万葉集
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『万葉集』が、いつ誰によって編集されたか正確には分かっていません。序文も跋文もなく、同時代のほかの文献にも『万葉集』について書かれたものがないからです。
作歌年月が明記されている歌で最も新しいのは、天平宝字3年(759年)正月一日の大伴家持の作です。したがって、今の形の『万葉集』が759年以降に成立したのは間違いありません。それでは、それ以後のいつであるかとなると、平安時代初期まで下る説もあってはっきりしません。だいたい奈良時代の末と見る説が有力となっています。
編者についても、橘諸兄とする説、大伴家持とする説、橘諸兄と大伴家持であるとする説があります。『万葉集』は全20巻からなっていますが、巻々によって編集様式がさまざまであることから、一人の手で集中統一的に編集されたとは考えられません。しかし、巻第17から巻第20までが家持の歌日記のような形になっていることや、巻第16までにも家持の父・旅人やその周辺の人々の歌が多いことから、最後にまとめあげたのが家持だとするのが有力です。
「万葉」の意味については、「万(よろず)の言(こと)の葉」(多くの歌)とするものと、「万代・万世」(多くの時代にわたる)とするものの二説に大別されます。しかし、「葉」を「言葉」の「葉」の意味に用いるようになったのは平安中期以後であるのに対し、「葉」を「代」「世」の意味に用いた例は、上代の文献にしばしば見られ、また中国の用例にもあるため、今では後者の説が定着しています。
『万葉集』の時代は130年もの長きにわたり、しかも激動の時代であって、多様な歌が生まれました。収録歌数は4500余首にも及び、歌の作者も、天皇・皇后から貴族・下級官吏・農民や乞食人・遊芸人にもわたり、さらに防人の歌もあるところから、まさに「国民歌集」であり、その幅広さが万葉の歌をより多彩にし、その後の歌集に見られない多様性と混沌とした力を有しているとされてきました。歌風は、概して初期は古朴・雄勁、後期は優美・繊細に傾き、また作者の個性によっても違いはあるものの、この「万葉調」を、賀茂真淵が、『古今集』以後の「たをやめぶり」に対し「ますらをぶり」として称揚したことがよく引き合いに出されます。
しかしながら、こうした捉え方には現代の研究者は否定的であり、むしろ、神のふるまいである「遊び」を体現しようとする宮廷貴族の美意識の、「みやび」を中心に表現しようとした歌集であるとの捉え方が一般的になっています。また、『万葉集』の歌には、東歌(あずまうた)と防人歌を除けば、方言や俗語を含む歌がほとんどなく、形も整っているところから、貴族と役人およびその周辺の人々、いわゆる都人を中心に詠まれたことが窺えます。庶民の歌はほぼありません。また、天皇代ごとに歌を区分する編年式配列が用いられていることから、『万葉集』の原形は、歌による宮廷史であったとする見方もあります。
東歌や防人歌が、地方の歌、庶民の歌として選ばれ、類を見ない歌群となってはいるものの、東歌については、その作者は農民といっても主に豪族層とされ、また、すべての歌が完全な短歌形式であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられるなど、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。また、東歌を集めた巻第14があえて独立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すためだったとされます。防人歌については、防人制度の円滑な運用に向けた参考資料とするため、防人たちの心情を伝える記録として収集されたようですが、こちらも東歌と同様の理由で、役人の手が加わった可能性が高いと見られています。
表記は、漢字の音と訓を表音的に用いた、いわゆる万葉仮名でなされています。万葉仮名は、日本が固有の文字を持たなかったために、中国から渡来した漢字を日本語の表記に応用したもので、この表記法によっています。そのため、平安時代にはすでに読解がむずかしくなり、久しく忘れられていましたが、和歌の復興とともに、勅撰集と考えられて尊ばれるようになりました。
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万葉集は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。
第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代です。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。
第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代です。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。
第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代です。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。
第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年までです。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代です。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといってよいでしょう。おもな歌人として、家持のほか、大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。
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○天智天皇
第38代とされる天皇(626~671年)で、在位は661~71年(正式即位は668年)。父は舒明天皇で、母は皇極天皇。大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)の同母兄で、大友皇子の父。本名は葛城皇子といい、大兄の号をあたえられて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とも称しました。しかし、そのために古人大兄皇子を推す蘇我入鹿と対立します。また唐の強大化や緊張する朝鮮半島の情勢を見て、日本の将来に不安を抱いていました。
645年に中臣鎌足らとともに乙巳(いっし)の変を起こし、蘇我入鹿をたおして権力を奪います。そして天皇親政をめざす新政府を樹立。自らは皇太子にとどまり、孝徳天皇を擁立して実権をにぎりました。翌年に「大化の改新の詔」を出し、天皇中心の中央集権国家への転換を表明、公地公民制・班田収授制・新税制・新行政区画の採用などをうちだします。中国の官制を手本に中央官僚機構を整備し、冠位制の適用範囲の拡大などにつとめ、また670年には庚午年籍という全国規模の戸籍をつくるなど、在位期間にかなりの成果をあげました。
しかし、外交面ではつまずきます。唐の朝鮮半島への侵攻は予想以上に迅速で、660年にかねて同盟関係にあった百済が滅亡。このため当時日本にいた王子・豊璋をたてて唐・新羅連合軍に戦いをいどんだものの、663年の白村江の戦で大敗、百済再興ははたせませんでした。
天智天皇は唐軍の報復にそなえ、北九州に防人を置き、大宰府に水城(みずき)、また西日本に烽(とぶひ)を置いて臨戦態勢に入りました。しかし豪族たちが改新政策を受け入れてきたのは、朝鮮半島での勝利が前提でした。それが失敗したことで豪族の不満は強まり、天智天皇は翌664年に私有民の一部復活を認めて懐柔をはかる一方、667年には近江大津宮に遷都して圧力をしのぎます。
晩年には、実力者だった弟の大海人皇子を後継候補からはずし、子の大友皇子を事実上指名したことで、壬申の乱の原因をつくってしまいました。
○額田王(ぬかだのおおきみ)
万葉初期の代表的な女流歌人というか、万葉集最大のヒロインといってよい額田王は、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、額田女王とも書きます。生没年は不詳。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えました。
作品はおもに斉明・天智朝の公的な場面におけるもので、天皇の代理として、あるいは群臣の代弁者として歌を詠む専門的な宮廷歌人の最初といえます。
巻一には、西征する軍団の出航時の歌「熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまは漕ぎ出でな」がありますが、これは老齢の斉明天皇に代わって詠んだ歌とされます。巻ニの春秋優劣歌などの対句表現には中国文学の影響をみることができ、中国文学の教養をもつ女帝治世下の宮廷歌人として重要な位置を占めています。
天智・天武天皇との三角関係をしめすとされた巻一の「あかねさす」以下の贈答歌は、たいへん意味深長です。前の夫(大海人皇子)の人目をはばからない求愛の行為に対し、口ではそれをたしなめながらも、心ではひそかに思い慕っている心情を吐露、いっぽう大海人皇子の返歌は、自分の思いを豪放率直に表出しています。この時、大海人皇子は40歳くらい、額田王は35歳くらいで、当時としてはもうかなりの年配であり、宴席での戯れの歌とする説が有力です。
しかしながら、この贈答には単なる戯れでは片づけられない心の葛藤が感じられます。それはその後の壬申の乱に至る歴史を見るとき、より強く思われてなりません。
○天武天皇
第40代とされる天皇(622~686年)で、在位は673~686年。父は舒明天皇で、母は皇極天皇。中大兄皇子(なかのおおえのおおうじ・天智天皇)の同母弟で、持統天皇の夫。草壁皇子の父。本名は大海人皇子(おおあまのおうじ)。大化の改新のときはまだ年少でしたが、成長するとともに兄の中大兄皇子をたすけ、中央集権的な国づくりに協力しました。
唐の侵攻によって朝鮮半島が緊迫し、663年には百済(くだら)救援のため軍を派遣しましたが、白村江で大敗。その責任が問われるとともに、国内で進められる中央集権化政策にも批判が高まります。大海人皇子はこうした中、664年に冠位二十六階制定や大氏・小氏の格づけ作業など、内政改革の推進に手腕を発揮します。彼の有能ぶりに、皇位継承を支持する勢力も生まれてきました。
天智天皇も大海人皇子を皇太子に立てていましたが、671年に自身の息子である大友皇子を太政大臣につけて、後継とする意思を見せ始めます。その後、天皇は病に臥せ、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮に下ります。天皇は大海人皇子の申し出を受け入れ、672年に死去。すると、近江朝廷が美濃・尾張で兵を集めているとの情報が入り、身の危険を感じた大海人皇子は翌672年に壬申の乱を起こし、数万の大軍で近江大津宮を攻囲。約1カ月の戦いの末、弘文天皇として即位していた大友皇子をたおし、翌年、自らが即位して天武天皇になりました。
この争乱により、それまで政府の中枢にあった保守的な中央豪族が処分され、没落しました。その一方、勝利した天武天皇の権威・権限は拡大。この力の差を背景に、天武朝は改新以来もとめられてきた天皇制的な律令にもとづく中央集権国家へと、一気に国家体制を転換させました。地方行政区画の整備、班田収授のための造籍・測地などは、この時期おおいに進みます。
675年に、諸豪族の私有民だった部曲(かきべ)を廃止、林野などを再没収し公地公民制を徹底。684年に八色の姓の制定し朝廷の身分秩序を確立、律令位階制導入の下準備を行いました。また、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮を都城として拡充、国史編纂・飛鳥浄御原令編集などにも着手。天皇や日本の称号もこの時期に成立したといわれます。686年に没後は、皇后(持統天皇)が夫の偉業を継承し発展させるため精力的に国家の建設に取り組みました。夫妻の遺骸は、奈良県明日香村の檜隈(ひのくま)大内陵に埋葬されています。
○柿本人麻呂
生没年不詳。天智天皇から文武天皇のころの歌人。彼の事跡は『万葉集』でのみ確認されます。盛んに歌が詠まれたのは、持統・文武期の10年間と推測されます。『万葉集』巻ニにおける臨終の歌の位置や、奈良時代の作品が見当たらないことから、奈良遷都以前に没したと思われます。身分は歌を詠むことで仕える宮廷歌人でしたが、はじめ舎人として出仕し、後に四国・中国・九州などの地方官ともなっており、六位以下の下級官人だったようです。
宮廷儀礼歌には、行幸を言祝う歌や、皇子・皇女の死を悼む挽歌などがあり、人生の生別・死別を詠んだ抒情あふれる作品を残しています。彼はまた、それまでのものより長大な長歌作品をつくり、5・7の定型を確立するとともに、長歌末尾を5・7・7に統一しました。長歌に添えた反歌も複数の短歌によるものが多く、長歌の内容をふくらませる構成になっています。枕詞・序詞・対句などを豊富に用いることも特徴の一つで、中国文学や外来文化を吸収しつつ、華麗な修辞を発展させています。集団の表現から個の表現へ、口誦から記載へと歌のありかたの変わる時期に活躍した重要な歌人でした。
『万葉集』には人麻呂作の長歌約20首、短歌60首あまりが載っています。また、『人麻呂歌集』の歌が360首あまりありますが、これらの全てが彼の自作ではありません。
死後はすでに『万葉集』の中で伝説化されており、『古今集』の序では歌仙(うたのひじり)として神格化されています。平安末期以降には人麻呂を祀る行事「人丸影供(えいぐ)」が当時の歌人たちによって催されました。作品が人麻呂のものとされた歌も多く、よく知られた『小倉百人一首』の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」は、『万葉集』巻十一の作者未詳の歌です。
○持統天皇
第41代とされる女性天皇(645~702年)で、在位は686~697年(正式即位は690年)。天智天皇の皇女。657年に、叔父の大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)と結婚しました。671年に夫が皇位継承への不満をいだいて吉野に隠棲すると行動を共にし、翌年の壬申の乱のときにも妃の中でただ一人、美濃への危険な逃避行に従いました。673年に皇后となり、「天皇を佐(たす)けて天下を定め、・・・・・・言政事に及び、毘(たす)け補う所多し」(『日本書紀』)とあるように、以後の国政をたすけます。
686年に天武天皇が亡くなると、子の草壁皇子への皇位継承をのぞみ、大津皇子の変などで、その政敵をしりぞけました。しかし、草壁皇子が若くして没したため、遺児の軽皇子(かるのみこ・後の文武天皇)への皇位継承をはかります。軽皇子が成長するまでの繋ぎ役として自ら即位して皇位をおさえ、697年の譲位後も、太上天皇として後見しつづけました。
在位中には藤原京遷都・飛鳥浄御原令公布・班田収授法の開始などを実施、夫の偉業を継承し発展させるため、精力的に国家の建設に取り組みました。巻一の「春過ぎて夏来るらし・・・」の歌からも、女帝の気丈、多才ぶりが伺えます。遺骸は、桧隈(ひのくま)大内陵(奈良県明日香村)に、天武天皇と合葬されています。
○山上憶良
百済からの渡来人であり、藤原京時代から奈良時代中期に活躍した万葉第三期の歌人(660~733年)。漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌が『万葉集』に収められています。「恋」の氾濫する『万葉集』にあって、ただ一人「愛」を歌った人でもあります。
701年少録に任命され、翌年遣唐使の一員として渡唐し3年ほど滞在。帰国後、伯耆守(ほうきのかみ)をつとめ、721年、高い学識を評価され、皇太子(後の聖武天皇)の教育係である東宮侍講(とうぐうじこう)の一人に任命されます。このころ『類聚歌林(るいじゅうかりん)』という書物を編纂し、新たな文芸意欲を培いましたが、現存していません。
726年ごろに筑前守となり同地に赴任、そこで大宰帥(だざいのそち)に就任した大伴旅人と出会い、いわゆる「筑紫歌壇」を形成して、漢詩文、倭歌などを盛んに創作しました。旅人との交流から受けた影響と刺激は大きく、おもな作品は筑前守時代から最晩年につくられています。732年ごろ帰京し、翌年、老齢と長年の持病により没しました。享年74歳。死を前にして東宮侍講時代以来の自作を集めて家集を編んだらしく、それがほとんどそのまま『万葉集』巻第五となりました。
本格的な文学活動は、縁者をなくして悲しみにくれる旅人に贈る挽歌をつくったのがきっかけで、同じ日に、世の無常と煩悩による人間の生の苦しさを全体の主題とした3編の長歌と反歌をみずから選定しました。「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも」は、子への愛情を歌った長歌の反歌です。これらの作品には一貫して憶良の主題がしめされており、人間の否定的側面を見つめながらも、苦しみから逃れたいと願いつつなお強く「生」を肯定する姿勢がみられます。
また、「世の中を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」の短歌を反歌とする有名な『貧窮問答の歌』は、憶良自身を戯画化したような貧者と極貧の地方農民の問答をとおして、世の不条理、非情、生きる困難さを歌ったものです。
○大伴旅人
奈良時代の歌人(665~731年)。大伴氏は、代々武の名門として功績がありましたが、旅人は安麻呂の長男として生まれ、左将軍・中納言を経て720年征隼人持節大将軍として乱を平定しました。728年ごろ大宰帥(大宰府の長官)として九州に赴任、同年夏に妻を失い、730年冬に大納言となり京に戻りました。
大宰帥時代、筑前守にあった山上憶良らとともに「筑紫歌壇」を形成し、九州での生活環境のなかから多くの作品を残しました。二人の和歌は疎外感と体制への反発などにおいて共通していますが、それは旅人の場合、ごく私的な感情の吐露となってあらわれました。身近な悲しみへ素直に没頭していく詠みぶりは、亡き妻を偲ぶ歌などによっても知られています。詩文の教養も深く、老荘思想を背景とした一連の讃酒歌(さんしゅか)は名高い作品です。
『万葉集』に収められているのは全部で80余首、その他、手紙や散文があり、『懐風藻』に詩一編が載せられています。妹は歌人の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)で、一族の和歌的教養はやがて旅人の子家持(やかもち)に受け継がれ、『万葉集』の集大成をなしました。
○山部赤人
生没年は不明。奈良時代の初期から中期にかけて活躍した、『万葉集』第3期の代表的歌人。『万葉集』に収録されている作品は、長歌13首、短歌37首の計50首。大伴旅人・山上憶良より少しおくれ、高橋虫麻呂とほぼ同時期の人。
叙景歌人といわれるように、自然の風景をそのまま切り取ったような歌の新しい境地をひらきました。聖武天皇の宮廷に仕えた下級官人で、天皇の紀伊・吉野・難波などへの行幸(みゆき)に従ったときの作が多くあります。自然への賛歌を繊細かつ優美に詠む作風は王朝の歌人たちにも愛され、『古今和歌集』仮名序には、「人麻呂は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、柿本人麻呂と多く並び称されます。
とくに短歌にすぐれ、傑作といわれる「み吉野の象山(きさやま)のまの木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも」「ぬばたまの夜のふけゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原に千鳥しば鳴く」の2首は、天皇の吉野離宮行幸の折につくられた長歌の反歌として名高い作です。また、いかなる旅かは不明ながら、遠く東国や伊予(愛媛県)にも赴き、富士山や下総葛飾(しもうさかつしか)の真間(まま)を詠んだ歌もあります。
○大伴家持
奈良時代の歌人(718?~785年)で、大伴旅人の長男。『万葉集』第四期を代表し、その編纂者の一員と擬せられています。三十六歌仙のひとり。もともと大伴氏は武人の家系でしたが、万葉歌人の父・旅人や、叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)に影響をうけました。また少年のころ、父と大宰府へ下り、そこで山上憶良を知ったとされます。青春時代は華やかな恋愛を重ね、多くの女性と歌を詠みかわしました。おもな作品には、坂上郎女の長女・坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)、万葉女流歌人の笠女郎(かさのいらつめ)、年上の麗人・紀女郎(きのいらつめ)などとの相聞歌があります。
『万葉集』には歌人の中でも、最大歌数が収められ、とくに巻17~20は家持の私的な歌日誌の様相を呈しています。辺境を警備する兵士の憂愁をうたった巻20の防人歌(さきもりうた)には、武人である大伴氏ならではの関心と山上憶良の影響がみられます。歌風は類歌や類句を多用し模倣性が強かったものの、自然を観照し、孤独の思いを深化させるところに独自性を発揮します。ただし、天平宝字3年(759年)正月(42歳か)の歌を最後として『万葉集』は終わっています。
官人としては、聖武から桓武朝まで6代の天皇に仕え、内舎人(うどねり)を経て越中・因幡(いなば)・薩摩などの国守を歴任。延暦元年(782年)に陸奥按察使(むつあぜち)鎮守将軍となり、翌年中納言に昇進、さらに翌年持節征東将軍に任官されましたが、時節は不穏で、政権をめぐって謀反・暗殺事件の横行する時代でした。彼もまた生涯に何度か連座の憂き目に遭い、死後もなお藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件首謀のかどで除名されます。これは、皇位継承を廃された桓武皇太子・早良(さわら)親王の世話係を兼任した来歴によるものであり、最後まで政界のうねりに翻弄されました。
○大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)
奈良時代初期~中期の人(生没年不明)で、大伴旅人の異母妹。13歳ごろに穂積皇子に嫁し寵愛を受けましたが、皇子の死後、藤原不比等の子・麻呂の恋人となります。後に異母兄・大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)の妻となり、生んだ娘の一人、大伴坂上大嬢が家持の妻となりました。恋多き女性?として数々の男性との相聞歌を残し、『万葉集』には女性としては最も多くの歌が収録されています。
宿奈麻呂とも33歳ごろに死別したらしく、また、旅人が死去した後は、大伴一族のとりまとめをする刀自(とじ・主婦)的・巫女的な存在になったようです。また、才気煥発な彼女の周りには歌をよくする人たちが集い、文芸サロン的な場を主宰する女主人のような立場にもありました。現実生活だけでなく文学上も、甥であり娘の夫である家持に非常に大きな影響を与えました。額田王以後最大の女性歌人であり、『万葉集』編纂に関与したとの説もあります。
○長歌と短歌
長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。
長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。
『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。
人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
○万葉仮名
『万葉集』には、和歌だけでなく、分類名・作者名・題詞・訓注・左注などが記載されていますが、和歌以外の部分はほとんどが漢文体となっています。これに対して和歌の表記には、漢字の本質的な用法である表意文字としての機能と、その字音のみを表示する表音文字としての機能が使われており、後者の用法を万葉仮名と呼びます。漢字本来の意味とは関係なく、その字音・字訓だけを用いて、ひらがな・カタカナ以前の日本語を書き表した文字であり、『万葉集』にもっとも多くの種類が見られるため「万葉仮名」と呼ばれます。
当時の日本にはまだ固有の文字がなかったため、中国の漢字が表記に用いられたわけです。たとえば、伊能知(=いのち・命)、於保美也(=おほみや・大宮)、千羽八振(=ちはやぶる・神の枕詞)などのように、漢字そのものに意味はなく、単にかなとして用いられます。むろん、漢字の意味どおりに用いられる場合もあります。ちなみに、巻第8-1418番の志貴皇子の歌は、原文では次のように書かれています。
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
・・・石(いわ)走る 垂水の上の さわらびの 萌え出(い)ずる春に なりにけるかも
また、奈良時代の音節数は、清音60(古事記・万葉集巻第5は61)・濁音27だったことが分かっています。たとえばア行のえ(e)とヤ行のえ(ye)、ず(zu)とづ(du)などは区別されており、そのため現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多くありました。
⇒ 枕詞(まくらことば)
⇒ 序詞(じょことば)
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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