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おくの細道

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信夫の里

 明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋ねて、信夫(しのぶ)の里に行く。遥か山陰(やまかげ)の小里(こざと)に、石(いし)(なか)ば土に埋(うず)もれてあり。里の童(わら)べの来(き)たりて教へける、「昔はこの山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)を荒らしてこの石を試(こころ)み侍るを憎みて、この谷に突き落とせば、石の面(おもて)、下ざまに伏したり」といふ。さもあるべき事にや。

 早苗(さなへ)とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)

【現代語訳】
 夜が明けると、しのぶもじ摺りの石をたずねて信夫の里(福島市)に行った。はるか遠い山陰の小さな村里に、その石は半分ほどが土に埋まっていた。村の子どもがやって来て教えてくれたのには、「昔はこの石は山の上にあったのですが、ここを行き来する人たちが畑の麦を抜き荒らしてはその石に摺りつけて試すものですから、お百姓たちが腹を立てて、この石を谷に突き落としたのです。それで、石の表面が下向きになっているのです」という。そんなこともあるのだろうか。

 田植えをする早乙女たちの手つきを見ていると、昔、しのぶ摺りをした手つきもこんなふうだったのかなと、しのばれる。「季語:早苗とり(夏)」

(注)しのぶもぢ摺の石・・・「しのぶ摺」ともいい、昔、この地で産出した、布を凹凸のある石にあて忍(しのぶ)草の葉や茎をこすりつけて乱れた模様を染め出したもの。

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佐藤庄司の旧跡

 月の輪(わ)の渡しを越えて、瀬の上(うへ)といふ宿(しゆく)に出(い)づ。佐藤庄司(さとうしやうじ)が旧跡は、左の山際(やまぎは)一里半ばかりに有り。飯塚の里(さと)鯖野(さばの)と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり。麓(ふもと)に大手の跡など、人の教ふるに任せて涙を落とし、またかたはらの古寺(ふるでら)に一家(いつけ)の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先づ哀れなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと、袂(たもと)をぬらしぬ。堕涙(だるい)の石碑も遠きにあらず。寺に入(い)りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈(おひ)をとどめて什物(じふもつ)とす。

 笈(おひ)も太刀も五月(さつき)に飾れ紙幟(かみのぼり)

【現代語訳】
 月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿場に出た。佐藤庄司の旧跡は、左手の山際を一里半ほど行ったところにあるという。そこは飯塚村の佐場野というところだと聞いて、人に尋ね尋ねして行くと、丸山という山に行き当たった。これが庄司の旧館の跡であるという。麓に大手門の跡などがあるのを、人が教えてくれるままに感激して涙を流しし、また、その傍らにある古寺に、佐藤一家の石碑が残っている。その中でも、二人の嫁の墓碑が、まず感慨深く思われる。女ながらも健気だったとの名が世に残ったものだと、感涙に袂を濡らしてしまった。かの堕涙の石碑も眼前に見る思いである。寺に入って茶を所望したところ、この寺では義経の太刀や弁慶の笈を保存して宝物としていた。

この弁慶の笈も義経の太刀も、あの紙幟といっしょに飾って欲しいものだ。端午の節句も近いので。「季語:紙幟(夏)」

(注)佐藤庄司・・・藤原秀衡の臣下だった佐藤元治。義経を守って戦死した継信・忠信兄弟の父。
(注)二人の嫁・・・継信・忠信兄弟が出陣した後、二人の妻が甲冑を着て、戦死した夫の凱旋の様を演じて老母を慰めた故事による。
(注)堕涙の石碑・・・中国・晋の時代の太守を慕って建てた石碑。その碑を見て涙を流さぬ者がいなかったので、「堕涙の碑」と名づけられたという。
(注)笈・・・山伏などが背負う箱。仏具や衣類・食器などを入れた。
(注)紙幟・・・紙製の鯉のぼり。

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飯塚

 五月(さつき)朔日(ついたち)のことなり。その夜、飯塚(いひづか)に泊まる。温泉(いでゆ)あれば湯に入(い)りて宿を借るに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷きて、あやしき貧家(ひんか)なり。灯(ともしび)もなければ、囲炉裏(ゐろり)の火(ほ)かげに寝所(しんじよ)を設けて臥(ふ)す。夜に入(い)りて雷(かみ)鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏(も)り、蚤(のみ)・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短か夜の空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほ夜の余波(なごり)、心進まず。馬借りて桑折(こをり)の駅に出(い)づる。遥かなる行末をかかへて、かかる病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅(きりよ)辺土(へんど)の行脚(あんぎや)、捨身(しやしん)無常の観念、道路に死なん、是(こ)れ天の命(めい)なりと気力いささかとり直し、路(みち)縦横に踏んで、伊達(だて)の大木戸(おほきど)を越す。

【現代語訳】
 その夜は飯塚(今の飯坂温泉)に泊まった。温泉があるので、湯に入ってから宿を借りたところ、土間にむしろを敷いただけの粗末な貧家だった。灯火もないので、囲炉裏の火の明かりがさす所に寝床をとって横になった。夜になって雷が鳴り、雨が激しく降ってきて、寝ている上から雨漏りがし、蚤や蚊に刺されてまんじりともできなかった。おまけに持病まで起こって心細いことこの上ない。初夏の短か夜が長く感じられ、やっと明けたので、早々に旅立った。まだ昨夜の苦痛が残っていて、気分がすぐれない。仕方なく馬を借りて桑折(福島県)の宿駅に出た。これから遥かな前途をひかえて、こんな病では心細いことだが、辺鄙な地の行脚であり、俗世を捨て人生の無常を覚悟した身なのだから、たとえ道中で死んでもこれは天の定めだと、少し元気を取り戻し、足に力を入れて伊達の大木戸を越えた。

(注)持病・・・芭蕉には慢性疾患があり、しばしば疼痛を訴えている。
(注)伊達の大木戸・・・伊達藩領の城の正門という意の地名。伊達領に入る関門。

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笠島・武隈

 鐙摺(あぶみずり)・白石(しろいし)の城を過ぎ、笠島(かさしま)の郡(こほり)に入(い)れば、「藤中将(とうのちゆうじやう)実方(さねかた)の塚はいづくのほどならん」と人に問へば、「これより遥か右に見ゆる山際(やまぎは)の里を、蓑輪(みのわ)・笠島といひ、道祖神(だうそじん)の社(やしろ)、形見(かたみ)の薄(すすき)今にあり」と教ふ。このごろの五月雨(さみだれ)に道いと悪(あ)しく、身疲れ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨の折に触れたりと、

 笠島はいづこ五月(さつき)のぬかり道

 岩沼(いわぬま)に宿る。

 武隈(たけくま)の松にこそ目覚むる心地はすれ。根は土際(つちぎは)より二木(ふたき)に分かれて、昔の姿(すがた)失はずと知らる。まづ能因法師(のういんほふし)思ひ出(い)づ。往昔(そのかみ)、陸奥守(むつのかみ)にて下りし人、この木を伐(き)りて名取川(なとりがは)の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々(よよ)、あるは伐り、あるは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた千歳(ちとせ)の形(かたち)(ととの)ほひて、めでたき松の気色(けしき)になん侍りし。

 「武隈の松見せ申せ遅桜」と、挙白(きよはく)といふ者の餞別(せんべつ)したりければ、

 桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越

【現代語訳】
 鐙摺・白石城下(宮城県)を過ぎ、笠島郡に入ったので、「近衛中将藤原実方の墓はどの辺りでしょうか」と人に聞くと、「ここから遥か向こうの右手に見える山添いの村を箕輪と笠島といい、そこに実方に縁のある道祖神の社やかたみの薄が、今も残っています」と教えてくれた。しかし、折からの五月雨のために道がとても悪く、体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎてしまったが、箕輪・笠島の地名も、この五月雨の季節にふさわしく思われ、詠んだ句。

 実方ゆかりの笠島はどの辺りだろうか。行ってみたいが、この五月雨でぬかった道ではどうしようもない。「季語:五月(夏)」

 その夜は、岩沼(宮城県)に宿をとった。

 武隈の松の素晴らしさには、目が覚めるような思いがする。根は生え際から二つに分かれ、古歌に詠まれた姿が失われていないと知れた。まず能因法師のことが思い浮かんだ。昔、陸奥守となって都から下った人(藤原孝義)がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか、能因法師は「松はこのたび跡もなし」と詠んでいる。代々、伐ったり植え継いだりしたと聞くが、今はまた千年の歳月を経てきたかと思えるほどに昔の姿を取り戻していて、素晴らしい松の眺めであることよ。

 挙白という者が「陸奥の遅桜よ、芭蕉翁が来られたら武隈の松をもお見せするように」と餞別に詠んでくれたので、お返しに一句詠んだ。

 遅桜は散ってしまったが、三ヶ月越しに目の前にしている松は、二本の幹の見事な姿を見せてくれた。「季語:直接の季語はないが、『桜より・・・三月越し』とあるので、季は夏。」

(注)藤原実方・・・平安時代の歌人。第二の業平(なりひら)とも呼ばれた風流才子で、清少納言との恋愛も噂された。天皇のご機嫌を損じて、陸奥守に任ぜられ、そのまま任地で亡くなった。
(注)形見の薄・・・西行がこの塚を訪れて詠んだ「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄形見にぞ見る」による。
(注)武隈の松・・・二木(ふたき)の松として知られる歌枕。

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宮城野

 名取川を渡りて仙台に入(い)る。あやめ葺(ふ)く日なり。旅宿(りよしゆく)を求めて四五日(しごにち)逗留(とうりう)す。ここに画工(ぐわこう)加右衛門(かゑもん)といふ者あり。聊(いささ)か心ある者と聞きて、知る人になる。この者、「年ごろ定かならぬ名どころを考へ置き侍れば」とて、一日(ひとひ)案内(あない)す。宮城野(みやぎの)の萩(はぎ)茂り合ひて、秋の気色(けしき)思ひやらるる。玉田・横野・つつじが岡はあせび咲く頃なり。日影も漏(も)らぬ松の林に入(い)りて、ここを木(こ)の下といふとぞ。昔もかく露(つゆ)深ければこそ、「みさぶらひ御笠(みかさ)」とは詠みたれ。薬師堂(やくしだう)・天神(てんじん)の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。なほ、松島・塩釜(しほがま)の所々、画(ゑ)に書きて贈る。かつ、紺(こん)の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらぢ)二足(にそく)(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実(じつ)を顕(あらは)す。

 あやめ草足に結ばん草鞋(わらぢ)の緒(を)

【現代語訳】
 名取川を渡って仙台に入る。ちょうど端午の節句で、軒にあやめを葺く日だ。旅宿を求めて、四五日滞在することにした。この地に絵描きの加右衛門という者がいる。いささか風流心のある者だと聞いて、知り合いになった。この者が、「ここ何年かの間に、名だけ伝わって場所がはっきりしなかった古歌の名所を実地に調べておきましたので」といって、ある日に案内してくれた。宮城野の萩が茂り合っていて、秋の趣きが想像される。玉田・横野・つつじが岡は、あせびの咲く頃である。日の光ももれてこない松林に入ると、そこは木の下という所だという。昔もこれほど露が深かったからこそ、古歌に「みさぶらひみかさ(お供の方よ、ご主人にお笠を)」と詠んでいるのだ。薬師堂・天神の御社などを参拝して、その日は暮れた。加右衛門は、さらに松島や塩釜の所々を絵に描いて贈ってくれた。また、紺に染めた緒がついた草鞋二足を餞別としてくれた。本当に風流を解する男は、ここに至って本領を発揮した。

 あやめ草を足に結んで行こう。もらった草鞋の緒もあやめ草と同じ紺染めで、ともに旅の安全を守ってくれよう。「季語:あやめ草」

(注)あやめ・・・サトイモ科のショウブ。ショウブはその香気から邪気を払うとされた。

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多賀城

 かの画図(ゑず)に任せてたどり行ば、おくの細道の山際(やまぎは)に、十符(とふ)の菅(すげ)あり。今も年々(としどし)十符の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守(こくしゆ)に献(けん)ずといへり。

 壺(つぼ)の碑(いしぶみ) 市川村(いちかはむら)多賀城(たがじょやう)にあり。

 壺の石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔(こけ)を穿(うが)ちて文字(もんじ)(かす)かなり。四維国界(しゆいこくかい)の数里を記(しる)す。「この城、神亀(じんき)元年、按察使鎮守府将軍(あぜちちんじゆふしやうぐん)大野朝臣東人(おほのあそんあづまびと)の所里(おくところ)なり。天平宝字(てんぴやうほうじ)六年、参議東海東山節度使(さんぎとうかいとうさんのせつどし)、同じく将軍 恵美朝臣獦(ゑみのあそんあさかり)の修造(しゆざう)にして。十二月 遡日(ついたち)」とあり。聖武皇帝(しやうむくわうてい)の御時(おほんとき)に当たれり。

 昔より詠み置ける歌枕(うたまくら)、多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋(うづ)もれて土に隠れ、木は老いて若木(わかき)に代はれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今(いま)眼前に古人(こじん)の心を閲(けみ)す。行脚の一徳(いっとく)、存命の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。

【現代語訳】
 加衛門の描いてくれた絵図を頼りに道を進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に、歌枕の十符の菅が生えていた。今も毎年、十符の菅菰を調えて、藩主に献上しているとのことである。

 壺の碑(いしぶみ)は市川村の多賀城にあった。

 壺の碑(いしぶみ)は、高さ六尺(約2m)、横三尺(約90cm)ぐらいだろうか。苔に覆われた岩を彫ったかのように、文字は幽かである。四方の国境までのそれぞれの里数が記してあり、「この城は、神亀元年(724年)、按察使鎮守府将軍の大野朝臣東人が築いたものである。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣獦が修造した。十二月朔日」とある。聖武天皇の御時にあたる。

 昔から詠まれてきた歌枕は、多くの人が語り伝えてきたが、殆どの場合、山は崩れ、川の流れも変わって道が改まり、石は土に埋もれて隠れ、木は老い朽ちて若木になり、時が移り代も変わってしまい、その跡は確かではないのだが、この碑は疑いなく千年来のかたみであり、今、目のあたりに古人の心をしのぶのである。これが旅をすればこその徳であり、生きていればこその喜びだ。旅の疲れも忘れ、涙もこぼれんばかりであった。

(注)十符の菅・・・編み目が十筋ある菅の菰(こも)。古歌に陸奥の名産と詠まれた。
(注)壺の碑・・・江戸時代初期に「多賀城碑」が土中から発見され、歌枕の「壺の碑」と同一視されたため、混同が生じている。

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末の松山・塩釜の浦

 それより野田(のだ)の玉川(たまがは)・沖の石を尋(たづ)ぬ。末(すゑ)の松山は、寺を造りて末松山(まつしようざん)といふ。松の間々(あひあひ)(みな)墓原(はかはら)にて、翼(はね)を交(か)はし枝を連(つら)ぬる契(ちぎ)りの末(すゑ)も、つひにはかくのごときと、悲しさも増(まさ)りて、塩釜(しほがま)の浦に入相(いりあひ)の鐘(かね)を聞く。五月雨(さみだれ)の空いささか晴れて、夕月夜(ゆふづくよ)(かす)かに、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)漕ぎ連れて、肴(さかな)分かつ声々(こゑごゑ)に、「綱手(つなで)かなしも」と詠みけん心も知られて、いとど哀れなり。その夜、目盲法師(めくらほふし)の、琵琶(びは)を鳴らして、奥浄瑠璃(おくじやうるり)といふものを語る。平家(へいけ)にもあらず、舞(まひ)にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うち上げて、枕(まくら)近うかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゆしよう)に覚えらる。

【現代語訳】
 それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山という。松の間々はみな墓地になっていて、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝という言葉(比翼連理)があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。塩釜の浦に出て夕暮れ時を告げる鐘の音を聞いた。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに照り、籬が島(塩釜湾)がすぐ近くに見える。漁師の小舟が沖からこぞって帰港し、魚を分ける声がする。それを聞いていると古人が「綱手かなしも」と詠んだ心も思われて、感慨深い。その夜、盲目の法師が琵琶を鳴らして奥浄瑠璃というものを語る。平家琵琶とも幸若(こうわか)とも違う。ひなびた感じで、高い調子で歌うから、寝る前でもありうるさかったが、さすがに田舎の古い文化を忘れていないことが、殊勝に思われた。

(注)「綱手かなしも」・・・源実朝の歌「世の中は常にもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも」
(注)奥浄瑠璃・・・仙台地方特有の古浄瑠璃。

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塩釜の明神

 早朝、塩釜(しほがま)の明神(みやうじん)に詣(まう)づ。国守(こくしゅ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重なり、朝日、朱(あけ)の玉垣(たまがき)を輝かす。かかる道の果て、塵土(ぢんど)の境まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、わが国の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。

 神前に古き宝燈(ほうとう)あり。鉄(かね)の扉の面(おもて)に、「文治三年 和泉三郎(いづみのさぶらう)寄進」とあり。五百年来の俤(をもかげ)、今目の前に浮かびて、そぞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝(ゆうぎちゆうかう)の士なり。佳名(かめい)今に至りて、慕(した)はずといふ事なし。まことに、人よく道を勤め、義を守るべし。「名もまたこれに従ふ」といへり。日(ひ)既に午(ご)に近し。船を借りて松島に渡る。その間(かん)二里余、雄島(をじま)の磯(いそ)に着く。

【現代語訳】
 その翌朝早く、塩釜の明神に参詣した。この神社は、藩主(伊達政宗)が再建なさり、社殿の柱は太く、彩色された垂木もきらびやかで、石の階段がたいそう高く連なっており、朝日が朱塗りの玉垣を輝かしている。このような遠く離れた辺境の地まで神の霊験があらたかでいらっしゃることこそ、わが国の美風なのだと、たいそう貴く思われる。

 社殿の前に古い立派な燈籠がある。鉄の扉の表面には「文治三年和泉三郎寄進」とある。五百年前の人物の面影が、今目の前に浮かんで、非常にありがたく感じられる。彼は、勇気と義理と忠孝の士だった。その誉れある名は今日まで伝わり、慕わない者はいない。まことに人の道に勤め、義を守ったのだった。「その名もまたその人の行動に伴うものである」と昔の人も言った。
日は既に正午に近い。船を借りて松島に渡った。海上を二里余り進んで、雄島に着いた。

(注)和泉三郎・・・藤原秀衡の三男忠衡。父の命令通りに、義経に忠誠を誓って戦い、最後に自害した。

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松島

(一)
 そもそも事ふりにたれど、松島(まつしま)は扶桑(ふさう)第一の好風(かううふ)にして、およそ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中(うち)三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)を湛(たた)ふ。島々の数を尽くして、そばだつものは天を指さし、伏すものは波にはらばふ。あるは二重(ふたへ)にかさなり三重(みへ)に畳みて、左に分かれ右に連なる。負へるあり、抱(いだ)けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しえふ)汐風(しほかぜ)に吹きたわめて、屈曲(くつきよく)おのづから矯(た)めたるが如し。その気色(けしき)窅然(えうぜん)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇(おほやまづみ)のなせるわざにや。造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽くさむ。

【現代語訳】
 さて、すでに言い古されたことではあるが、松島は日本第一の絶景であり、かの中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南から海が入り込み、湾の中は三里もあり、浙江を思わせる美しい潮をたたえている。湾内の島々の数は限りなく、高くそびえる島は天を指差し、低く横たわっている島は波の上に腹ばいになっている。ある島は二重に重なり、また三重にも重なっていて、左に分かれているかと思うと、右につながって見えたりする。小さな島を背負っているようなのや、抱いているような島もあり、まるで児や孫を愛撫しているようだ。松の緑は色濃く、枝や葉が潮風に吹きたわめられ、その曲がり具合は人の手で曲げ整えたかのようだ。松島の風情は物静かで、美人がさらに美しく化粧したかのようだ。これらは神代の昔に、大山抓の神がなさった仕業だろうか。神のなせる造化の仕業は、どんな人も絵筆をふるって描き、詩文で言い尽くすことはできない。

(注)洞庭湖・・・中国湖南省の北部にある大湖。湖畔に杜甫(とほ)の詩で名高い岳陽楼(がくようろう)が建っている。
(注)西湖・・・中国浙江省の杭州市西郊にある名湖。
(注)浙江・・・中国浙江省の杭州湾に注ぐ銭塘江(せんとうこう)という大河。但し、芭蕉は中国に行ったことはない。
(注)大山祇・・・日本神話に登場する神。

(二)
 雄島(をじま)が磯(いそ)は、地続きて海に出(い)でたる島なり。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、座禅石(ざぜんせき)など有り。はた、松の木陰に世を厭(いと)ふ人もまれまれ見え侍りて、落穂(おちぼ)・松笠(まつかさ)などうち煙(けぶ)りたる草の庵(いほり)、閑(しづ)かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、先づ懐かしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改(あらた)む。江上(かうじやう)に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身をかれほととぎす  曾良

 予(よ)は口を閉ぢて、眠らんとしていねられず。旧庵(きうあん)を別るる時、素堂(そだう)、松島の詩有り。原安適(はらあんてき)、松が浦島(うらしま)の和歌を贈らる。袋を解きて今宵(こよひ)の友とす。かつ、杉風(さんぷう)・濁子(ぢよくし)が発句(ほつく)あり。

【現代語訳】
 雄島が磯は陸続きになって、海に突き出た島だ。雲居禅師の別室の跡や座禅した石などがある。また、松の木陰には、俗世間を逃れて住む人の姿もごくまれに見え、落ち葉や松笠などを焚き、その煙がぼうっと立ちのぼる草庵にひっそり住んでいる人がいる。どんな住人かは分からないが、何となく心惹かれて立ち寄っているうちに、月が上って海に映り、昼の眺めがすっかり変わった。入江の近辺に帰って宿を取ると、海に向かって窓が開いた二階造りで、風雲の自然の中に旅寝をするような感じがして、不思議なほどいい気持ちになった。

 ここは松島なのだから、今鳴いているほととぎすよ、鶴の姿を借りて飛んでみよ。「季語:ほととぎす(夏)」 曾良(の句)

 私は口を閉じて眠ろうとしたが、なかなか寝つかれない。深川の草庵を離れた時の素堂の松島の詩が餞別としてある。原安適は松が浦島の歌を贈ってくれた。私は、袋からそれらを取り出し、今宵の慰めの友とした。また、袋の中には杉風や濁子の餞別の発句もあった。

(注)雲居禅師・・・伊達忠宗に招かれ、瑞巌寺を中興した禅僧。芭蕉の師である仏頂和尚の師。
(注)素堂・・・山口素堂。江戸時代前期の俳人。

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瑞巌寺・石巻

 十一日、瑞岩寺(ずいがんじ)に詣(まう)づ。当寺(たうじ)三十二世(さんじふにせい)の昔、真壁(まかべ)の平四郎(へいしらう)、出家して入唐(につたう)、帰朝(きてう)の後(のち)開山(かいざん)す。その後(のち)に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化(とくげ)によりて、七堂(しちどう)(いらか)改まりて、金壁(こんぺき)荘厳(しやうごん)(ひかり)を輝かし、仏土(ぶつど)成就(じやうじゆ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。かの見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。

 十二日、平泉(ひらいずみ)と心ざし、姉歯(あねは)の松・緒絶(をだ)えの橋など聞き伝へて、人跡(じんせき)(まれ)に、雉兎(ちと)・蒭蕘(すうぜう)の行きかふ道、そことも分(わ)かず、終(つひ)に道ふみたがへて、石の巻といふ湊(みなと)に出(い)づ。「こがね花咲く」と詠みて奉(たてまつ)りたる金花山(きんくわざん)、海上に見渡し、数百の廻船(くわいせん)入江につどひ、人家(じんか)地を争ひて、竈(かまど)の煙(けぶり)立ち続けたり。思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれど、更に宿貸す人なし。やうやうまどしき小家(こいへ)に一夜を明かして、明くればまた知らぬ道まよひ行く。袖(そで)の渡り・尾ぶちの牧(まき)・真野(まの)の萱原(かやはら)などをよそ目に見て、遥かなる堤(つつみ)を行く。心細き長沼(ながぬま)に添うて、戸井麻(といま)といふ所に一宿(いつしゆく)して、平泉に至る。その間(かん)廿余里(にじふより)ほどと覚ゆ。

【現代語訳】
 十一日、瑞巌寺に詣でる。この寺の三十二代にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐し、帰朝した後に開山した。その後、雲居禅師の徳によって、七堂がことごとく改築され、金色の壁は荘厳な光を放ち、極楽浄土が実現したかと思える大伽藍が完成した。かの名僧、見仏聖の寺はどこだろうと慕われてならない。

 十二日、平泉を目指し、姉歯の松や緒絶えの橋などの歌枕を伝え聞いて行ったが、人の足跡もまれで、猟師や木こりの行き交う道を、どこがどうとも分からず歩いていると、とうとう道を間違えてしまい、石巻という港に出てしまった。ここは昔、大伴家持が「黄金花咲く(黄金の花が咲く)」の祝い歌を詠んで帝に奉ったことに由来する金華山である。海上はるかに見渡すと、数百の廻船が停泊し、人家がすきまなく建ち並び、炊事をしている煙がさかんに立っている。思いもよらずこんな所に来てしまったと、宿を借りようとしたが、いっこうに貸してくれる人がいない。やっとのことで貧しい小家に一晩泊めてもらい、夜が明けると、また知らない道を迷いながら歩く。袖の渡り・尾鮫の牧・真野の萱原(いずれも石巻市)などを遠く横に見ながら、はるかに続く北上川の堤を行く。心細いような細長い沼に沿って歩き、戸井麻という所に一泊して、平泉に着いた。松島から平泉までの間は、二十余里ほどであったろうか。

(注)真壁の平四郎・・・鎌倉時代の禅僧、法身和尚のこと。
(注)見仏聖・・・平安末期の僧。雄島に12年間滞在したという。

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平泉

 三代の栄耀(ええう)一睡(いつすい)のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城(じやう)を巡りて、高館の下(もと)にて大河に落ち入る。泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣(ぎしん)をすぐつてこの城にこもり、功名(こうみやう)一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城(じやう)春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡(あと)

 卯(う)の花に兼房(かねふさ)見ゆる白毛(しらが)かな
  曾良

 かねて耳驚かしたる二堂(にだう)開帳す。経堂(きやうだう)は三将の像を残し、光堂(ひかりだう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏(ほとけ)を安置す。七宝(しつぽう)散り失せて、珠(たま)の扉(とびら)風に破れ、金(こがね)の柱(はしら)霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃(たいはい)空虚の草むらとなるべきを、四面(しめん)新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨をしのぎ、しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

 五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂

【現代語訳】
 藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の栄耀も、一睡の夢のようなに儚く消え失せた。平泉の館の南大門の跡は、一里ほど手前にある。秀衡の館の跡は田野になり、今は金鶏山のみが昔の姿を残している。まず高館に登ると、眼下に北上川が大河となって南部領から流れ入っている。衣川は和泉が城を取り巻いて流れ、高館の下で北上川に合流している。泰衡らの旧館は、衣が関を隔てて向こうにあり、あたかも南部口を固めて蝦夷の侵入を防いでいるように見える。それにしても、忠義な家臣たちはこの城にこもって戦い、立てた巧名も一時のことであって、今はただの草むらとなっている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり(杜甫の詩)」の心境に、笠を敷いて腰をおろし、しばらくの間、涙を落としていた。

 目の前にはただ夏草が生い茂っているだけだが、ここは昔、義経一党や藤原一族らが功名や栄華の夢にふけった跡である。しかし、それも束の間の夢として終わってしまった。何と無常なことよ。「季語:夏草(夏)」

 辺りの真っ白い卯の花を見るにつけ、兼房(義経の忠臣)が白髪を振り乱して戦っている姿がしのばれる。「季語:卯の花(夏)」
 曾良(の句)

 前々から聞いて驚いていた二堂が開帳していた。経堂には、三代の将軍たちの像を残していて、光堂には三代の棺を納め、ほかに三尊の仏像を安置している。七宝は散り失せ、珠玉で飾った扉は風で破れ、金箔の柱は霜や雪のために朽ちてしまい、すんでのところで虚しく荒れ果てた草むらとなってしまうところを、後世の人が四方を新しく囲み、屋根瓦で覆って風雨をしのいでいる。しばらくのことであるが、千年の記念ともなるであろう。

 五月雨も、ここ光堂にだけは降らずにきたものか。こんなに美しく光り輝いているのだから。「季語:五月雨(夏)」

(注)高館・・・義経の居館だった。
(注)二堂・・・中尊寺の経堂と光堂。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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「おくの細道」の内容

 元禄2年(1689年)3月27日、弟子の河合曾良を伴い、江戸深川を立ち、奥羽・北陸を巡り、美濃国の大垣に至るまでの5か月にわたる旅行をもとに書きまとめた紀行文。

 旅の目的は、冒頭に記されているように、人生を旅に見立てた人生観から来る旅への憧れ、旅に生き旅に死んだ古人への共感、敬慕する西行法師の旅の跡を訪ねたい、とりわけ松島と象潟を見てみたい、といったものだった。

 しかし、単なる記録的紀行文というわけでなく、芭蕉は「笈の小文」のなかで次のように述べている。「紀行文などというのは、紀貫之らの先人のものに、すでに優れた作品があり、今さら私のような才の無い者が書いても及ばない。毎日の記録など誰でも書ける。たとえば中国の黄山谷のような珍しいこと、蘇東坡のような新しさがなくてはならない」

 そのためか、実際には開帳されなかった経堂を見たごとくに記し、内部の仏像の記述に誤りがあったり、日付を間違えたりするなど、ほかの箇所にもみられ、文学的虚構を行っている。あえて実際と異なる描写をしてでも、その地のすばらしさを表現しようとしたとされる。

俳句の歴史

 俳諧というと、すぐに俳句を思い出し、5・7・5でよむ短詩型文学と考えるが、元はそうではなかった。俳諧は、「滑稽」の意であり、その形式は連歌から受け継いだ。

 連歌とは、和歌の上下2句を二人で詠み分けるもので、即興と機智とを重んじる遊戯的なものだった。それが鎌倉時代になると、5・7・5に7・7をつけ、さらにそれに5・7・5をつけるという具合に、50も100も長く続ける連歌が生まれてきた。これを従来の「短連歌」に対し、「長連歌(または鎖連歌)」という。この長連歌は、中世の和歌衰退の気運にかわって、「有心(うしん)連歌」と称して、高度の芸術性と完成度を求めるようになった。

 その一方、連歌本来の諧謔性を求める「無心連歌」は、おもに僧侶・武家・下級貴族の間で行われ、これも同じく長連歌化しつつあった。有心連歌を行った人々を「柿の本衆」というのに対し、無心連歌の人々は「栗の本衆」と称した。

 有心連歌は室町初期に最も盛んになったが、その後は衰退、中世末期になると、次第に無心連歌が民衆の間に広まった。

 安土桃山期になると、山崎宗鑑、荒木田守武の二人が出て、無心連歌をさらに滑稽化して、俳諧の連歌というものを創り出し、既成の和歌的情緒を破壊し、大胆な諧謔精神を発揮した。これが俳諧の文学の本格的な開始となった。 

 貞門がやや格式重視だったのに対し、その枠を破り、まったく自由奔放な俳諧を唱えたのが西山宗因であり、その門流を「談林(だんりん)」と呼ぶ。この派は町人の旺盛な生活力を基盤としたが、次第に無秩序に流れ、品位を失うに至った。

 江戸時代になると、松永貞徳が出て、俳諧を用語上から連歌と区別し、俳諧とは俳言(はいごん)をもってよむ連歌なりと定義、その法則を定めた。彼の門流を「貞門(ていもん)」と呼ぶ。

 これらの反省は、池西言水、小西来山、上島鬼貫らによって唱えられていたが、松尾芭蕉の出現をみて、俗語を用い俗生活を題材としながら古典的伝統の品位を保持する排風(蕉風)が確立した。

 芭蕉の時代には、俳句は連句ともいわれ、やはりいくつかの続く形でよまれるのが原則だった。特に36句でよむ歌仙形式が行われたが、一方、発句(連句の一番初めの句)の独立性も次第に確立してきた。

 芭蕉の死後、その弟子たちの活躍はあったものの、俳諧は次第に芸術的香気を失っていったが、天明期に与謝蕪村が現れ、空気を刷新した。

 天明以後は、小林一茶など人生派の俳人を除けば、俳諧は再び衰退し、いわゆる月並調の平凡な詠風に堕し、その復興は明治の正岡子規に待たねばならなかった。

 子規は、蕪村を尊重し、明治の俳壇を革新したが、その際、連句を遊戯とみなし、文学としては発句のみがその独自性を持ちうると主張し、「俳句」と称した。


(正岡子規)

俳句の用語

一物仕立
単一概念(一つの素材、ことば)によって断絶(句切れ)なく作ること。

歌仙
長句と短句を交互に36句連ねた俳諧の連歌の一形式。

季重なり
一句のうちに2つ以上の季語が含まれること。

季語
俳句の中で、その季節を表すことばとして用いられるもの。「季題」とも呼ばれる。

切れ字
句中または句末に用いて、句に曲折をもたせたり、特別に言い切る働きをしたりする語。 終助詞や用言の終止形・命令形などが多い。 「や」「かな」「けり」など。

吟行
俳句を作るために実景を見に、また季題と出会うため外へ出て行くこと。

句またがり
読みが5・7・5音でなく、他の文節にまたがっている、7・5・5のような句。

兼題
歌会・句会などを催すとき、あらかじめ出しておく題。また、その題で詠んでおく歌・句。

口語俳句
定型を重視する文語俳句に対して、話し言葉で書かれた俳句。

歳時記
季題、季語を月別、四季別に分類して解説、例句を加えたもの。

雑詠
詩歌や俳句で、特に題を決めずによむこと。また、その作品。

さび
「しおり」とともに代表される蕉風俳諧の根本理念。閑寂味の洗練されて純芸術化されたもの。句に備わる閑寂な情調。

字余り
5・7・5、計17音の定まった形よりも字数の多い俳句。

しおり
「さび」とともに代表される蕉風俳諧の根本理念。人間や自然を哀憐をもって眺める心から流露したものがおのずから句の姿に現れたもの。

字足らず
5・7・5、計17音の定まった形よりも字数の少ない俳句。

自由律
5・7・5の17音や季語といった定型の制約に制限されることなく、感じたままを自由に表現する長短自由の型の俳句。

嘱目
実際に見た景色、目に触れたものを題材として俳句を作ること。

席題
句会の席で出される題のこと。

川柳
季題・切れ字を使わない17音の定型詩。 世相・人事・人情を軽妙に詠むところに特徴がある。「穿ち」「おかしみ」「かるみ」がその三要素。

即吟
句会の席で出された題を即席で詠むこと。

題詠
句会などで季語や言葉を題にして俳句を作ること。雑詠や自由詠に対して言う。

多行俳句
俳句を3行ないし4行の多行書きで表記する形式。昭和時代の俳人・高柳重信が創出した。

投句
短冊など所定の用紙に俳句を書いて、句会や雑誌等に出すこと。

倒句
意味を強めるために、普通の語法の位置を逆にして置いた句。

二句一章
句中に切れがあり、相互になんの関連がないものを一句に仕立てる句。「一句一章」は句中にそういう切れがなく一つの事柄を表している句。

俳諧
俳句(発句)・連句の総称。広義には俳文・俳論を含めた俳文学全般を指す。

俳壇
俳人の仲間。俳句を作る人々の社会。

破調
各文節の決まった音数に多少が生じること。字余り、字足らずなど。

披講
俳句会の席上で選句された俳句を読み上げたり発表すること。

発句
連歌・連句の第一句目。5・7・5の17音からなる。また、それが独立して一つの詩として作られたもの。正岡子規により俳句として独立した。

前書き
俳句の前に付して、其の俳句に付け加えることば。俳句のつくられた場所や月日を記す場合が多い。

無季
一句の中に季語がないこと、またその俳句。

余韻/余情
物事が終わった後になお深く残っている風情、また表現の外に漂う情趣。表現を抑えて、心を内に込め、あらわにしないのは、余韻、余情につながる。

わび
茶道や俳諧などでいう閑寂な風趣。外観的あるいは感覚的な装飾美を否定し、精神的余情美を追求しようとする芭蕉のすべてを貫いた根本的理念の一つ。

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