11世紀初めに紫式部が著した物語で、平安時代の女流文学の代表作。書名は作者が命名したのではなく、『紫式部日記』や『更級日記』などに見える『源氏の物語』が本来の呼び方であったといわれる。一般的に全編54帖(じょう)を3部にわけ、光源氏の栄華への軌跡を第1部、その憂愁の晩年を第2部、次世代の薫や匂宮(におうのみや)の物語を第3部とする。第3部最後の10帖は、宇治を舞台に展開することから「宇治十帖」とよばれる。
400字詰め原稿用紙にすると約2400枚に及ぶ長さがあり、500名近くの人物が登場する。時代も70年余りにわたっており、また800首弱の和歌を含んだ歌物語としてもみることができる。
ただし紫式部が書いた原本は残っておらず、現在伝わる最古の写本も鎌倉時代のものである。また紫式部が執筆したことは間違いないとされるが、作者複数説も古くからあるなど、諸説あって解明されていない点も多い。
全編は、『竹取物語』『宇津保物語』などの伝奇物語、歌物語の『伊勢物語』、『古今集』『後撰集』、あるいは中国渡来の『白氏文集』『史記』などの影響を受けながら、独自の世界を開き、『蜻蛉(かげろう)日記』から生まれた古歌を引用する引歌(ひきうた)の技法も随所に見られ、対話や心内語を駆使して内面を巧みに掘り下げる描写がなされている。現在、漢詩文や浄土教思想からの影響について、多くの研究がなされているが、ほかに民俗学や文化人類学をはじめ隣接した諸分野の成果をとりいれた多角的な研究も盛んである。
『更級日記』の作者・菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が日夜愛読したことが示すように、『源氏物語』は成立直後から人気を博し、のちの物語・絵画・能などにも大きな影響をあたえた。物語では、平安末期の『夜の寝覚』『狭衣(さごろも)物語』や、江戸時代の『好色一代男』(井原西鶴)にもその影響がみられる。絵画では、現存最古の源氏物語絵巻が平安末の作とされ、以後「源氏絵」として様式化された図柄は、調度や服飾などに多く用いられた。また、和歌の規範としての研究から、多くの注釈書が生まれ、なかでも江戸時代の国学者本居宣長が『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』で、「もののあはれ」と評したのは有名。
家柄も身分もそれほど高くなかった一人の更衣(こうい)が、帝に愛され玉のような男子(光源氏)を生むが、周囲に嫉妬されて亡くなった。臣籍に降下した光源氏は、美貌と才能に恵まれ、多くの女性と交渉を持ち、しだいに栄華の道を歩む。光源氏出生を記す巻一「桐壷」から39歳で栄華の頂点に達する巻三十三「藤裏葉(ふじのうらば)」までを第一部、これをさらに紫上(むらさきのうえ)を中心とする物語、玉蔓(たまかずら)中心の物語の甲、乙に分ける考え方もある。
第二部は、光源氏40歳以降の凋落期へ話が進む。理想の女性紫上との水も漏らさぬ間柄も、先帝朱雀院に末娘女三宮(おんなさんのみや)の後事を託されることによって、しだいに亀裂が生じてくる。光源氏の正妻となった女三宮はやがて、前から自分にあこがれていた柏木と通じてしまう。これを知った光源氏は、若いころ自分が父の思い人藤壺と契ったことを思い起こし、罪の報いに身震いする。
光源氏に皮肉な言葉を浴びせられた柏木は病死し、女三宮は男子を出産するが、ほどなく出家してしまう。光源氏は我が子ならぬ子を抱くが、愛情が湧いてこなかった。やがて病気がちだった最愛の紫上も死に、落莫の思いに閉ざされた光源氏は出家の用意をする。以上が巻三十四「若葉上」から巻四十一「幻」までの8帖で、このあと巻名のみ伝えられる「雲隠」の巻で光源氏の死が暗示される。
第三部の巻四十五「橋姫」から最終帖「夢浮橋」はいわゆる「宇治十帖」である。光源氏亡きあと、女三宮の子薫は、仏道と恋愛のいずれにも没頭できない優柔不断な面がある一方、篤実な魂を持つ男として描かれる。「夢浮橋」は「男女の仲」というほどの意であり、さまざまな男女関係を記し、その深さ、重さ、人間存在の深淵にまでたどりつく『源氏物語』の終章にふさわしいタイトルとなっている。