おくの細道
漂泊の思ひ / 草 加 / 室の八島 / 日光参詣 / 那須野 / 黒 羽 / 雲巌寺 / 殺生石・遊行柳 / 白河の関 / 須賀川 / 安 積 / 信夫の里 / 佐藤庄司の旧跡 / 飯 塚 / 笠島・武隈 / 宮城野 / 多賀城 / 末の松山・塩釜の浦 / 塩釜の明神 / 松 島 / 瑞巌寺・石巻 / 平 泉 / 尿前の関 / 尾花沢 / 立石寺 / 最上川 / 羽黒山 / 月山・湯殿 / 酒 田 / 象 潟 / 越後路 / 市振の関 / 越中路 / 金 沢 / 小 松 / 那谷・山中 / 全昌寺 / 天竜寺・永平寺 / 福 井 / 敦 賀 / 種の浜 / 大 垣
(一)
月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘はれて、漂泊(へうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上(かうしやう)の破屋(はをく)に蜘蛛(くも)の古巣(ふるす)を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞(かすみ)の空に、白河(しらかは)の関(せき)越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神(だうそじん)の招きにあひて取るもの手につかず、股引(ももひき)の破れをつづり、笠の緒(を)をつけ替へて、三里に灸(きう)すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方(かた)は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、
草の戸も住み替わる代(よ)ぞ雛(ひな)の家
表(おもて)八句を庵(いほり)の柱に掛け置く。
【現代語訳】
月日は、永遠の旅を続ける旅人であり、行く年来る年もまた同じような旅人である。舟を操る船頭や馬をひく馬子のように、旅をして生涯を送る者は、日々が旅であり、旅を自らのすみかとしている。古人も多く旅の途上で死んでいる。私もいつの年からか、片雲が風に誘われるように漂泊の思いがやまず、須磨・明石の海浜をさまよったりした。ようやく去年の秋に、隅田川のほとりのあばら屋に戻り、くもの巣を払ったりしているうちに年が暮れた。しかし、年が明け、空に霞が立ちこめる頃になると、白河の関(福島県)を越えてみちのくの旅をしたいと願うようになり、そぞろ神がとりついたように私の心を狂わせ、道祖神の招きにあって何も手につかなくなった。すぐに準備にかかり、ももひきの破れをつくろい、笠のひもをつけかえて、足の三里に灸をすえているうちから、早くも松島(宮城県)の月が気にかかってくる。今のすみかは人に譲り、仮住まいとして弟子の杉風の別宅に移る時に、
こんなわびしい草庵でさえ住みかわる時が来た。折からひな祭りのころであり、(私が住んでいたときと違い)ひなを飾った賑やかな家になることだろう。「季語:雛(春)」
と詠んで、(この句を発句にした)表八句を庵の柱に掛けて、新しい住人への挨拶代わりにした。
(注)冒頭文は、李白の『春夜、桃李園に宴するの序』にある「夫れ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり。而して浮生は夢の若し」に倣ったとされる。
(注)そぞろ神・・・浮かれ歩く神という意の芭蕉の造語。
(注)三里・・・膝頭の下の外側のツボ。
(注)杉風・・・芭蕉の門人杉山元雅の俳号。
(注)表八句・・・連句の形式を示す語で、第一紙の表に記した八句。
(二)
弥生(やよひ)も末の七日、あけぼのの空(そら)瓏々(ろうろう)として、月は有明(ありあけ)にて光をさまれるものから、富士の峰(みね)かすかに見えて、上野(うへの)・谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)、またいつかはと心細し。睦(むつ)まじき限りは宵(よひ)よりつどひて、舟に乗りて送る。千住(せんぢゆ)といふ所にて舟を上がれば、前途(せんど)三千里の思ひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそそぐ。
行く春や鳥(とり)啼(な)き魚(うを)の目は涙
これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。
【現代語訳】
三月も末の七日(27日のこと。陽暦5月16日)、夜明けの空はぼんやり霞み、月はまだ空にあるが、光は消えつつあり、遠くに富士の峰がかすかに見える。上野・谷中など、江戸の名所の桜の梢を、再び見るのはいつの日になるだろうかと心細く思う。親しい人々はみな前の晩から集まって、今朝は舟に乗って見送りをしてくれる。千住という所で舟から上がると、これからの遠い旅路を思い、感慨で胸がふさがり、この幻であるはずの巷に離別の涙を流す。
もう春は過ぎ去ろうとしている。その離別を思い、鳥が啼き、魚の目にも涙があふれているようだ。「季語:行く春(春)」
これを旅の句の最初として旅立ったが、名残惜しさにますます足が進まない。人々は道に立ち並んで、私たちの後姿が見えているまではと、見送っているようだった。
(注)有明月・・・夜が明けてもまだ空に残る月。
(注)矢立・・・携帯用の筆記用具。
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今年、元禄(げんろく)二年(ふたとせ)にや、奥羽(あうう)長途(ちやうど)の行脚(あんぎや)、只(ただ)かりそめに思ひ立ちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨みを重ぬといへども、耳に触れて、いまだ目に見ぬ境(さかひ)、若(も)し生きて帰らばと、定めなき頼みの末(すゑ)をかけ、その日やうやう草加(さうか)といふ宿(しゆく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物、先づ苦しむ。ただ身すがらにと出(い)でたち侍(はべ)るを、紙子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打ち捨て難くて、路次(ろし)の煩(わずら)ひとなれるこそわりなけれ。
【現代語訳】
今年はといえば元禄二年(1689年)。奥州への遠路の旅をふと思い立ち、あの呉の国のような遠い地の空の下で、髪が白くなるほどの苦労を重ねるといえども、耳には聞いてもまだ見たことのない土地を見て回り、もし生きて帰れたらと、当てにならないほのかな期待を行く末にかけ、その日ようやく草加(埼玉県)という宿場にたどり着いた。痩せて骨ばった肩にかかる荷物が、まず私を苦しめる。身体一つで身軽な装いで旅立ったつもりだったが、紙子一枚は夜の寒さの防ぎに、また浴衣・雨具・墨・筆など、あるいは断れない餞別などの品々は、さすがに捨てられず、道中の煩いとなったのは仕方がない。
(注)紙子・・・厚手の和紙に柿の渋を何回も塗って乾かしてつくった着物。軽くて保温にすぐれ、防寒着として愛用された。
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室(むろ)の八島(やしま)に詣(けい)す。同行(どうぎやう)の曾良(そら)がいはく、「この神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申して、富士一体なり。無戸室(うつむろ)に入(い)りて焼き給ふ誓ひの御中(みなか)に、火々出見(ほほでみ)の尊(みこと)生まれ給ひしより、室の八島と申す。また煙(けぶり)を詠み習はし侍(はべ)るも、この謂(いは)れなり。はた、このしろといふ魚を禁ず。縁起(えんぎ)の旨(むね)、世に伝ふ事も侍りし」。
【現代語訳】
室の八島明神(大神神社:栃木県)に参詣した。同行の曾良が言うには、「ここの祭神は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の神と申し、富士山麓の浅間(せんげん)神社の神と同じです。姫が塗りごめの室にお入りになって火を放って誓いを立て、その中で彦火火出見(ひこほほでみ)の尊がお生まれになったので、ここを室の八島と申します。また、ここで煙にちなんだ歌を詠む習わしになっていますのも、この言い伝えからです。またこの地では、このしろという魚を食べるのを禁じています。こうした八島神社の由来が世に伝わっているようでございます」。
(注)曾良・・・芭蕉の5歳年下の弟子。俳諧のほか神道や地理学に精通していた。
(注)焼き給ふ誓ひ・・・木花開耶姫が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の后になられたとき、一夜で懐妊したのを疑われ、もし尊の御子でないなら焼け失せるであろうと身の潔白を誓い、出口のない室に入り、火をつけられた。その最中に彦火火出見の尊が生れたとの故事。
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三十日(みそか)、日光山(につくわうさん)の麓(ふもと)に泊まる。あるじの言ひけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござゑもん)といふ。万(よろづ)正直を旨とするゆゑに、人かくは申し侍るまま、一夜(いちや)の草の枕(まくら)も打ち解けて休み給へ」と言ふ。いかなる仏(ほとけ)の濁世塵土(ぢよくせぢんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(さうもん)の乞食巡礼(こつじきじゅんれい)ごときの人を助け給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめて見るに、ただ無智無分別(むちむふんべつ)にして正直偏固(しようぢきへんこ)の者なり。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質(せいしつ)、もつとも尊ぶべし。
卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)、この御山を「二荒山(ふたらさん)」と書きしを、空海大師(くうかいだいし)開基(かいき)の時、「日光(につくわう)」と改め給ふ。千歳(せんざい)未来を悟(さと)り給ふにや、今この御光(みひかり)一天(いつてん)にかかやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵(しみんあんど)の栖(すみか)穏(おだや)かなり。なほ憚(はばか)り多くて、筆をさし置きぬ。
あらたふと青葉若葉(あおばわかば)の日の光
黒髪山(くろかみやま)は、霞(かすみ)かかりて、雪いまだ白し。
剃(そ)り捨てて黒髪山に衣更(ころもがへ) 曾良(そら)
曾良は、河合氏(かはひうぢ)にして、惣五郎(そうごろう)といへり。芭蕉の下葉(したば)に軒を並べて、予(よ)が薪水(しんすい)の労を助(たす)く。このたび、松島・象潟(きさかた)の眺め共にせんことを悦(よろこ)び、かつは覊旅(きりよ)の難(なん)をいたはらんと、旅立つ暁(あかつき)、髪を剃(そ)りて、墨染(すみぞめ)にさまを変へ、惣五を改めて宗悟(そうご)とす。よつて黒髪山の句あり。「衣更」の二字、力ありて聞こゆ。
二十余丁(にじふよちやう)山を登つて、滝あり。岩洞(がんどう)の頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見(うらみ)の滝と申し伝へ侍るなり。
暫時(しばらく)は滝に籠(こも)るや夏(げ)の初め
【現代語訳】
(三月)三十日、日光山(栃木県)の麓に泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門と申します。何事も正直を旨としていますので、人はそう呼んでいます。ですから、旅の一夜をどうか安心してお休みください」と言う。いったいどのような仏がこの濁り穢れた世に現れて、こんな僧形の乞食巡礼のような者をお助けくださるのだろうかと、主人の言動を注意して観察していると、ただの無智無分別で、正直一途というだけの者である。論語にある「剛毅朴訥は仁に近し」といったたぐいで、このような生まれつきの清らかな性質は、もっとも尊ぶべきことである。
四月一日、日光山に参詣する。昔はこの御山を「二荒山」と書いていたが、空海大師(真言宗の開祖)がここに寺を創建された時、日光と改めなさった。千年も先の繁栄をお分かりになっていたのだろうか。今やこの日光東照宮の威光は天下に輝き、その恩恵は国の八方に満ちあふれ、四民はみな安楽に過ごしている。これ以上書くのは恐れ多いので、筆をもてあそぶのは控える。
ああ、尊いものだ、権現様のまします日光の御山の青葉若葉にさんさんと輝く初夏の日の光は。「季語:青葉若葉(春)」
黒髪山(男体山のこと)には霞がかかっているものの、雪がまだ白く残っている。
髪を剃り捨てて黒染めの衣に着替えて江戸を立ったが、この黒髪山で衣更えの日を迎えたことだ。「季語:衣更(夏)」 曾良(の句)
曾良は河合氏の出で、名を惣五郎といった。芭蕉庵の近くに住居を構え、私の家事を助けてくれていた。このたび、松島や象潟の風景を私と一緒に見ることを喜び、また私の旅の難儀を助けようと、旅立つ日の明け方、髪を剃って黒染めの僧衣に姿をかえ、名も宗悟と改めた。そうして、この黒髪山の句を詠んだわけである。「衣更」の二文字が、とくに力強く感じられる。
二十余町(200m)ほど山を登っていくと、滝がある。岩の洞の頂上から飛ぶように流れ落ちること百尺(30m)、多くの岩に囲まれた青い滝つぼに落ち込んでいく。岩の下に身をかがめて入り込み、滝の裏側から見ることができるので、裏見の滝と言い伝わっている。
しばらく滝の岩窟にこもっていると、あたかも夏籠りの修行の始まりのように清々しい気持ちになってくることだ。「季語:夏(夏)」
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那須(なす)の黒羽(くろばね)といふ所に知る人あれば、是(これ)より野越えにかかりて、直道(すぐみち)を行かんとす。遥(はる)かに一村(いつそん)を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明くればまた野中(のなか)を行く。そこに野飼(のが)ひの馬あり。草刈る男(をのこ)に嘆き寄れば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情知らぬにはあらず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横(じゆうわう)に分かれて、うひうひしき旅人の道(みち)踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、貸し侍りぬ。小さき者ふたり、馬の跡(あと)慕(した)ひて走る。一人は小姫(こひめ)にて、名を「かさね」といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名なるべし 曾良
やがて人里に至れば、値(あたひ)を鞍壺(くらつぼ)に結びつけて馬を返しぬ。
【現代語訳】
那須(栃木県)の黒羽という所に知人があるので、これから那須野を横断して、まっすぐ近道を行くことにする。はるか遠くに一つの村を見つけて、それを目当てに進むうちに、雨が降り出し、日も暮れてしまった。農家に一夜の宿を借り、夜が明けて再び野中を歩いていく。するとそこに、放し飼いにしている馬がいた。草刈りをしている男に近寄って道案内を頼むと、いなかの百姓とはいえ、さすがに情けを知らないではない。「どうしたものか。道案内はできないし、そうかといって、この野は道が縦横に分かれているので、不慣れな旅人は道を間違えるでしょう。心配だから、この馬に乗っていき、馬が止まったところで馬を離して返してください」と言って、馬を貸してくれた。小さな子どもが二人、馬のあとをついて走ってくる。その一人は小さな娘で、名を聞けば「かさね」という。聞きなれない名が優美に感じられ、曾良が、
「かさね」というのは、花ならさしずめ、乙女のような八重撫子の名だろう。「季語:撫子(夏)」 曾良(の句)
と詠んだ。やがて人里に着いたので、馬を借りた代金を鞍壺に結びつけて、馬を返した。
(注)撫子・・・秋の七草の一つ。「撫でし子」の意を掛け、古語では愛する子という意味がある。
(注)鞍壺・・・馬の背の鞍を付けるくぼんだ部分。
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黒羽(くろばね)の館代(くわんだい)浄法寺(じやうばうじ)何某(なにがし)の方(かた)に音信(おとづ)る。思ひかけぬ主(あるじ)の悦(よろこ)び、日夜(にちや)語り続けて、その弟(おとうと)桃翠(たうすゐ)などいふが、朝夕(てうせき)勤め訪(とぶら)ひ、自らの家にも伴ひて、親族の方(かた)にも招かれ、日を経(ふ)るままに、一日(ひとひ)郊外に逍遥(せうえう)して犬追物(いぬおふもの)の跡を一見(いつけん)し、那須(なす)の篠原(しのはら)を分けて、玉藻(たまも)の前の古墳(こふん)を訪(と)ふ。それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(まう)づ。与市(よいち)扇(あふぎ)の的を射(い)し時、「別してはわが国の氏神(うぢがみ)正八幡(しやうはちまん)」と誓ひしも、この神社にて侍(はべ)ると聞けば、感応(かんのう)殊(こと)にしきりに覚えらる。暮るれば桃翠(たうすゐ)宅に帰る。
修験(しゆげん)光明寺(くわうみやうじ)といふあり。そこに招かれて行者堂(ぎやうじやだう)を拝す。
夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)かな
【現代語訳】
黒羽の城代家老である浄法寺なにがしの家を訪れた。思いがけない訪問に、主人は大いに喜び、日夜語り続け、その弟の翠桃という人が、朝夕まめまめしくやって来ては、自分の家に連れて行ってくれたり、親戚の所にも招かれたりして、何日か過ごしているうち、ある日、郊外を散策して、かつて犬追物が行われた跡を一通り見物し、歌枕で有名な那須の篠原を踏み分けて、玉藻の前の古墳を訪ねた。そこから八幡宮に参詣した。那須与一が扇の的を射た時、「とくに、わが郷土の氏神の正八幡」と祈ったのもこの神社だったと聞き、そのご加護のありがたさが、ひとしお感じられた。日が暮れたので、翠桃の家に帰った。
修験道の光明寺というのがある。そこに招かれ、行者堂を参拝した。
夏山を仰いでいると、これから越える奥州の山々を思い、役(えん)の行者の健脚にあやかりたいと、高足駄を拝む出発であることよ。「季語:夏山(夏)」
(注)浄法寺何某・・・黒羽城の家老、浄法寺図書高勝(ずしょたかかつ)。俳諧をたしなみ桃雪(とうせつ)と号した。
(注)桃翠・・・「翠桃」を誤記したもの。
(注)犬追物・・・馬に乗って犬を騎射する競技。
(注)足駄・・・一本歯の高足駄。行者堂にある「役の行者」の像が履いている。
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当国(たうごく)雲巌寺(うんがんじ)の奥に仏頂和尚(ぶつちやうおしやう)山居(さんきよ)の跡あり。
「竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)結ぶもくやし雨なかりせば、と松の炭(すみ)して岩に書きつけ侍り」と、いつぞや聞こえ給ふ。その跡(あと)見んと、雲巌寺に杖を曳(ひ)けば、人々進んで共にいざなひ、若き人多く道の程うち騒(さわ)ぎて、覚えずかの麓(ふもと)に到る。山は奥ある気色(けしき)にて、谷道(たにみち)遥かに松杉(まつすぎ)黒く、苔(こけ)したたりて、卯月(うづき)の天(てん)今なほ寒し。十景(じつけい)尽くる所、橋を渡つて山門に入る。
さて、かの跡はいづくの程にやと、後(うしろ)の山によぢ登れば、石上(せきじやう)の小庵(せうあん)、岩窟(がんくつ)に結びかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関(しくわん)、法霊法師(ほううんほうし)の石室を見るが如し。
啄木(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち)
と、取りあへぬ一句を柱に残し侍りし。
【現代語訳】
この国(下野国:栃木県)の雲巌寺(臨済宗)の奥に、禅の師である仏頂和尚が山ごもりした跡がある。
いつぞや和尚が私に、「『縦横が五尺にも足らない粗末な庵に住んでいるのも悔しいことだ。雨さえ降らなければ庵などいらないのだが』と、松明の炭で岩に書きつけました」とおっしゃったことがある。その跡を見ようと杖をついて雲巌寺に向かうと、周りの人々も自然に誘い合い、若い人も多く、道中にぎやかに行くうちに、いつの間にか山寺の麓に着いた。山は奥深い様子で、谷沿いの道が遥かに続き、松や杉がうっそうと茂り、苔には水がしたたり落ち、四月というのに今なお寒々としている。境内の十景が終わる所で、橋を渡って山門に入った。
さて、仏頂和尚のあの山ごもりの跡はどの辺であろうかと、寺の裏山によじ登ると、石の上に小さな庵が岩窟に寄せて作ってある。話に聞いた古い中国の高僧、妙禅師の死関や法霊法師の石室を見ているような気がする。
夏木立の中で啄木が木をつつく音がする。でもさすがにこの庵だけは食い破らなかったようだ。「季語:夏木立(夏)」
と、とりあえず作った一句をその庵の柱に残しておいた。
(注)雲巌寺・・・1283年に執権北条時宗が建立した禅寺。
(注)仏頂和尚・・・鹿島根本寺21世住職で、芭蕉の禅の師。芭蕉の4歳年上。
(注)妙禅師・・・南宋の禅僧。天目山の洞窟「死関」で15年間座禅したという。
(注)法雲法師・・・梁または宋の高僧。
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これより殺生石(せつしやうせき)に行く。館代(くわんだい)より馬にて送らる。この口付きの男(をのこ)、「短冊(たんざく)得させよ」と乞(こ)ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、
野を横に馬ひきむけよほととぎす
殺生石は温泉(いでゆ)の出(い)づる山陰(やまかげ)にあり。石の毒気(どくき)いまだ滅(ほろ)びず、蜂(はち)・蝶(てふ)のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほど重なり死す。また、清水(しみづ)流るるの柳(やなぎ)は、蘆野(あしの)の里に有りて、田の畔(くろ)に残る。この所の群守(ぐんしゆ)戸部(こほう)某(なにがし)の「この柳見せばや」など、折々にのたまひ聞え給ふを、いづくの程にやと思ひしを、今日(けふ)この柳の陰(かげ)にこそ立ち寄り侍りつれ。
田一枚植て立ち去る柳かな
【現代語訳】
ここから、殺生石に行く。領主の館の留守居役に馬で送ってもらう。この馬の手綱を引く男が、「短冊をいただきたい」と頼んでくる。馬子でありながら風雅なことを望むものだと感心し、次の句を書いて与える。
那須野を馬で行くと、進む道の横にほととぎすの鳴く声がする。ほれ、そちらの方へ馬の鼻を向けてくれ、馬子よ。「季語:ほととぎす(夏)」
殺生石は、那須温泉が湧き出る山かげにある。石の毒気は今も消えることなく、蜂や蝶などが、砂の色が見えないほどに重なり合って死んでいる。また、「清水流るる」と西行法師が詠んだ有名な柳は、蘆野の里にあって、田のあぜ道に残っている。ここの領主の戸部某という者が、「この柳を見せたいものだ」と折々に言ってくださっていたので、どの辺であろうかとずっと気になっていたが、今日その柳の陰に立ち寄ることができた。
西行法師ゆかりの柳の下に座り込んでしばらく感慨にふけっていると、早乙女たちが田一枚を植えてしまった。さあ、私も柳の下から立ち去ろう。「季語:田植ゑ(夏)」
(注)殺生石・・・美女に化けた妖狐(ようこ)が射殺され石になったという伝説の溶岩石。周囲から有毒ガスを噴出し、近づくものを殺したという。
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心もとなき日数(ひかず)重なるままに、白河(しらかは)の関にかかりて旅心(たびごころ)定まりぬ。「いかで都へ」と便り求めしも理(ことわり)なり。中にもこの関は三関(さんくわん)の一にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉(もみぢ)を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずゑ)なほあはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨(いばら)の花の咲き添ひて、雪にも越ゆる心地ぞする。古人(こじん)冠(かんむり)を正し衣装を改めし事など、清輔(きよすけ)の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良
【現代語訳】
何となく不安な日を重ねて旅するうちに、いよいよ白河の関にさしかかり、覚悟の気持ちも定まってきた。昔、平兼盛が、「何とかして都へ(この感慨を伝えたい)」と方策を求めたのももっともだ。数ある歌枕の中でも、この白河の関は三関の一つと言われ、多くの風流人が心をとどめている。能因法師の歌にある「秋風」の音を耳にとどめ、頼政が詠じた「紅葉」を心に思い浮かべると、目の前の青葉の梢もいっそう趣深く感じられる。卯の花が真っ白に咲いているところへ、いばらの花が咲き添って、雪の原を越えているような心地になる。古人がここで冠を正し、衣装を改めて通ったことが、清輔の著書にも書きとめられたとか。
道端の卯の花を髪飾りとして、晴れ着のつもりで白河の関を越えよう。「季語:卯の花(夏)」 曾良(の句)
(注)「いかで都へ」・・・平兼盛という歌人が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」の歌。
(注)三関・・・奥羽の三関のこと。磐城の白河、常陸の勿来、羽前の念珠の三つの関所。
(注)能因法師・・・平安時代の僧侶・歌人。三十六歌仙の一人。
(注)藤原清輔・・・平安時代の歌人・歌学者。歌学の六条家を継いで、学風を大成した。
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とかくして越え行くままに、阿武隈川(あふくまがは)を渡る。左に会津根(あひづね)高く、右に岩城(いはき)・相馬(さうま)・三春(みはる)の庄、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地をさかひて山つらなる。影沼(かげぬま)といふ所を行くに、今日(けふ)は空曇りて物影(ものかげ)映らず。
須賀川(すかがは)の駅に等窮(とうきゆう)といふ者を尋ねて、四五日とどめらる。先づ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途(ちやうど)の苦しみ、身心疲れ、かつは風景に魂(たましひ)奪はれ、懐旧(くわいきう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の初めや奥の田植ゑ歌
無下(むげ)に越えんもさすがに」と語れば、脇・第三と続けて、三巻(みまき)となしぬ。
この宿(しゆく)の傍(かたはら)に、大きなる栗(くり)の木陰(こかげ)を頼みて、世をいとふ僧あり。橡(とち)拾(ひろ)ふ太山(みやま)もかくやとしづかに覚えられて、ものに書きつけ侍る。その詞(ことば)、
栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土(さいはうじゃうど)に便りありと、行基菩薩(ぎやうぎぼさつ)の一生杖にも柱にもこの木を用ひ給ふとかや。
世の人の見つけぬ花や軒(のき)の栗
【現代語訳】
そうこうして白河の関を越えていくうちに、阿武隈川を渡る。左手に会津根(磐梯山)が高くそびえ、右手には岩城庄・相馬庄・三春庄があり、この国と常陸(茨城県)・下野(栃木県)との国境として山々が連なっている。影沼(福島県)という所を通っていったが、今日は空が雲っていて、蜃気楼は見えなかった。
須賀川の宿駅で等窮という者を訪ね、四五日とどまることとなった。等窮は、まずは「白河の関をどのように越えられましたか」と聞いてきた。私は、「長い道中の苦労で、身も心も疲れ、そのうえ、辺りの景色にすっかり心を奪われ、古人の風雅をしのぶ気持ちに堪えがたく、思うような句を案ずることができませんでした。それでも、
白河の関を越えたところで鄙(ひな)びた田植え歌を聞いた。これがみちのくを旅する最初の風流であったことよ。「季語:田植ゑ歌(夏)」
と。一句も詠まずに越えるのは、やはり心残りでしたから」と語ると、すぐにこの句を発句として、第二句、第三句と続け、たちまち三巻の連句としてしまった。
この須賀川の宿場のはずれに、大きな栗の木陰をたよりにして、俗世から離れて暮らしている僧がいた。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山(みやま)もこんなふうであったかと、その閑寂さがしみじみ思われて、紙に書きつけた。そのことばは、
栗という文字は、西の木と書き、西方浄土に縁があるとして、行基菩薩が一生、杖にも柱にもこの木を使われたそうだ。
この庵の軒近くに栗の花が咲いている。しかし、あまりに地味なので、世間の人の目にはつかない。この庵の僧も同じようであり、まことに奥ゆかしいことだ。「季語:栗の花(夏)」
(注)等窮・・・芭蕉の先輩で、芭蕉の6歳年上。
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等窮(とうきゆう)が宅を出て五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿(しゆく)を離れて浅香山(あさかやま)あり。道より近し。このあたり沼(ぬま)多し。かつみ刈(か)るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、「かつみかつみ」と尋ね歩(あり)きて、日は山の端(は)にかかりぬ。二本松より右に切れて、黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見(いつけん)し、福島に宿る。
【現代語訳】
等窮の家を出て五里ばかり行き、檜肌の宿を離れたところに安積山がある。街道からも近い。この辺りには沼が多い。今は、かつみを刈る季節も近いので、どの草を花がつみというのかと人々に尋ねてみたが、いっこうに知っている人がいない。沼のほとりまで行って人に問い、「かつみ、かつみ」と探し歩いているうちに、日が山際にかかった。かつみ探しはあきらめ、二本松から右に折れて、黒塚の岩屋を一見して、福島に宿をとった。
(注)かつみ・・・かつみの花は、まこも、あやめ、蘆(あし)の花と諸説あり不詳。芭蕉が「かつみ」を熱心に探したのは、平安時代に奥州に流された藤原実方(ふじわらのさねかた)が、五月の端午の節句を祝うにも菖蒲(しょうぶ)がないので、この地の「かつみ」を代用したという話を思い出している。
(注)黒塚の岩屋・・・鬼女が住んでいたという伝説のある岩窟。
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
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