おくの細道
南部道(なんぶみち)遥(はる)かに見やりて、岩手(いはで)の里に泊(とま)る。小黒崎(をぐろさき)・美豆(みづ)の小島(こじま)を過ぎて、鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまへ)の関にかかりて、出羽(では)の国に越えんとす。この路(みち)旅人稀なる所なれば、関守(せきもり)に怪しめられて、漸(やうや)うとして関を越す。大山(たいざん)を登つて日(ひ)既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留(とうりう)す。
蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと
主(あるじ)のいはく、これより出羽の国に大山(たいざん)を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと言ひて人を頼み侍れば、究竟(くつきやう)の若者(わかもの)、反脇差(そりわきざし)を横たへ、樫(かし)の杖(つゑ)を携へて、我々が先に立ちて行く。「今日(けふ)こそ必ず危ふき目にもあふべき日なれ」と、辛(から)き思ひをなして後について行く。主の言ふにたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)として一鳥(いつてう)声聞かず、木の下闇(したやみ)茂りあひて夜行くがごとし。雲端(うんたん)に土ふる心地して、篠(しの)の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に躓(つまづ)きて、肌に冷たき汗を流して、最上(もがみ)の庄に出づ。かの案内(あない)せし男(をのこ)の言ふやう、「この道必ず不用(ぶよう)の事あり。恙(つつが)なう送りまゐらせて、仕合(しあ)はせしたり」と、喜びて別れぬ。後(あと)に聞きてさへ胸とどろくのみなり。
【現代語訳】
南部領へ続く道をはるか遠くに眺めやって、岩手山の里(宮城県)に泊まる。小黒崎や美豆の小島を通り過ぎ、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとした。この道は旅人もまれな所なので、関所の番人に怪しまれて、やっとのことで越えることができた。大きな山を登ると日も暮れたので、国境の番人の家を見つけ、宿を頼んだ。ところが、それから風雨が荒れ続けて、三日間も何もない山中に滞在した。
蚤や虱にせめられて、その上に枕元で馬が小便する音まで聞こえてくる。何ともわびしい旅の宿だ。「季語:蚤(夏)」
そこの主人が言うには、ここから出羽の国に行くには、途中に大きな山があり、道もはっきりしていないから、道案内を頼んだほうがよいという。それならばと依頼したところ、屈強な若者で腰に反脇差を差した者を紹介してくれた。彼は、樫の杖を手にして、我々を先導する。「今日こそ、危ない目に遭うに違いない」と、不安な思いで後についていく。主人が言ったとおり、山は高く、木々が生い茂り、鳥の声一つ聞こえず、木の下まで枝葉が茂りあい、まるで夜道を行くようであった。「雲端に土ふる(風に巻き上げられた土が雲の切れ端から降ってくる)」という杜甫の詩句そのものの心地がして、小笹を踏み分け踏み分け、流れを渡り、岩につまづき、肌には冷や汗を流しながら、ようやく最上の庄(山形県)に出た。案内してくれた男が言うには、「この道ではいつも必ずよくないことが起きます。今日は無事にお送りすることができて幸いでした」と喜んで帰っていった。後から聞いただけでも、胸がどきどきするばかりであった。
(注)尿(しと)・・・芭蕉自筆とされる野坡本には「しと」ではなく「ばり」との傍訓がある。
↑ ページの先頭へ
尾花沢(をばなざは)にて清風(せいふう)といふ者を尋(たづ)ぬ。かれは富める者なれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知りたれば、日ごろとどめて、長途(ちやうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
涼しさを我が宿にしてねまるなり
這ひ出でよ飼屋(かひや)が下の蟾(ひき)の声
眉掃(まゆは)きを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
蚕飼(こが)ひする人は古代の姿かな 曾良
【現代語訳】
尾花沢(山形県)で清風という者を尋ねた。彼は裕福な人だが、心は卑しくない。都にも時々来ていて、それだけに旅する者の気持ちをよく知っているので、私たちを何日も泊めて、長い道中をねぎらってくれた。
涼しい風が吹き通る部屋でさわやかなもてなしを受け、まるでわが家のようにのんびりと座っていることだ。「季語:涼しさ(夏)」
飼屋の床下で鳴いているひきがえるよ、そんな所にいないで、ここに這い出してきたらどうだ。「季語:蟾(夏)」
あの眉掃きのかたちを思い起こさせるように、紅粉の花がやさしく咲いている。「季語:紅花(夏)」
蚕飼いをしている人の姿は、大昔の人々もこんなであったろうとしのばれることだ。「季語:蚕飼ひ(夏)」 曾良(の句)
(注)清風・・・鈴木道祐。紅花問屋を営む豪商。清風は俳号。
↑ ページの先頭へ
山形領(やまがたりやう)に立石寺(りふしやくじ)といふ山寺(やまでら)あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、殊(こと)に清閑(せいかん)の地なり。一見すべきよし、人々の勧(すす)むるによりて、尾花沢(おばねざは)より取つて返し、その間(かん)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏(しやうはく)年ふり、土石(どせき)老いて苔(こけ)滑(なめら)かに、岩上の院々(ゐんゐん)扉(とびら)を閉ぢて物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這(は)ひて、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じやくまく)として心澄み行くのみ覚ゆ。
閑(しづ)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声
【現代語訳】
山形領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師が開かれた寺で、とても清らかで静かな所だ。一度は行って見るべきだと勧められたので、尾花沢から引き返したが、その間、七里ばかりある。着いたら、日はまだ暮れていない。まずは麓の宿坊で宿を借りておいて、山上の堂に登る。岩の上に巌が重なり合って山となり、松や檜(ひのき)は樹齢を重ね、土や石も長い年月の間に滑らかな苔におおわれ、岩上に建てられた御堂はみな扉を閉ざして、物音一つ聞こえない。崖を回り、岩を這って仏堂に詣でたが、周りのすばらしい景色は静寂に包まれ、心が澄みとおっていくばかりである。
山奥の寺の境内は、ひっそりとしずまりかえっている。せみの声がきこえているが、それすらも岩はだに吸い込まれていくようで、なおいっそう辺りのしずけさを際立たせている。「季語:蝉(夏)」
(注)慈覚大師・・・天台宗の高僧で、法名は円仁(えんにん)。最澄の弟子。
↑ ページの先頭へ
最上川(もがみがは)乗らんと、大石田(おほいしだ)といふ所に日和(ひより)を待つ。「ここに古き俳諧(はいかい)の種(たね)こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声(ろかくいつせい)の心を和(やは)らげ、この道にさぐり足(あし)して、新古(しんこ)ふた道に踏み迷ふといへども、道標(みちしるべ)する人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)残しぬ。このたびの風流、ここに至れり。
最上川は陸奥(みちのく)より出でて、山形を水上(みなかみ)とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)などいふ恐ろしき難所あり。板敷山(いたじきやま)の北を流れて、果ては酒田(さかた)の海に入(い)る。左右(さいう)山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船(いなぶね)といふならし。白糸(しらいと)の滝は青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂(せんにんだう)、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川
【現代語訳】
最上川を舟で下ろうと、大石田(山形県)という所で天気がよくなるのを待つ。「この土地には古風の俳諧の種がこぼれ、今なお花開いた昔を今も懐かしみ、葦笛や角笛を吹くような素朴さに心を和ませています。そして、新旧どちらの句風に進むべきか迷っているものの、とるべき道を指導してくれる人がいません」と俳諧の指導を頼まれて、やむを得ず歌仙を一巻残してきた。今回の風流の旅は、とうとうこんなことまでする結果になった。
最上川は、奥州から流れ出て、その上流は山形領である。碁点・隼などという恐ろしい難所がある。川は板敷山の北側を流れ、最後には酒田の海に注いでいる。川の両岸には山が覆いかぶさるように迫り、木々が茂っている中を船で下る。この船に稲を積んだのを「稲舟」というらしい。白糸の滝は、青葉の間々に見えながら流れ落ちており、仙人堂は川岸に面して立っている。川の水はみなぎり、舟は今にもひっくり返りそうだ。
あちらこちらに流れる五月雨の水を集め、最上川はいよいよ勢いよく流れていく。「季語:五月雨(夏)」
(注)歌仙・・・俳諧の形式の一つで、長句と短句を交互に36句詠む。
(注)仙人堂・・・義経の家臣、常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)を祀る外川(とがわ)神社のこと。
↑ ページの先頭へ
六月三日、羽黒山(はぐろやま)に登る。図司佐吉(づしさきち)といふ者を尋ねて、別当代(べつたうだい)会覚阿闍梨(ゑがくあじやり)に謁(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊において俳諧興行(はいかいこうぎやう)。
有難(ありがた)や雪をかをらす南谷(みなみだに)
五日、権現(ごんげん)に詣(まう)づ。当山(たうざん)開闢(かいびやく)能除大師(のうぢよだいし)は、いづれの代の人といふ事を知らず。延喜式(えんぎしき)に「羽州里山(うしうさとやま)の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山(うしうくろやま)を中略(ちゆうりやく)して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記に侍るとやらん。月山(ぐわつさん)・湯殿(ゆどの)を合はせて三山(さんざん)とす。当寺(たうじ)、武江(ぶかう)東叡(とうえい)に属して、天台止観(てんだいしくわん)の月明らかに、円頓融通(ゑんどんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かかげそひて、僧坊(そうばう)棟(むね)を並べ、修験行法(しゆげんぎやうほふ)を励まし、霊山霊地の験効(げんかう)、人貴びかつ恐る。繁栄(はんえい)長(とこしな)へにして、めでたき御山と謂(い)つつべし。
【現代語訳】
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を訪ねて、その案内で別当代の会覚阿闍梨にお目にかかった。私たちは南谷の別院に泊めてもらい、思いやり深くこまやかなもてなしを受けた。
四日、会覚阿闍梨が住まう本坊で俳諧が催された。
南谷の残雪を薫らすばかりに夏の風が吹き渡っている。さすがに清浄な霊地で、ありがたいことだ。「季語:(風)かをる(夏)」
五日、羽黒権現(出羽神社)に参詣する。この山の開祖の能除大師は、いつの時代の人かは分からない。また、延喜式には「羽州里山の神社」とある。これは書き写す人が、黒の字を誤って里山としたのだろうか。そうすると、羽州黒山を中略して羽黒山というのかもしれない。ちなみに、この地方を出羽というのは、鳥の羽毛をこの国の貢物として朝廷に献上したからだと、風土記に書いてあるとか。この山と月山・湯殿山を合わせて、出羽三山と称している。この寺は、江戸の東叡山寛永寺に属し、天台宗の止観の教義が月のように透徹し、円頓融通の仏法のともしびも輝きを加えて、僧坊は棟をつらね、修験者たちが熱心に修行を行い、この霊山霊地の効験もあらたかで、人々は貴び且つ恐れている。この繁栄は永遠であり、まことにすばらしい山というべきである。
(注)会覚阿闍梨・・・阿闍梨は天台宗の高僧の位。
(注)能除大師・・・実際は6世紀の人で、崇峻天皇の第3皇子。
(注)延喜式・・・平安初期の法令書。
(注)天台止観・・・天台宗がもっとも重視する修行実践法で、修験宗の中心的修行法・一般的座禅。
(注)円頓融通・・・天台宗の教義で、滞りなく融通無礙(ゆうずうむげ)の悟りの境地に達すること。
【PR】
↑ ページの先頭へ
八日、月山(ぐわつさん)に登る。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠(ほうくわん)に頭(かしら)を包み、強力(がうりき)といふものに導かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道(じつげつぎやうだう)の雲関(うんくわん)に入るかと怪しまれ、息絶え身こごえて、頂上に至れば、日没して月あらはる。笹を敷き、篠(しの)を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば湯殿(ゆどの)に下る。
谷の傍(かたはら)に鍛冶小屋(かぢごや)といふあり。この国の鍛冶、霊水(れいすい)を選びて、ここに潔斎(けつさい)して剣(つるぎ)を打ち、終(つひ)に月山と銘(めい)を切つて世に賞せらる。かの竜泉(りようせん)に剣を淬(にら)ぐとかや、干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)の昔を慕(した)ふ。道に堪能(かんのう)の執(しふ)浅からぬこと知られたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ば開けるあり。降り積む雪の下に埋(うづ)もれて、春を忘れぬ遅桜(おそざくら)の花の心わりなし。炎天の梅花(ばいくわ)ここに薫るがごとし。行尊僧正(ぎやうそんそうじやう)の歌の哀れもここに思ひ出でて、なほまさりて覚ゆ。惣(そう)じてこの山中の微細(みさい)、行者の法式として他言することを禁ず。よつて筆をとどめて記(しる)さず。坊に帰れば、阿闍梨(あじやり)の求めによつて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峯(みね)幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな
湯殿山(ゆどのやま)銭(ぜに)ふむ道の涙かな 曾良
【現代語訳】
八日、月山に登る。穢れを払う木綿注連(ゆうしめ)を身にかけ、宝冠に頭を包み、強力という者に道案内されて、雲や霧がただよう山の大気の中を、氷雪を踏んで登ること八里、いよいよ日や月の通路である天空の関所に入るのではと思われるほどで、息が絶え、身もこごえて頂上に達すると、日は没して月が現れた。山小屋で笹を敷き、篠竹を枕にして横になり、夜が明けるのを待った。やがて朝日が登り、雲も消えたので、湯殿に下った。
途中の谷のそばに鍛冶小屋というのがある。その昔、この国の刀鍛冶が霊水を選んで、ここで身や心を清めて刀を鍛え、仕上げに月山と銘を刻んで世に称せられた。中国で、あの龍泉で剣を鍛えたという干将と妻の莫耶の昔を慕う。一道に秀でた者の執念が並々でないことが知られる。岩に腰を下ろしてしばらく休んでいると、三尺ほどの桜の木のつぼみが半分くらい開いているのが目にとまった。降り積もる雪の下に埋もれていても、こうして春を忘れずに咲こうとする遅桜の花の心は健気である。禅にいうところの「炎天の梅花」が目の前で薫っているかのようである。行尊僧正の歌の趣きもここで思い出されて、いっそう感銘深く思われる。だいたい、この湯殿山中でのあれこれのことや行者の法式などは、他に話すことを禁じられている。よって、筆を置いてこれ以上は書かない。宿坊に帰ると、会覚阿闍梨の求めに応じて、三山を巡礼の句々を短冊に書いた。
ああ、涼しい。ほのかな三日月が出ている羽黒山には、心もすがすがしく清められる。「季語:涼しさ(夏)」
夏空の雲の峰が、いったい幾つ崩れて、夜の月山になるのだろう。「季語:雲の峰(夏)」
この湯殿の神秘は人に語られないが、それだけに有難さが感じられ、袂を涙で濡らすばかりだ。「季語:湯殿詣で(夏)」
湯殿山の参道に賽銭が散らばっている。銭を踏んで参拝するとは有難く涙がこぼれる。「季語:湯殿詣で(夏)」 曾良(の句)
(注)木綿注連・・・行者の登山装束。修験けさ。
(注)宝冠・・・白い木綿を頭巾のようにして頭に巻いたもの。行者の登山装束。
(注)干将・莫耶・・・中国春秋時代の刀鍛冶夫婦。呉王の命により二本の名刀を作り、「干将」「莫耶」と名づけて献上したという故事。
↑ ページの先頭へ
羽黒(はぐろ)を立ちて、鶴(つる)が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢぢゆうかう)といふ武士(もののふ)の家に迎へられて、俳諧(はいかい)一巻(ひとまき)あり。左吉(さきち)も共に送りぬ。川舟に乗りて、酒田(さかた)の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(ゑんあんふぎよく)といふ医師(くすし)のもとを宿とす。
あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕涼み
暑き日を海にいれたり最上川
【現代語訳】
羽黒山を立ち、鶴が岡(山形県)の城下の長山重行という武士の家に迎えられ、俳諧を開催し、一巻歌仙を作った。左吉(前出の図司佐吉)もここまで送ってくれた。川舟に乗って酒田の港へ下る。その日は淵庵不玉という医者の家を宿とする。
温海山(あつみやま)から吹浦を見下ろしている。「あつみ山」はその名のとおり暑そうな山だが、ここから涼しい風を思わせる吹浦を見渡しながら、夕涼みをしていることよ。「季語:夕涼み(夏)」
熱い夕日が海に沈み、あたりは涼しくなってきた。暑かった一日を最上川が海に流し込んでしまったのだ。「季語:暑き日(夏)」
(注)長山氏重行・・・庄内藩士で、芭蕉門下の俳人。
(注)淵庵不玉・・・伊東玄順。酒田の町医者で、芭蕉門下の俳人。
↑ ページの先頭へ
江山水陸(かうざんすいりく)の風光、数を尽くして、今(いま)象潟(きさかた)に方寸(はうすん)を責(せ)む。酒田の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を越え磯(いそ)を伝ひ、いさごを踏みて、その際(さい)十里、日影やや傾(かたぶ)くころ、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹き上げ、雨(あめ)朦朧(もうろう)として鳥海(てうかい)の山隠る。闇中(あんちゆう)に模索して、雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色(せいしよく)また頼もしきと、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。
その朝(あした)、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出(い)づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。先づ能因島(のういんじま)に舟を寄せて、三年(みとせ)幽居(いうきよ)の跡を訪(とぶら)ひ、向かふの岸に舟をあがれば、「花の上に漕(こ)ぐ」と詠まれし桜の老木(おいき)、西行法師(さいぎやうほふし)の記念(かたみ)を残す。江上(かうしやう)に御陵(みささぎ)あり、神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)といふ。この処に行幸(みゆき)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。
この寺の方丈(はうぢやう)に坐して簾(すだれ)を捲(ま)けば、風景一眼の中(うち)に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江(え)にあり。西はむやむやの関、路(みち)を限り、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥かに、海北に構へて、浪うち入(い)るる所を汐越(しほごし)といふ。江の縦横(じゆうわう)一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は怨むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢(ちせい)魂を悩ますに似たり。
象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花
汐越(しほごし)や鶴(つる)脛(はぎ)ぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理(れうり)何くふ神祭(かみまつり) 曾良
蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷きて夕涼み (美濃の国の商人)低耳
岩上にみさごの巣を見る
波こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣 曾良
【現代語訳】
川や山、海や陸の美しい風景を数限りなく見てきて、今は象潟(秋田県)へと心が急き立てられる。酒田の港から東北の方へ、山を越え磯伝いに砂路を十里も歩いて、日が西に傾くころに着いた。潮風が砂を吹き上げ、降りしきる雨でぼうっとけむり、鳥海山も隠れてしまった。暗い中を手探りで行くようで、雨もまた風変わりでおもしろいと思えば、やんだ後の晴れた景色も楽しみとばかりに、漁師の苫ぶきの小屋に入り込んで、雨が晴れるのを待った。
翌朝、空はよく晴れて、朝日がきらきらと輝き昇る頃、象潟に舟を浮かべた。まず能因島に舟を寄せて、能因法師が三年間幽居された跡を訪ね、向こうに見える島の岸に上がると、西行法師が「花の上を漕ぐ」と詠まれた桜の老木があり、今もなお記念となっていた。入江のほとりに御陵があり、神功皇后のお墓だという。この寺を干満珠寺という。しかし、皇后がこの地に御幸されたとは聞いたことがない。どうしたわけだろう。
この寺の部屋に坐して簾を上げると、風景は一望に見渡され、南には鳥海山が天を支え、その山影が入江映っている。西にはむやむやの関が道をさえぎり、東には堤を築いて秋田に通じる道が遥かに伸び、北には日本海がどっかりとひかえ、その波が打ち寄せる所を汐越と呼ぶ。入江の縦横は一里ばかりで、その姿は松島に似ているようで、また異なってもいる。松島は笑っているようであり、象潟は何か怨んでいるようである。寂しさに悲しみが加わって、土地の趣は、美人が心を悩ましているようである。
雨にけむる象潟にねむの花が咲いている。それはまるで薄幸の美女・西施が悩ましく目を閉じているかのようだ。「季語:ねぶの花(夏)」
汐越に下り立った鶴の足元に、波が寄せて足を濡らしている。いかにも涼しげな海の光景である。「季語:涼し(夏)」
お祭り
象潟は折りしも熊野権現のお祭だ。こんな海辺の田舎ではどんな料理を食べるのだろう。「季語:神祭(夏)」
漁師の家々では、夕方になると雨戸を持ち出し、それに腰を下ろして夕涼みをしている。「季語:夕涼み(夏)」 (美濃の国の商人)低耳(の句)
岩上にみさごの巣があるのを見て、
波も越えられないほどに、磐石な契りを交わして岩上につくったのであろうか、あのみさごの巣は。「季語:みさごの巣(夏)」 曾良(の句)
(注)西施・・・中国周代の越の美女。
【PR】
↑ ページの先頭へ
酒田(さかた)の余波(なごり)日を重ねて、北陸道(ほくろくだう)の雲に望む。遙々(えうえう)の思ひ胸をいたましめて、加賀(かが)の府まで百三十里と聞く。鼠(ねず)の関を越ゆれば、越後(ゑちご)の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中(ゑつちゆう)の国(くに)市振(いちぶり)の関に至る。この間(かん)九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)を悩まし、病おこりて事を記(しる)さず。
文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず
荒海(あらうみ)や佐渡(さど)に横たふ天(あま)の河(がは)
【現代語訳】
酒田の人々との惜別に日数が重なったが、いよいよ北陸道の雲を望む。遥かな旅路への思いが胸を痛ませ、加賀の国府(金沢)までは百三十里だと聞く。鼠の関を越えると、越後(新潟県)の地に気持ちも新たに歩を進め、越中の国(富山県)の市振の関(越後と越中の国境の関所)に着いた。この間九日は、暑さと湿気にたたられて気分がすぐれず、持病も起こって、道中の事を記さないでしまった。
七月、明日は牽牛と織女が逢う七夕だと思うと、まだ六日なのにいつもの夜とは違う趣きがする。「季語:文月(秋)」
荒れ狂う日本海の荒波の向こうには佐渡ケ島がある。空を見上げると、白く美しい天の川が、佐渡の方までのびて横たわっていて、とても雄大だ。「季語:天の河(秋)」
↑ ページの先頭へ
今日(けふ)は親知らず・子知らず・犬もどり・駒返(こまがへ)しなどいふ北国(ほくこく)一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方(かた)に、若き女の声、二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男(をのこ)の声も交(まじ)りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男(をのこ)の送りて、明日(あす)は故郷(ふるさと)に返す文(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。白浪(しらなみ)の寄する汀(なぎさ)に身をはふらかし、海士(あま)のこの世をあさましう下(くだ)りて、定めなき契り、日々の業因(ごふいん)いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、朝(あした)旅立つに、我々に向かひて、「行方(ゆくへ)知らぬ旅路(たびぢ)の憂さ、あまり覚つかなう悲しく侍れば、見え隠れにも御跡(おんあと)を慕(した)ひ侍らん。衣(ころも)の上の御情(おんなさけ)に、大慈(だいじ)の恵みを垂れて、結縁(けちえん)せさせ給へ」と涙を落とす。「不便(ふびん)の事には侍れども、我々は所々にてとどまる方(かた)多し。ただ、人の行くに任せて行くべし。神明(しんめい)の加護、必ず恙(つつが)なかるべし」と言ひ捨てて出(い)でつつ、哀れさしばらく止まざりけらし。
一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月
曾良(そら)に語れば、書きとどめ侍る。
【現代語訳】
今日は、親知らず・子知らず・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れたので、枕を引き寄せて早く寝たところ、ふすま一つ隔てた表のほうの部屋で、若い女の声が二人いるらしく聞こえる。年取った男の声もまじり、話をしているのを聞けば、女は越後の国の新潟出身の遊女だった。伊勢参宮するために、この市振の関まで男が送ってきて、明日は故郷に帰るので、手紙を書いてとりとめない伝言を託しているようだ。「白波が打ち寄せる海辺の町に遊女として身をさすらえ、家もない漁師の子のようにひどくこの世に落ちぶれて、客とのはかない契りを重ねる日々を過ごす、私たちの前世の業はどれほど悪いものであったのでしょう」などと話しているのを聞きながら、寝入ってしまった。翌朝、旅立とうとすると、彼女らが我々に向かい、「この先どう行ったらよいか分からない道中の心細さで、とても不安で悲しく存じますので、見え隠れにでもあなた様方のお後について参りたく思います。僧衣をつけていらっしゃるお情けとして、どうか仏様のご慈悲をお恵み下さり、仏縁を結ばせてくださいませ」と、涙を流して頼む。「お気の毒ではありますが、私たちはあちこちに留まる所が多い。ただ同じ方向へ行く人たちの後について行きなさい。伊勢の神様のご加護で、必ず無事にたどり着けるでしょう」と言い捨てて出立したものの、可哀想な気持ちがしばらくおさまらなかったことだ。
同じ屋根の下に、はからずも可憐な遊女と浮世離れした僧衣の旅人とが一夜を明かすことになった。それはあたかも、庭に咲く萩と、はるか離れて照っている月との取り合わせのようだ。「季語:萩、月(秋)」
と詠んで曾良に語れば、曾良はそれを書き留めた。
↑ ページの先頭へ
黒部(くろべ)四十八(しじゅうはち)か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(なご)といふ浦に出づ。担籠(たご)の藤浪(ふぢなみ)は、春ならずとも、初秋の哀れ訪(と)ふべきものをと、人に尋れば、「これより五里、磯伝ひして、むかふの山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」と言ひをどされて、加賀の国に入る。
早稲(わせ)の香(か)や分け入る右は有磯海(ありそうみ)
【現代語訳】
黒部四十八が瀬とかいう、数え切れないほどの分流の川を渡って、那古(富山県)という浦に出た。その先にある担籠の藤浪は、春でなくともせめて初秋の趣ある頃に訪ねたいものだと、人に道を聞くと、「ここから五里、磯伝いに進んで、向こうの山陰に入ったところです。しかし、漁師の家も質素だから、蘆の茂る水辺には一夜の宿さえ貸してくれる人はないでしょう」と脅かされて、諦めて加賀の国に入る。
早稲の香りに包まれて加賀の国に分け入って右に行けば、かの有名な有磯海が広がっている。「季語:早稲(秋)」
(注)担籠の藤浪・・・富山県氷見市の藤波神社にあった藤の名所。
↑ ページの先頭へ
卯(う)の花山(はなやま)・倶利伽羅(くりから)が谷を越えて、金沢は七月(ふみつき)中(なか)の五日なり。ここに大坂より通ふ商人(しやうにん)何処(かしよ)といふ者あり。それが旅宿(りよしゆく)をともにす。
一笑(いつせう)といふ者は、この道に好(す)ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人も侍りしに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)したりとて、その兄(あに)追善(ついぜん)を催すに、
塚(つか)も動けわが泣く声は秋の風
ある草庵にいざなはれて
秋涼し手ごとにむけや瓜(うり)茄子(なすび)
途中吟
あかあかと日はつれなくも秋の風
【現代語訳】
卯の花山・倶利伽羅峠を越えて、金沢に着いたのは、七月十五日(陰暦)のことである。ちょうどその日、大坂から仕事に来ていた大阪の商人、何処(芭蕉門下)という者が来ていたので、その人が泊まっている宿に同宿した。
金沢の一笑という者は、俳諧の道の愛好家であるという評判がうすうす聞こえ、世間で知っている人もあったのだが、去年の冬に早世し、その兄が追善供養を催したので、
塚の下に眠る一笑よ、応えておくれ。この秋風の吹きすさぶ音こそが、私の悲痛な慟哭の声なのだよ。「季語:秋の風(秋)」
ある草庵に招かれたときに、
涼しい秋の草庵で受けるおもてなしの有難いことよ。さあ、固苦しいことは抜きにして、めいめいの手で瓜や茄子をむいていただきましょう。「季語:秋涼し(秋)」
道すがら詠んだ句、
秋の日はもうつれなく赤々と傾いている。心寂しい秋風も吹いてきて、とても心細いことよ。「季語:秋の風(秋)」
(注)倶利伽羅が谷・・・源平合戦の古戦場。
(注)一笑・・・金沢在住だった門人の小杉一笑。芭蕉の来遊を待たずに36歳で亡くなった。
【PR】
↑ ページの先頭へ
小松といふ所にて、
しをらしき名や小松(こまつ)吹く萩すすき
この所(ところ)多太(ただ)の神社に詣(まう)づ。実盛(さねもり)が甲(かぶと)、錦(にしき)の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公(よしともこう)より賜(たま)はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらざむらひ)の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊唐草(きくからくさ)の彫りもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打ちたり。実盛(さねもり)討死(うちじに)の後、木曾義仲(きそよしなか)願状(ぐわんじやう)に添へて、この社(やしろ)にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事ども、まのあたり縁起(えんぎ)に見えたり。
むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす
【現代語訳】
小松という所で詠んだ句、
何とも可憐な名の小松。その名のとおり、小さい松に風が吹き渡り、萩やススキをなびかせていることだ。「季語:萩すすき(秋)」
この地にある多太神社に参詣した。ここには斎藤実盛(平家の武将)の甲と錦の直垂(ひたたれ)の切れ端が納められている。その昔、実盛が源氏に属していた時、義朝公から賜ったものであるという。いかにも平侍が着けるものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様の彫り物があり、そこに黄金がちりばめられ、竜頭に鍬形がつけられている。実盛が討死した後、木曾義仲が供養の文書をを添えて、この神社に奉納なさったことや、樋口の次郎がその使者となったことなどが、まざまざと見えるように神社の縁起に記されている。
何とも痛ましいことだ、この甲を戴いて奮戦したであろう実盛だが、今はその下でこおろぎが鳴いている。「季語:きりぎりす(秋)」
(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】