方丈記
ゆく河の流れ /安元の大火 / 治承の辻風 / 福原遷都 / 養和の飢饉 / 元暦の大地震 / 処世の不安 / 出家遁世 / 方丈の庵 / 麓に一つの柴の庵あり / 閑居の気味 / 早暁の念仏
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
玉敷(たましき)の都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、賤(いや)しき、人の住まひは、世々(よよ)を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或(ある)いは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。或いは大家(おほいへ)亡びて、小家(こいへ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中(うち)に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡(あわ)にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔(あさがほ)の露(つゆ)に異ならず。或いは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つ事なし。
【現代語訳】
ゆく河の流れは、流れ流れて絶えることがなく、しかも、その水は同じ水ではなく、つねに新しい水が流れている。河の淀みに浮かぶ泡もまた、一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでもとどまっている例はない。世の中に存在する人と、その住みかもまた同じようなものだ。
玉を敷きつめたような美しい都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競いあっている、貴賤さなざまな人の住まいは、時代を経ても変わらずそこに存在し続けているようだが、本当にそうかと調べてみると、昔からずっと変わらずにある家はむしろ稀だ。あるものは去年焼けて今年造ったものであり、またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。中に住む人もこれと同じだ。場所も変らず住む人も多いけれど、昔会った人で今も残っているのは、二、三十人の中にわずかに一人か二人に過ぎない。朝に死ぬ人があるかと思えば、夕方に生まれてくる者があるというこの世のならいは、ちょうど水の泡とよく似ている。
私にはどうもよく分からない、絶えず生まれては死んでいく人は、いったいどこからに来てどこへ去っていくのか。また、所詮は一時の仮の宿に過ぎない家を誰のために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、互いに無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花とその花につく露との関係と変わらない。あるときは露が先に落ちて花が残る場合もある。残ったといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで、露はなお消えないでいる場合もある。消えないといっても夕方を待つことはない。
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予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋(しゅんじう)をおくれる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。
去(いんし)、安元(あんげん)三年四月(うづき)廿八日(にじふはちにち)かとよ。風(かぜ)烈(はげ)しく吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時(とき)ばかり、都の東南(たつみ)より火(ひ)出(い)で来て、西北(いぬゐ)に至る。はてには朱雀門(しゆしやくもん)・大極殿(だいこくでん)・大学寮(だいがくれう)・民部省(みんぶしやう)などまで移りて、一夜のうちに塵灰(ちりはい)となりにき。
火元(ほもと)は、樋口富(ひぐちとみ)の小路(こうぢ)とかや。舞人(まひびと)を宿せる仮屋(かりや)より出で来たりけるとなん。咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇(あふぎ)をひろげたるがごとく末広(すゑひろ)になりぬ。遠き家は煙(けぶり)に咽(むせ)び、近きあたりはひたすら焔(ほのほ)を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれなゐ)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔(ほのほ)、飛ぶが如くして一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現(うつ)し心あらんや。或(ある)いは煙に咽(むせ)びて倒れ伏し、或いは焔(ほのほ)にまぐれて、たちまちに死ぬ。或いは身ひとつ、からうじて逃(のが)るるも、資財を取り出(い)づるに及ばず。七珍万宝(しちちんまんぽう)さながら灰燼(くわいじん)となりにき。その費(つひ)え、いくそばくぞ。そのたび、公卿(くぎやう)の家十六焼けたり。ましてその外(ほか)、数へ知るに及ばず。惣(すべ)て都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女(なんにょ)死ぬるもの数十人、馬牛(うまうし)のたぐひ辺際(へんさい)を知らず。
人の営み、皆(みな)愚かなる中に、さしも危ふき京中の家を造るとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍(はべ)る。
【現代語訳】
私がものの道理を理解できるようになってから今日まで、四十年余の歳月を送ってきた間に、世の中の思いもよらない出来事を見ることが度重なってきた。
思い起こせば、あれは安元三年(1177年)四月二十八日のことであった。風が激しく吹いて一晩中おさまらなかった夜、戌の時(午後八時)ごろに都の東南から火が出て、西北に燃え広がっていった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省にまで燃え移り、一晩のうちにすっかり塵灰になってしまった。
火元は樋口富小路とかいうことだった。舞人を宿泊させた仮小屋から出火したのだという。吹き荒れる風によってあちらこちらに燃え移っていくうちに、火事は扇を広げたように末広がりに燃えていった。火から遠い家は煙にむせび、近いあたりはひたすら炎が地に吹きつけてきた。空に灰が吹き上げられ、それが火の光に照り映えて空一面が真っ赤になっている中を、風の勢いに堪えきれず吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして一町も二町も越えて移っていく。その中にいた人は、生きた心地がなかったに違いない。ある者は煙にむせんで倒れ伏し、ある者は炎に目がくらんでそのまま焼け死んだ。ある者は身一つでやっとのことで逃げたものの、家財道具を取り出すこともできなくて、多くの財宝はすっかり灰になってしまった。その損害はいかほどであったろうか。その時の火事で、公卿の家は十六ほど焼けた。ましてそのほかの家々が焼けた数は、とても数えることができない。何しろ京の都全体の三分の一が焼けてしまったという。男女の死者は数十人、馬や牛のたぐいは際限がない。
人の営みはすべて愚かしく、中でもこんなに危険な京の都の中に家を造るといって、金銀を費やし、あれこれ苦心することは、とりわけ無益な仕業である。
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また、治承(ぢしよう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきやうごく)のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けること侍りき。
三、四町を吹きまくる間に、籠(こも)れる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破(やぶ)れざるはなし。さながら平(ひら)に倒(たふ)れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また、垣(かき)を吹き払ひて隣と一つになせり。いはんや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木(こ)の葉の風に乱るるがごとし。塵(ちり)を煙(けぶり)のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りとよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡(そんまう)せるのみにあらず、これを取り繕(つくろ)ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未(ひつじ)の方(かた)に移りゆきて、多くの人の嘆きをなせり。
辻風は常に吹くものなれど、かかることやある、ただ事にあらず、さるべきもののさとしかなどぞ、疑ひ侍りし。
【現代語訳】
また、治承四年(1180年)四月のころ、中御門京極のあたりから大きなつむじ風が起こり、六条大路のあたりまで吹き抜けたことがあった。
三、四町(300、400m)を吹きまくる間に、巻き込まれた家々は、大きな家も小さな家も一つとして壊れなかったものはなかった。そのまま平らにつぶれている家もあれば、桁や柱だけが残った家もある。門が吹き飛ばされて四、五町も離れた場所に落ちているのもあれば、垣根が吹き払われて隣の家と一つになっているのもある。まして家の中の家財道具はことごとく空に吹き上げられ、檜皮や葺板のたぐいが吹き飛ばされるさまは、冬の木の葉が風に乱れ飛ぶのと変わらなかった。塵が煙のように吹きたてられているため、全く何も見えず、風がものすごく鳴り響くので、人々の話し声も聞こえない。あの地獄に吹く業の風もこれほどひどくはないと思われる。家屋が壊れて失われただけでなく、これを修繕しているときに怪我をして体が不自由になった人は数知れない。この風は、羊(南南西)の方角に進み、多くの人々を嘆かせた。
つむじ風はつねに吹くもので珍しくもないが、かつてこれほどひどいものがあったろうか、ただごとではない、しかるべき神仏のお告げであろうかなどと疑ったことだ。
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(一)
また、治承(ぢしよう)四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外(ほか)なりし事なり。おほかた、この京の初めを聞ける事は、嵯峨(さが)の天皇の御時(おほんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳(しひやくよさい)を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂(うれ)へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。
されど、とかく言ふかひなくて、帝(みかど)より始め奉(たてまつ)りて、大臣・公卿(くぎやう)皆ことごとく移ろひ給ひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残り居(を)らむ。官(つかさ)・位(くらゐ)に思ひをかけ、主君の陰(かげ)を頼むほどの人は、一日なりとも疾(と)く移ろはむと励み、時を失ひ、世に余(あま)されて、期(ご)する所なきものは、愁(うれ)へながら止まり居(を)り。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河(よどかは)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心皆改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りやうしよ)を願ひて、東北の庄園(しやうゑん)を好まず。
【現代語訳】
また、治承四年(1180年)六月のころ、突然遷都が行われた。まことに思いがけないことだった。そもそもこの平安京の起源について聞いているのは、嵯峨天皇の御代に都と定められたのが始まりということで、以来すでに四百年余りも経っている。よほどの理由がなくてはそう簡単に都が改められるはずもないから、このたびの遷都を世の人々が不安に思い、心配しあったのは、全く当然といえば当然だった。
しかしながら、あれこれ言ったところで仕方がなく、天皇(安徳天皇)をはじめ大臣・公卿も皆すべて新都へ移ってしまわれた。そうなると、朝廷に仕え官職にある人は誰が一人この旧都に残ることができようか。官職や位の昇進を望み、主君の恩恵に浴することを期待する人たちは、一日でも早く新都に移ろうと努め、時勢に合わず世の中から取り残されて前途に希望を持たない人たちは、不満を訴えながらも都にとどまった。軒を争うように建ち並んでいた人々の住まいは、日が経つにつれて荒れていく。家は取り壊されて淀河に浮かび、その跡地は畑となった。人々の気持ちはみな変わり、今では武家ふうに馬や鞍ばかりを重んずる。牛や車を用いる人はいない。そして、新都から近い九州や四国の領地を望み、東北の庄園は敬遠された。
(注)嵯峨の天皇の御時・・・長岡京から平安京に遷都したのは桓武天皇であり(794年)、その後の嵯峨天皇の時に、平城上皇が旧都奈良に復都しようとして未遂に終わった(810年)。それ以後平安京が定着したことから、「嵯峨の天皇の御時」と言ったとされる。
(二)
その時、おのづから事の便りありて、津の国の今の京に至れり。所の有様を見るに、その地、ほど狭(せば)くて条理を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、潮風ことに激し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿(まろどの)もかくやと、なかなか様(やう)変はりて、優なるかたも侍り。日々にこぼち、川も狭(せ)に運び下(くだ)す家、いづくに造れるにかあるらむ。なほ空(むな)しき地は多く、造れる屋(や)は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、皆(みな)浮雲(ふうん)の思ひをなせり。もとよりこの所に居(を)るものは、地を失ひて愁(うれ)ふ。今移れる人は、土木(とぼく)のわづらひある事を嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いくわん)・布衣(ほい)なるべきは多く直垂(ひたたれ)を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただ鄙(ひな)びたる武士(もののふ)に異ならず。世の乱るる瑞相(ずいさう)と書きけるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民の愁(うれ)へ、つひに空(むな)しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様(やう)にしも造らず。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世(みよ)には、憐(あは)れみを以(も)ちて国を治め給ふ。すなはち、殿(との)に茅(かや)葺(ふ)きても、その軒(のき)をだに整へず、煙の乏(とも)しきを見給ふ時は、限りある御調物(みつきもの)をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世の有様、昔になぞらへて知りぬべし。
【現代語訳】
その時分、たまたまついでの用事があって摂津の国の新しい都に行った。その場所の有様を見ると、いかにも土地が狭くて条理を区画するには広さが足りない。北は山に沿って高く、南は海に近く下っている。波の音がいつも騒がしく、潮風がことのほか激しい。皇居は山の中にあるので、その昔、天智天皇が「朝倉や木の丸殿にわがおれば」と詠われた木の丸殿もこのようだったかと思われて、かえって風変わりで優雅な趣もある。元の京で毎日のように打ち壊し、川も狭くなるほどに筏(いかだ)を組んで流して運んだ家々は、どこに建て直されているのだろう。まだ空き地が多く、造られた家は少ない。旧都はすでに荒廃しているのに、新都はまだ完成していない。ありとあらゆる人々は、みな浮雲のような心地をしている。以前からこの土地にいる者は、土地を取り上げられて不満を訴えている。新たに移ってきた人は、家の建築や道路の普請などの労苦を嘆いている。路上を見れば、牛車に乗るはずの公卿が武士のように馬に乗り、衣冠や布衣であるはずなのに、多くが直垂を着ている。都の風俗は急速に変わり、ただの田舎武士と異なるところがない。こうした風俗の急変は世の中が乱れる前触れと聞いていたが、まさにそのとおりで、日が経つにつれて世間が騒がしくなり、人心も定まらず、民衆の心配が現実となる事態になり、同じ年の冬に、天皇はやはり京都にお帰りになってしまわれた。しかし、ことごとく壊されてしまった家々はどのようになったのだろうか。すべてが元通りに再建されたわけではなかった。
伝え聞くことは、昔の優れた天子の御代には、天子は愛情を持って国を治められたということだ。宮殿の屋根は茅で葺いても、その茅ぶきの軒端さえ切りそろえることなく、民のかまどから立ち上る煙が少ないのを御覧になると、定められた租税さえ免除なされた。これは、民をお恵みになり、世の中をお救いなさろうとされたからだ。今の世の有様がいかに乱れているか、昔と比べればよく分かる。
(注)木の丸殿・・・丸太で造った宮殿。斉明天皇が新羅遠征に際し、筑前国の朝倉の山中に建てられた御殿を指す。
(注)衣冠・布衣・・・衣冠は公卿が参内するときの服装。布衣は六位以下の着る服装。
(注)いにしへの賢き御世・・・古代の聖天子(中国の尭帝〈ぎょうてい〉と日本の仁徳天皇のこと。
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(一)
また養和(やうわ)のころとか、久しくなりてたしかにも覚えず、二年(ふたとせ)が間(あひだ)、世の中(なか)飢渇(けかつ)して、あさましき事侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春(はる)耕(たがへ)し、夏(なつ)植(う)うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、或いは地を棄(す)てて境(さかひ)を出(い)で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)始まりて、なべてならぬ法(のり)ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源(みなもと)は、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操(みさを)もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物(たからもの)、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見(めみ)立つる人なし。たまたま換(か)ふるものは、金(こがね)を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路(みち)のほとりに多く、愁(うれ)へ悲しむ声耳に満てり。
【現代語訳】
また養和ころ(1181年)だったか、遠い昔になってよく覚えていないが、二年の間、世の中が飢饉となって、驚くほどひどい事態になったことがあった。春・夏に旱魃(かんばつ)が続き、あるいは秋には大風・洪水など悪いことが続いて、穀物はことごとく実らない。かいもなく春に耕し、夏に植える仕事だけあって、秋に稲刈りをし、冬に収穫する賑やかさはなかった。
このため、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を出て放浪し、ある者は家をかえりみず山に住んだりした。社寺ではさまざまな御祈祷が始まり、特別な秘法などが行われるが、全く効果がない。京という都は、そうでなくても何事も田舎に頼っているのに、何も物資が運ばれてこないので体裁をとりつくろっていられない。我慢できず、さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者があっても、金銭の価値を軽くし、穀物の価値を重んじる。乞食は路上に増え、その悲しむ声は耳に充満した。
(二)
前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに跡形(あとかた)なし。世の人皆けいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水(せうすい)の魚(いを)のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着(き)、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごと乞(こ)ひ歩(あり)く。かくわびしれたるものどもの、歩(あり)くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢(う)ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭(くさ)き香(か)世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち有様、目も当てられぬ事多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。あやしき賤(しづ)・山がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏(とも)しくなりゆけば、頼む方(かた)なき人は、自らが家をこぼちて、市(いち)に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたひ)、一日(ひとひ)が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪(たきぎ)の中に、赤き丹(に)着き、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋(たづ)ぬれば、すべき方(かた)なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世(ぢよくあくせ)にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
【現代語訳】
前の年は、こうしてやっとのことで暮れた。翌年は立ち直るだろうかと思っていると、立ち直るどころか、その上に疫病までが重なって、いっそうひどい状況となり、何もかもだめになった。世間の人々は皆飢えきっており、日一日と行き詰まっていく有様は、「少水の魚」のたとえにも等しい。ついには、笠をかぶり、足を脚絆(きゃはん)で包んで、よい身なりをした人までが一途に家々に物乞いをして歩いている。このように困窮した人々は、今ふらふら歩いていたかと見れば、いきなり倒れてしまう。土塀の前や道端には、飢え死にした者らの数が計り知れない。死体を取りかたづける術もなく、死臭があたり一面に充満し、腐って変わっていく顔や姿は、むごたらしくて目も当てられない。まして賀茂の河原などは死体で埋まり、馬や牛車が通れる道さえない。身分の低い農夫や木こりなども力が尽き、薪さえ乏しくなっていき、頼るところがない人は自分の家を壊し、それを市に出して売り始める。それでも一人が持ち出して売った代金は、一日の命をつなぐのにさえ足らないという。けしからんことに、そういう薪の中に赤い丹の塗料がつき、金や銀の箔などが所々にある木がまじっていたので、調べてみると、どうしようもなくなった者が古寺に行き、仏像を盗み、堂の中の仏具を壊して取ってきて、割り砕いて売り出したという。濁りきった末法の世に生まれついたばかりに、このような情けない行いを見てしまった。
(三)
また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。
仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りうげうほふいん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたひ)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数(ひとかず)を知らんとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極(きやうごく)よりは西、朱雀(しゆしやく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へて言はば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。
【現代語訳】
またその時は、たいそう哀れなこともあった。お互いに離れられない夫婦は、その愛情が深い者の方こそが必ず先に死んだ。なぜなら、わが身は二の次にして相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物さえも相手に譲るからだ。だから、親子となると決まって親が先に死んだ。また、母親の命がすでに尽きているのを知らないで、幼児がなおも乳房を吸いながら寝ているという情景もあった。
仁和寺にいた隆暁法院という人は、これほどに数え切れない人が死んでいくのを悲しみ、死体を見るごとに、額に阿字を書いて仏縁を結ばせ成仏できるようになさったという。死者の数を知ろうと、四、五月の二か月の間に数えたところ、都では一条から南、九条から北、京極から西、朱雀からは東の路ばたにあった死体は、全部で四万二千三百余りあったという。ましてや、その前後に死んだ者も多く、また賀茂の河原・白河・西の京、さらに周辺の各地などを加えていけば、際限もなかろう。まして日本全国となると見当もつかない。
(注)阿字・・・阿という文字。梵語(古代インド語)の十二母音の一番目で、一切の言語、文字がこの音をもとに生ずるとされた。
(注)七道諸国・・・畿内以外の東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道の国々。
(四)
崇徳院(すとくゐん)の御位(おほんくらゐ)の時、長承(ちやうしよう)のころとか、かかる例(ためし)ありけりと聞けど、その世の有様は知らず。眼(ま)あたり、めづらかなりしことなり。
【現代語訳】
崇徳院が天皇であられた時代、長承の頃(1132~1135年)にこのような前例があったと聞いているが、当時の有様は知らない。ただ、このたびの飢饉は目の当たりに見た。想像を絶する惨状だった。
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(一)
また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふる事侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地(くがち)をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂(ただよ)ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしよしよ)、堂舎塔廟(だうしやたふめう)、一つとして全(また)からず。或(ある)いはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)立ちのぼりて、盛りなる煙(けぶり)のごとし。地の動き、家の破(やぶ)るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内に居(を)れば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らん。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。
その中に、ある武者(もののふ)のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地(ついひぢ)のおほひの下に、小家(こいへ)を造りて、はかなげなるあどなし事(ごと)をして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形(あとかた)なく、平(ひら)にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出(い)だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりと覚えて、いとほしく、ことわりかなぞと見侍りし。
【現代語訳】
また同じころであったか、すさまじい大地震の起こったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。浜近くを漕ぐ船は波に翻弄され、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れた。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜であったなら雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのはやはり地震だと思った。
そうした中、ある武士に六、七歳ほどの一人息子がいた。その子は、土塀の屋根の下で、小さな家を作り、たわいのない遊びに夢中だったが、地震でにわかに土塀が崩れ、下敷きになって姿が見えなくなった。掘り返したところ、体は瓦礫でぺしゃんこに押しつぶされ、二つの目は一寸ほども飛び出していた。父母はその子の遺骸を抱きかかえ、声を張り上げて泣き悲しんだ。子を失った悲しみには、勇猛な武士でさえ恥も外聞もなくしてしまうのだと実感し、気の毒で、心の底から同情した。
(二)
かく、おびたたしく震(ふ)る事は、しばしにて止(や)みにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(なゐ)、二、三十度、震(ふ)らぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、あるいは四、五度、二、三度、もしは一日(ひとひ)まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波(なごり)、三月(みつき)ばかりや侍りけん。
四大種(しだいしゆ)の中に、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震(おほなゐ)ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度(たび)には如(し)かずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなき事を述べて、いささか心の濁(にご)りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年(とし)経(へ)にし後(のち)は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
【現代語訳】
このように、ひどく大揺れしたのは間もなくやんだが、その余震はしばらく絶えなかった。ふつうでも驚くほどの地震が、二、三十回揺れない日がない。十日、二十日と経つころには、さすがに間隔があき、一日に四、五回、それが二、三回になり、もしくは一日おき、二、三日おきに一回というふうになり、だいたい三ヶ月くらい余震が続いただろうか。
万物を生ずる四大種(地・水・火・風)の中で、水と火と風は常に害をなすものだが、大地の場合はふだんは異変を起こさない。昔、斉衡の頃(854~857年)とかに大地震が起きて、東大寺の大仏のお首が落ちたりして大変だったらしいが、それでもやはり今度の地震には及ばないとか。その直後には、誰もかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか煩悩も薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた今は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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