 末永く愛してくださるのか、あなたの心はまだわからない。一夜をともにしてお別れした今朝は、昨夜の黒髪の乱れのように、私の心はちぢに乱れて物思いに沈んでいます。
作者 >>>待賢門院堀川(たいけんもんいんのほりかわ:生没年未詳) 12世紀前半、平安後期の人。源顕仲(みなもとのあきなか)の娘。はじめ令子(れいし)内親王に仕えて前斎院六条とよばれ、のち崇徳院の母・待賢門院につかえ堀河と呼ばれた。待賢門を慕っていた西行とも親しかった。院政期歌壇の代表的な女流歌人。
説明 >>>これも崇徳院に百首の歌を奉った(久安百首)ときの歌で、『千載集』に載る。男が贈ってきた後朝の歌に対する返歌という趣向で詠んでいる。「長からむ心」は、末永く変わらない心。「乱れて」は「黒髪が乱れて」と「心が乱れて」の掛詞。逢瀬の後の余韻を官能的に言い表しつつも、相手の男の心を信じきることができない不安を歌っている。
後徳大寺左大臣
歌意 >>>ほととぎすが鳴いた方角を眺めやると、ほととぎすの姿は見えなくて、ただ有明の月のみが空に残っている。
作者 >>>藤原実定(ふじわらのさねさだ:1139~1191年) 平安末期の人。右大臣・公能の子で、俊成の甥、定家の従兄弟。正二位左大臣に至り、祖父の実能(さねよし)が徳大寺左大臣と呼ばれていたので、実定を後徳大寺と呼んで区別している。管弦や今様にもすぐれ、家集に『林下集(りんげしゅう)』がある。
説明 >>> 『千載集』夏の部に載る、「暁に郭公(ほととぎす)を聞く」という題で詠まれた歌。ほととぎすは、初夏の代表的な景物として歌に多く詠まれる。王朝の人々は、夏の到来を知らせる鳥として、とくにその初音を聞くことを希求した。「有明の月」は、夜明けごろになっても空に残っている月。ほととぎすはあちらこちらを非常に速く動き回る鳥であり、作者がほととぐすの初音を聞いて振り返ったら、もうそこにはいない、という印象も込められている。
道院法師
歌意 >>> つれなくされて思い悩み、それでも命を長らえているのに、涙だけは耐えることができずにこぼれ落ちてしまう。
作者 >>>藤原敦頼(ふじわらのあつより:1090~1182?年) 平安末期の人。従五位・左馬助だったが、80歳を過ぎて出家した。長命で、90歳を過ぎ耳が遠くなっても歌会に出て講評を熱心に聞いていたとほどの歌好きだった、死後に、『千載集』に18首の歌が載せられれたのを喜び、選者・藤原俊成の夢に出てきて涙を流してお礼を言ったという逸話が残っている。
説明 >>>『千載集』恋の部に載る。つれない相手をひたすら思い続け、もう気力さえ失ったという気持ちを詠んだ歌。「思いわぶ」は恋歌に多く用いられる心情語の一つで、思い悩んで疲れてしまうこと。「さても」は、そうであっても。「憂きに」は、つらさに。
皇太后宮大夫俊成
歌意 >>> この世の中には、辛さから逃れる道はないのだな。思いつめて分け入ってきたこの山奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているではないか。
作者 >>>藤原俊成(ふじわらのとしなり:1114~1204年) 平安末期の人。定家(97番歌の作者)の父で、西行法師(86番歌の作者)と並ぶ、当時最大の歌人。後白河法皇の命を受け、勅撰集『千載集』を撰進した。『平家物語』で、都落ちする平忠度(たいらのただのり)が、自らの歌集を俊成に託した話が有名。正三位・皇太后大夫となり、63歳の時に病気になり、出家した。『新古今集』に72首入集。
説明 >>>『千載集』巻17・雑の部に「述懐の百首歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる」とある。「道こそなけれ」は、逃れる方法はないものだ。「こそ」は強意の
係助詞。「おもひ入る」は「思ひ入る」と「山に入る」の掛詞。「鳴くなる」の「なる」は、推定の助動詞「なり」の連体形で、強意の係助詞「ぞ」の結び。現世から容易に逃れることのできない憂愁を詠んだ歌だが、まだ20代後半、出家前の作。
藤原清輔朝臣
歌意 >>> もっと生き長らえたならば、辛い今が懐かしく思い出されるのだろうか。辛かった昔が、今では恋しく思えるのだから。
作者 >>>藤原清輔(ふじわらのきよすけ:1104~1177年) 平安後期の人。79番歌の作者・藤原顕輔の次男。正四位下皇太后宮大進。多くの歌合に出詠、判者となった。歌学書『袋草子』がある。勅撰集に89首入集。
説明 >>>『新古今集』巻18・雑の部に載る。時の流れに思いを馳せ、我が人生の不幸を述懐した歌。作者がどのような事情にあったかは定かでないが、父とは不仲で、崇徳院の命で父が選集した『詞花集』に彼の歌が1首もとられなかったり、二条院の命によって自身が『続詞花集』を選集することになったが、途中で院が崩御し、私撰集として完成せざるを得なくなったなどの経緯がある。「憂しと見し世」は、作者自身が経験してきた辛かった過去。それが懐かしまれるというのは、現在もなお憂愁に満ちているから。
俊恵法師
歌意 >>> あの人が来ないので、一晩中物思いをするこのごろは、夜もなかなか明けなくて、寝室のすき間までも朝日を通さず、つれなく思えてしまう。
作者 >>>俊恵法師(しゅんえほうし:1113~1191?年) 平安末期の人。74番歌の作者・源俊頼の息子で、父から和歌を学んだが、17歳で死別。東大寺の僧となり、以後多くの歌合せに出詠。京都白川の自分の坊「歌林苑(かりんえん)」で歌合、歌会を主宰、廷臣、神官、僧侶、女房など広範囲にわたる会衆を集めて歌人たちのサロンとした。鴨長明の和歌の師でもあった。
説明 >>>『千載集』巻12に載り、詞書に「恋の歌とて詠める」とある題詠の歌。男性の作者が、ひとり寝で恋に悩む女の立場になって詠んでおり、この時代、男性歌人が女の立場で詠んだ歌が少なくない。「夜もすがら」は、夜通し、一晩中。「明けやらで」は、なかなか明けきれないで。ただし百人一首の古い写本や『千載集』、家集の『林葉集』には「明けやらぬ」とあり、こちらが原形だと考えられている。「閨」は寝室。
西行法師
歌意 >>> 嘆けといって月は私に物思いをさせるのか、いやそんなはずはない。でも、月のせいであるかのように、私の涙はあふれ落ちる。
作者 >>>西行法師(さいぎょうほうし:1118~1190年) 平安後期の人。俗名・佐藤義清(さとうのりきよ)。代々武人の家で、鳥羽上皇に北面の武士として仕えていたが、23歳の時に、妻子と職を捨てて出家し、諸国漂流の旅に出た。天性の歌人と評され、家集『山家集』がある。『新古今集』に94首が入集。
説明 >>>『千載集』巻15・恋の部に載る、月に相対して恋人を思う歌。西行は月と花をこよなく愛した。また、出家者でありながら、意外にも恋の歌を多く詠んだ。「月やは物を思はする」の「やは~する」は「~するのだろうか、いや、そうではない」の意の反語を表す。「かこち顔」は、恨めしそうな顔つき。「かこつ」は、他のもののせいにする、言いがかりをつける、の意。なお、数ある西行の秀歌のなかで、定家がなぜこの歌を選んだのか不思議がられている。
寂蓮法師
歌意 >>> にわか雨が通り過ぎ、露もまだ乾いていない槇の葉に、早くも霧が立ち昇ってくる秋の夕暮れだよ。
作者 >>>寂蓮法師(じゃくれんほうし:1139?~1201年) 平安後期・鎌倉初期の人。俗名・藤原定長(ふじわらのさだなが)。俊成(83番歌の作者)の弟の俊海の息子で、父の出家後、俊成の養子になっていたが、定家が誕生したのを機に出家した。西行に倣い諸国行脚をするとともに、歌人としても活躍した。『新古今集』の撰者の一人となったが、完成前に病気で没した。勅撰集に117首入集。
説明 >>>『新古今集』巻5・秋の部に載る、秋の夕暮れの美しさの典型を詠んだ歌。「村雨」は強く降ってすぐ止む雨。特に秋から冬にかけて断続的に激しく降る。「まだひぬ」は、まだ乾いていない。「真木」は、杉や檜など良い木材になる木。村雨が通り過ぎた後の一瞬をとらえた風景画を思わせるような一首であり、「秋の夕暮」を結句にして余韻を残す手法は『新古今集』に多く見られる。この作者には、『新古今集』に「三夕の歌」と呼ばれる有名な歌、「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」がある。
皇嘉門院別当
歌意 >>> 難波の入り江にある、芦の刈り根のひと節ほどの一夜をあなたと過ごしたために、私は澪標(みおつくし)のようにこの身を尽くしてお慕いし続けなくてはならないのでしょうか。
作者 >>>皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう:生没年未詳) 12世紀、平安後期の人。太皇太后宮亮源俊隆(たいこうたいごうぐうのすけみなもとのとしたか)の娘。崇徳天皇の皇后、皇嘉門院聖子(こうかもんいんせいし)に仕える。別当は長官のこと。勅撰集に9首入集。
説明 >>>『千載集』巻13・恋の部に載る、「旅宿に逢ふ恋」という題で詠んだ歌。。「難波江」は摂津国難波(大阪市)の入り江。「難波江の芦の」が「かりね」を導く序詞。「かりねのひとよ」は「刈り根の一節(ひとよ)」と「仮寝の一夜」の掛詞。「みをつくし」は「身を尽くし」と「澪標」の掛詞。「澪標」は船の航行の目印に立てられた杭。「恋ひわたるべき」の「わたる」は、継続する意。たった一夜だけの旅の宿でのはかない恋にもかかわらず、この先もずっと恋い焦がれ続けなければならないとの嘆きを表現している。遊女を想定して詠んだとする説もある。
式子内親王
歌意 >>> 私の命よ、絶えるのなら絶えてしまえ。このまま生き永らえると、恋に耐え忍ぶ心が弱まって、人に知られるようになってはいけないから。
作者 >>>式子内親王(しょくしないしんのう:?~1201年) 平安後期・鎌倉初期の人。後白河天皇の第3皇女。兄弟に二条天皇、以仁王、殷富門院らがいる。賀茂神社の斎院を務め、後に出家した。内親王の歌の師は藤原俊成だったとされ、またその息子の定家と恋仲にあったとする伝説があるが、定かではない。生涯独身を通した。新古今時代の代表的な女流歌人。
説明 >>>『新古今集』巻1・恋の部に載る、忍ぶる恋を詠んだ歌。「玉の緒」は、本来は玉を貫いた緒の意であるが、ここでは命そのもの。「絶えなば絶えね」は、絶えるのなら絶えてしまえ。「ながらへば」は、生き永らえたなら。「弱りもぞする」の「もぞ」は、~すると困る、の意。清浄が求められる斎院を務めた式子だったからか、我が命絶えよと言ってしまうほど、許されない恋への激しい思いを詠っている。
殷富門院大輔
歌意 >>> 涙で色が変わってしまった私の袖をお見せしたい。あの雄島の漁夫の袖さえ、濡れに濡れても色は変わっていないのに。
作者 >>>殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ:1131?~1200?年) 平安末期・鎌倉初期の人。藤原信成(ふじわらののぶなり)の娘。後白河天皇の皇女、亮子(りょうし)内親王(殷富門院)に仕える。85番歌の作者・俊恵の「歌林苑」に参加して活躍、多くの歌合に出詠し、その多作ぶりにより「千首大輔」とも呼ばれた。
説明 >>> 『千載集』巻13・恋の部に載る。源重之の「林苑松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくはぬれしか」を本歌取りしたもので、重之の袖は濡れただけだが、私の袖は濡れたうえに色まで変わってしまったといっている。「見せばやな」の「ばや」は願望の終助詞で、見せたいものだ。「雄島」は陸奥国(宮城県)の松島湾内にある島の一つ。「あま」は漁夫。「袖だにも」の「だに」は、~でさえ。言外に、まして私の袖は、の意を込めている。
後京極摂政前太政大臣
歌意 >>> こおろぎが鳴いている、この寒い霜の夜のむしろの上で、私は自分の着物の肩袖を敷いて、ひとりさびしく寝るというのか。
作者 >>>藤原良経(ふじわらのよしつね:1169~1206年) 鎌倉前期の人。関白・九条兼実の二男で、若くして太政大臣になった。和漢の詩歌に優れ、叔父の慈円(95番歌の作者)とともに歌人たちの活動を支え、俊成や定家とも関係が深かった。『新古今集』の撰者の一人で、仮名序を執筆。家集『秋篠月清集』がある。38歳で急逝。
説明 >>>『新古今集』巻5・秋の部に載る。「きりぎりす」は今のコオロギのこと。「さむしろ」の「さ」は接頭語。「さ筵」と「寒し」の掛詞。「衣かたしき」は、自分の衣の袖を片方だけ敷いて寝ることで、ひとり寝を意味する言葉。「ひとりかも寝む」の「か」は疑問の係助詞、「も」は強意の係助詞、「む」は推量の助動詞。晩秋の哀れ深さを詠っており、次の2首を本歌としている。「さむしろに衣片敷きこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫」(『古今集』巻14-689)、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」(『拾遺集』巻13-778)。
二条院讃岐
歌意 >>> 私の袖は、潮が引いても見えない沖の石のように、誰も知らないでしょうが、涙で乾くひまもないのです。
作者 >>>二条院讃岐(にじょういんのさぬき:1141?~1217?年) 鎌倉初期の人。源三位頼政(げんさんみよりまさ)の娘。はじめ二条天皇に、後に後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)に仕える。藤原重頼と結婚。女流歌人として活躍し、歌林苑にも出入りした。勅撰集に72首入集。
説明 >>>『千載集』巻12・恋の部に「石に寄する恋といへる心を」として載る。海中に隠れて見えない沖の石のような秘めた恋を嘆いており、この歌は、和泉式部の「わが袖は水の下なる石なれや人に知られでかわく間もなし」(『和泉式部集』)の本歌取り。「潮干」は引き潮。「人こそ知らね」は、他人は知らないけれども。なお、『千載集』では、結句を「かわく間ぞなき」としている。
鎌倉右大臣
歌意 >>>世の中が、ずっとこのままであってほしい。渚を漕いでいく漁師の小舟の、引き綱を引いている光景は何とも心に染みて趣深い。
作者 >>>源実朝(みなもとのさねとも:1192~1219年) 鎌倉幕府の3代将軍。父は頼朝、母は北条政子。兄の頼家が追放され、12歳で将軍となった。京都の宮廷文化にあこがれ、鎌倉にいながら、18歳で京都にいる定家に師事した。定家も『近代秀歌』や自ら書写した『万葉集』などを送るなど、熱心に指導したらしい。家集『金槐和歌集』がある。28歳の時、甥の公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺された。
説明 >>> 『新勅撰集』羇旅の部に載る。漁夫の小舟を見ながら人の世の無常を思うこの歌は、「川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがな常処女にて」(『万葉集』巻1-22)と、「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」(『古今集』巻20-1088)を本歌取りしたもの。「もがも」は願望の終助詞。「な」は詠嘆の終助詞。「綱手」は陸から舟を引っ張るための綱。「かなしも」は、形容詞「かなし」の終止形に、詠嘆の終助詞「も」がついた形。実朝は鎌倉の実景を詠むことで独特の歌風を生み出し、さらに戦乱の世に対するやるせなさとあきらめの気持ちが漂い、歌をいっそう魅力的なものにしている。暗殺された当日、鶴岡八幡宮の梅の花を見て詠んだ歌が「出ていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな」。
参議雅経
歌意 >>> 吉野の山から秋風が吹いてきて、夜更けのこの里も寒さが増してきた。折からきぬたで衣を打つ音が聞こえてきて、いっそう寒々とした感じがする。
作者 >>>藤原雅経(ふじわらのまさつね:1170~1221年) 鎌倉初期の人。後鳥羽・土御門・順徳の3代に仕え、参議従三位に至る。鎌倉幕府の頼朝・実朝とも親交があった。蹴鞠(けまり)の名人で、後鳥羽院の師にもなった。和歌は俊成に学び、勅撰集の編纂などをする和歌所の寄人(職員)となる。『新古今集』の撰者の一人。
説明 >>>『新古今集』巻5・秋の部に載る。『古今集』巻6-325の「み吉野の山の白雪積もるらしふる里寒くなりまさるなり」を本歌としている。「み吉野」の「み」は美称。「さ夜」の「さ」は、語調を整える接頭語。衣を打つのは女性が夜にしていた仕事で、砧(きぬた)という柄のついた太い棒で衣を打ち、柔らかくして光沢を出した。砧の響きは、もともと漢詩の世界から取り込まれた情緒だった。
前大僧正慈円
歌意 >>>身の程をわきまえないことながら、僧として辛いこの世の人々に覆いかけよう、比叡山に住み始めた私の墨染めの袖を。
作者 >>>慈円(じえん:1155~1225年) 平安末期・鎌倉初期の人。関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)の子。10歳で父と死別、11歳で出家、37歳の時に天台宗の座主となる。史論『愚管抄』があり、後鳥羽院に公武の協調を諭すために書いたともいわれる。源頼朝とも歌を交わした。
説明 >>>『千載集』雑の部に載る「題知らず」の歌で、若い頃の作と見られている。「おほけなく」は、身分不相応だ、恐れ多い。「うき世」は俗世間。「おほふ」は覆う。「杣」は材木を切り出す杣山のことで、ここでは比叡山。「わが立つ杣」は、慈円が多く用いた表現で、そこから比叡山そのものを表す言葉となった。もとは開祖の最澄が用いた言葉で、最澄が比叡山延暦寺に根本中堂を建立する際に詠んだとされる「阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提の(さんみゃくさんぼだい)の仏達わが立つ杣に冥加あらせたまへ」(最上の知恵を持たれる御仏たちよ。私の入り立つこの杣山に加護をお与えください)を踏まえている。「墨染」は僧侶の着る墨染めの衣のことで、「住み初め」との掛詞になっている。仏法の力によって天下万民を救おうとする強い決意が詠まれている。
入道前太政大臣
歌意 >>>桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、ほんとうに古(ふ)りゆくのは、私自身なのだな。
作者 >>>藤原公経(ふじわらのきんつね:1171~1244年) 鎌倉前期の人。定家の義弟。反鎌倉派の後鳥羽院には疎まれたが、承久の乱の時、鎌倉方に内通し、その後は栄進が著しかった。源頼朝の姪を妻にし、娘を関白・道家に、孫娘を後堀河天皇の中宮にする婚姻政略で権勢を誇った。北山に西園寺を建て、自らその寝殿に住んだことから、「西園寺」の家名となった。
説明 >>>『新勅撰集』巻16・雑の部に載る、「落花を詠みはべりける」歌。「花さそふ」は、花を誘って散らす。「花」は桜、主語は「嵐」で、共に擬人化している。「雪ならで」は、雪ではなくて。落花を雪に見立てている。落花を雪に、または雪を落花に見立てる表現は『古今集』以後、多く見られるようになった。「ふりゆく」は「降りゆく」と「旧りゆく」の掛詞。自らの老いを実感し、散りゆく桜の花を見ながら人の命の儚さを嘆いている。権勢を極め、贅を尽くした公経だからこその生への執着か。
権中納言定家
歌意 >>> いくら待っていても来ない人。松帆の浦の夕なぎに焼く藻塩のように、私の身も恋に焦がれている。
作者 >>>藤原定家(ふじわらのさだいえ:1162~1241年) 鎌倉初期の人。「ていか」ともいう。俊成(83番歌の作者)の子で、御子左(みこひだり)家を継承する。正二位権中納言。『新古今集』『新勅撰集』の撰者。「有心(うしん)」の美を説き、自身の作歌上の理念とした。歌論書『近代秀歌』『詠歌大概』、また日記『明月記』を著した。
説明 >>>『新勅撰集』巻13・恋の部に載る、歌合の題詠と見られる歌。「松帆の浦」は、淡路島の北端の歌枕。「松帆」の「まつ」は、「松」と「待つ」の掛詞。「藻塩」は、海藻から採る塩のことで、天日干しにした海藻を焼いて水にとかし、それを煮詰めて塩を取り出す。2~4句が「こがれ」を導く序詞となっている。「こがれつつ」の「つつ」は継続・反復の接続助詞。訪ねて来ない恋人を、身も焦がれる思いで待ち続ける女の立場になって詠んでおり、『万葉集』巻6-935の笠金村の長歌を本歌としている。
従ニ位家隆
歌意 >>> 風がナラの木にそよいでいる。ならの小川の夕暮れはもう秋の気配だが、川で行われているみそぎの行事は、まだ夏であることを示している。
作者 >>>藤原家隆(ふじわらのいえたか:1158~1237年) 平安末期・鎌倉前期の人。権中納言光隆の子。俊成に歌を学ぶ。後鳥羽院(99番歌の作者)の庇護を受け、院が隠岐へ流された後も交流を持っていた。『新古今集』撰者の一人。晩年には難波に移り住み、「夕陽庵」と名付けた庵をむすんだ。大阪市天王寺区夕陽ケ丘町には、今も家隆の塚が残っている。
説明 >>>『新勅撰集』巻3・夏の部に載る。詞書に「寛喜元年 女御入内の屏風に」とあり、前関白・藤原道家の娘が後堀河天皇のもとに入内した時の、年中行事の屏風歌として詠まれた歌。入内の際には、こうした屏風を調えるのがならわしだった。「なら」は「楢」と「ならの小川」の掛詞。「ならの小川」は上賀茂神社の境内の奥に流れる小川。「みそぎ」は、川の水などで身を清め、穢れを払い落とすこと。「夏のしるし」は、夏である証拠。この歌は、『古今六帖』118「みそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと」と『後拾遺集』夏・231「夏山のならの葉そよぐ夕暮れはことしも秋の心地こそすれ」を踏まえている。
後鳥羽院
歌意 >>>あるときは人をいとおしく思い、またあるときは人を恨めしく思う。この世をつまらないと思うが故に、あれこれ物思いをしてしまう私である。
作者 >>>後鳥羽院(ごとばいん:1180~1239年) 高倉天皇の第4皇子。5歳で即位した翌年に鎌倉幕府が成立。その後19歳で譲位し院政を敷くが、幕府と対立、1221年に起きた承久の乱で隠岐に流され、その地で19年間暮らした後、崩御。好事家で歌会にも熱心だったといい、定家らに『新古今集』の撰集を命じた。家集『後鳥羽院御集』、歌論書『後鳥羽院御口伝』がある。
説明 >>>『続後撰集』雑の部に載る、後鳥羽院33歳の時の詠作。承久の乱のほぼ9年前であり、貴族社会の終焉を嘆き、はたまた鎌倉幕府との関係をすでに憂慮していたか。「人もをし」の「をし」は、愛おしいという意。「あぢきなく」は、つまらなく。ここでの「世」は、為政者にとっての治世の意か。
順徳院
歌意 >>> 宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見ていると、栄えた昔が偲ばれる。しかし、どれほど懐かしく思ったとしても、昔の朝廷の栄華を思い尽くすことはできない。
作者 >>>順徳院(じゅんとくいん: 1197~1242年) 後鳥羽院の子で、土御門天皇の異母弟。父とともに起こした承久の乱により佐渡に流され、その地で20年間暮らした後、崩御。なお、土御門院はこの乱に無関係で、幕府の咎めもなかったが、父と弟が流されたのに自分だけが安閑と暮らすわけにはいかないと、自ら土佐、阿波へ移った。
説明 >>>『続後撰集』雑の部に載る。順徳天皇21歳のときの詠作。宮中の古い建物に生えている忍ぶ草が象徴するのは、皇室の権威の衰退であり、過去の繁栄ぶりとの隔たりが大きすぎて、想像さえおぼつかないといっている。この5年後に承久の乱で鎌倉方に敗れ、佐渡に流された。「ももしき」は内裏・宮中のこと。「軒端」は古くなった皇居の軒の端。「しのぶ」は「偲ぶ」と「忍ぶ草」の掛詞。「忍ぶ草」は、現在ノキシノブといわれている羊歯科の多年生植物で、邸宅が荒廃しているさまの表現としてよく用いられる。ここでは皇室の権威の衰退を象徴しているか。「なほ」は、それでもやはり。
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