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おくの細道

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那谷・山中

 山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行くほど、白根(しらね)が嶽(だけ)(あと)に見なして歩む。左の山際に観音堂あり。花山(くわさん)の法皇、三十三所の巡礼遂げさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名づけ給ふとなり。那智(なち)・谷汲(たにぐみ)の二字を分かち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしよう)植ゑ並べて、萱(かや)ぶきの小堂(せうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝(しゆしよう)の土地なり。

 石山(いしやま)の石より白し秋の風

 温泉(いでゆ)に浴(よく)す。其(そ)の功(こう)有馬(ありま)に次ぐといふ。

 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ

 あるじとする者は、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(せうどう)なり。彼が父、俳諧を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ)若輩(じやくはい)の昔、ここに来(きた)りし比(ころ)、風雅に辱(はづか)しめられて、洛に帰りて貞徳(ていとく)の門人となつて世に知らる。功名の後(のち)、この一村(いつそん)判詞(はんし)の料(れう)を請(う)けずといふ。今更(いまさら)昔語りとはなりぬ。

 曾良は腹を病(や)みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行き行きて倒れ伏すとも萩(はぎ)の原 曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者のうらみ、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし。予もまた、

 今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露(つゆ)

【現代語訳】
 山中温泉(石川県)に行く途中、白根が嶽を後ろに見ながら行く。左手の山沿いには観音堂(那谷寺)がある。この寺は、花山法皇が西国三十三か所の巡礼をとげられた後、ここに大慈大悲の像を安置なされて、那谷寺と名づけられたという。那智と谷汲から二字をお取りになったとか。珍しい形の石がさまざまにあり、老松が並べて植えられ、萱ぶきの小さなお堂が岩の上に造られていて、何ともありがたい景色の地である。

 ここの岩山の石は白くさらされて、石山寺の石よりも白く、吹く秋風よりもしろじろとした感じがする。「季語:秋の風(秋)」

山中温泉に入る。その効能は、有馬温泉に次ぐといわれる。

 菊の露を飲んで八百歳の長寿を生きたという菊慈童の伝説があるが、ここ山中では菊を手折る必要もない湯の香りが、においやかに立ち昇っている。「季語:菊(秋)」

 宿の主人は久米之助といい、まだ少年である。彼の父は生前、俳諧を好み、昔、京都の貞室が若い頃にここに来て、俳諧の席で心得がなく、この父に恥をかかされたことがある。貞室は京に帰って貞徳に入門し、ついには世に知られるようになった。名をなした後も、この山中の一村からは、俳諧の添削料を受け取らなかったという。今ではこんな話も昔語りとなってしまった。

 曾良は腹を病んで、伊勢国(三重県)の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発することになったが、次の句を書き残した。

 行けるところまで行って、そこで倒れ伏すようなことがあっても、萩の花の中で死ぬのなら本望だ。「季語:萩(秋)」 曾良(の句)

 先に行く者の悲しみ、あとに残る者のうらみは、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。私もまた、

 これからは一人道を行くことになる。門出のとき笠に書いた「同行二人」の文字を消そうか、笠にかかる露と別れの涙によって。「季語:露(秋)」

(注)貞室・・・安原貞室。江戸時代前期の俳人。
(注)隻鳧・・・仲間に別れた一羽の鳧の意。「鳧」は鳩ほどの大きさのチドリ科の鳥で、河川や水田に棲み、冬に南方に渡る。
(注)同行二人・・・当時、巡礼者は笠に「同行二人」と書きつける習慣があり、仏と我の二人を意味したが、芭蕉はここでは自分と曾良に読み替えている。
(注)曾良と別れた芭蕉には、金沢から随行してきた北枝が供をすることになった。

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全昌寺

 大聖寺(だいしやうじ)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺に泊まる。猶(なほ)加賀の地なり。曾良も前の夜(よ)、この寺に泊まりて、

 終宵(よもすがら)秋風(あきかぜ)聞くや裏の山

と残す。一夜(いちや)の隔(へだ)て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮(しゆれう)に臥せば、あけぼのの空近う、読経(どきやう)声澄むままに、鐘板(しようばん)鳴りて食堂(じきだう)に入(い)る。今日(けふ)は越前(ゑちぜん)の国へと、心(こころ)早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙硯(しけん)をかかへ、階(きざはし)の下(もと)まで追ひ来たる。折節(をりふし)庭中(ていちゆう)の柳(やなぎ)散れば、

 庭(には)掃(はき)て出(い)でばや寺に散る柳

取りあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら書き捨(す)つ。

 越前の境(さかひ)、吉崎(よしざき)の入江を舟に棹(さをさ)して、汐越(しほごし)の松を尋(たづ)ぬ。

 終宵(よもすがら)嵐に波を運ばせて月を垂れたる汐越の松  西行

 この一首にて、数景(すけい)(つ)きたり。もし一弁(いちべん)を加(くわ)ふるものは、無用の指(し)を立つるがごとし。

【現代語訳】
 大聖寺(石川県)の城外にある、全昌寺という寺に泊まる。いまだ加賀の国である。曾良も前の晩この寺に泊まり、

 一晩中眠ることができず、裏山に吹きわたる秋風を聞いていた。師と別れた寂しさが身にしみる。「季語:秋風(秋)」

という句を残していた。たった一晩を隔てただけなのに、千里も遠く離れたように寂しく心細い。私も、同じく秋風を聞きながら修行僧の寮に横になっていると、夜明けの空がしだいに明るみ、読経の声が澄んで聞こえてくる。やがて食事を告げる鐘板が鳴ったので、修行僧らとともに食堂に入った。今日は越前の国(福井県)に越えるので、あわただしい気持ちで堂から出ると、若い僧たちが紙や硯を抱えて寺の石段の下まで追ってきた。ちょうど庭に柳の葉が散っていたので、

 寺の境内に柳の葉が散り敷いている。寺に泊めてもらったお礼に、ほうきで掃いてから出発します。「季語:柳(秋)」

と、取りあえずの即興の吟として、草鞋をはいたまま走り書きした。

 加賀と越前の境、吉崎の入江から舟を出して渡り、汐越の松を訪ねた。その昔、西行はこの松を次のように詠んだ。

 夜通し、秋の嵐に波をはこばせて打ち寄せさせ、汐越の松の梢に波の雫がしたたっている。それに月光が映り、まるで月の雫のようだ。 西行(の歌)

 この一首の中に、ここにある美しい景色は詠み尽くされている(実際は、蓮如上人の作という)。もし一言付け加えるものがあれば、五本ある指になお無用の指を付け加えるようなものだ。

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天竜寺・永平寺

 丸岡(まるをか)天竜寺(てんりゆうじ)の長老、古き因(ちな)みあれば尋(たづ)ぬ。また、金沢の北枝(ほくし)といふ者、かりそめに見送りてこの所まで慕ひ来る。所々の風景過ぐさず思ひ続けて、折節(をりふし)あはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れに臨みて、

 物書て扇(あふぎ)引さく余波(なごり)かな

 五十丁(ごじつちやう)山に入りて、永平寺(えいへいじ)を礼(らい)す。道元禅師(だうげんぜんじ)の御寺(みてら)なり。邦機(はうき)千里を避けて、かかる山陰(やまかげ)に跡を残し給ふも、貴きゆへありとかや。

【現代語訳】
 丸岡(福井県)にある天竜寺の長老は、古くからの知人だから訪ねた。また、金沢の北枝という者がちょっとだけ見送るといいつつ、とうとうここまで慕いついてきてくれた。道すがら、その場その場の美しい景色を見逃さず句を作り、時々は句の意図を解説してくれた。その北枝ともここでお別れだ。

 
北枝よ、いよいよお別れの時が来たが、道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、また秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ。「季語:秋扇・捨て扇(秋)」

 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。

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福井

 福井は三里ばかりなれば、夕飯(ゆうげ)したためて出づるに、黄昏(たそかれ)の道たどたどし。ここに等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんし)あり。いづれの年にか江戸に来たりて予を尋ぬ。 遙か十年(ととせ)余りなり。いかに老さらぼひてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命してそこそこと教(をし)ふ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家(こいへ)に、夕顔・へちまの延(は)へかかりて、鶏頭(けいとう)・帚木(ははきぎ)に戸ぼそを隠す。さては、この内にこそと門(かど)をたたけば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじはこのあたり何某(なにがし)といふ者の方に行きぬ。もし用あらば尋ね給へ」と言ふ。かれが妻なるべしと知らる。昔物語にこそかかる風情は侍れと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜(ふたよ)泊まりて、名月は敦賀(つるが)の港にと旅立つ。等栽も共に送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、路の枝折(しおり)と浮かれ立つ。

【現代語訳】
 福井まではここから三里ほどなので、寺で夕飯をすませてから出発したが、夕暮れの道なので思うように進まない。この地に等裁という旧知の、俗世を離れて暮らしている人がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてきたことがある。もう十年も前の話だ。どれほど年を取ってるだろうか、いやもう亡くなっているかもしれぬと人に尋ねると、いまだ存命でどこそこに住んでいると教えてくれた。町中のちょっと引っ込んだ所にみすぼらしい小家があり、夕顔やへちまの蔓が這いまわり、鶏頭や帚木で戸が隠れている。きっとこの家だなと門を叩けば、心細げな女が出てきて、「どこからいらっしゃった旅のお坊様ですか。主人はこの近くの何某という者の家に行っています。もし御用でしたらそちらをお尋ねください」と言う。等裁の妻に違いない。昔の物語にもこんな風情ある場面があったなあと思いつつ(源氏物語の「夕顔」の巻を踏まえる)、そのまま訪ねて会えた。その等裁の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅立った。等裁が見送ろうとして、裾を粋にまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれた。

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敦賀

 やうやう白根(しらね)が嶽(だけ)隠れて、比那(ひな)が嵩(だけ)現る。あさむづの橋を渡りて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂に出でにけり。鶯(うぐひす)の関を過ぎて、湯尾(ゆのを)峠を越ゆれば、燧(ひうち)が城、帰山(かへるやま)に初雁(はつかり)を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。

 その夜、月(つき)(こと)に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」と言へば、「越路(こしぢ)の習ひ、なほ明夜(めいや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒勧められて、気比(けい)の明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゆうあい)天皇の御廟(ごべう)なり。社頭(しやとう)(かん)さびて、松の木(こ)の間に月の漏り入りたる、御前(おまへ)の白砂(はくさ)、霜を敷けるがごとし。往昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世(にせ)の上人(しやうにん)、大願発起(たいぐわんほつき)の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいねい)をかはかせて、参詣往来の煩(わずら)ひなし。古例(これい)今に絶えず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍る、と亭主の語りける。

 月清し遊行の持てる砂の上

 十五日、亭主のことばにたがはず雨降る。

 名月や北国(ほくこく)日和(びより)定なき

【現代語訳】
 ようやく白山が見えなくなり、かわって比那岳が現れてきた。あさむづの橋を渡ると、玉江の蘆は穂を実らせている。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、燧が城、帰山に初雁が鳴くのを聞いて、十四日の夕暮れに、敦賀の港に宿を求めた。

 その夜の月はことさら晴れて見事だった。「明日の夜もこうあってほしいものだ」と言うと、宿の主人から「越路では、明日の夜がこんなふうに晴れるかどうか、予測がつきません」と言われ、酒を勧められ、その後で気比神社に夜のお参りをした。ここは仲哀天皇の御廟である。境内は神々しい趣で、松の梢の間から月の光が漏れている。神前の白砂は霜を敷き詰めたように見える。「昔、遊行二世の上人が、大願成就を願って、自ら草を刈り、土石を担い、ぬかるみや水たまりの道を補修なさったので、参詣に行き来する人は困らなくなりました。それ以来、代々の上人はみな神前に砂を担いでお運びになります。これを遊行の砂持ちと言っております」と、宿の主人は語った。

 
歴代の遊行上人が運んだという白砂、その白砂を照らす月の光の、なんと清らかで神々しいことか。「季語:月(秋)」

 翌十五日は、やはり亭主の言葉どおり、雨が降った。

 
せっかくの中秋の名月なのに、あいにく雨になってしまった。本当に北国の天気は変わりやすいものなのだな。「季語:明月(秋)」

(注)あさむづの橋・・・『枕草子』に「橋は、あさむつの橋」と、第一番目に紹介されている。
(注)燧が城・・・木曾義仲が陣を構えた古戦場。
(注)遊行二世の上人・・・時宗開祖の一遍上人の高弟、他阿(たあ)上人。。

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種の浜

 十六日、空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと、種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某(てんやなにがし)といふ者、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとり乗せて、追ひ風、時の間に吹き着きぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺(ほつけでら)あり。ここに茶を飲み、酒をあたためて、夕暮れの寂しさ、感に堪へたり。

 寂しさや須磨(すま)に勝ちたる浜の秋

 波の間や小貝にまじる萩の塵(ちり)

その日のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。

【現代語訳】
 十六日、空が晴れたので、西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと、種の浜に舟を出した。海上を七里進んだ。天屋何某という者が、弁当箱や酒の入った竹筒など、心細かに酒食を用意させ、使用人を多く乗せて出発したが、追い風だったので普通より早く色の浜に着いた。浜にはわずかに漁師の小家があるだけで、侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めてもらうと、夕暮れの寂しさが心に迫ってきた。

 
光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、この種の浜はそれにも負けず寂しいことよ。「季語:秋(秋)」

 波が寄せては返す間に、砂浜を見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のようにまじっていた。「季語:萩(秋)」


 その日のあらましを等裁に筆をとらせて寺に残した。

(注)ますほの小貝・・・桜色の小指の爪のような形の貝。学名を千鳥マスオ貝という。

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大垣

 露通(ろつう)もこの港まで出(い)で迎(むか)ひて、美濃の国へと伴(とも)なふ。駒にたすけられて、大垣(おほがき)の庄に入(い)れば、曾良も伊勢より来たり合ひ、越人(ゑつじん)も馬を飛ばせて、如行(じよかう)が家に入(い)り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、その外(ほか)親しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)の者に会ふがごとく、かつ悦びかついたはる。旅の物うさもいまだ止まざるに、長月(ながつき)六日になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)(をが)まんと、また舟にのりて

 蛤(はまぐり)のふた見にわかれ行く秋ぞ

【現代語訳】
 露通もこの敦賀の港まで出迎えに来て、美濃の国(岐阜県)へ伴って行く。馬に助けられて大垣の庄へ入ると、山中温泉で別れていた曾良も伊勢から合流し、越人も馬を飛ばせてやって来て、如行の家にみんなが集まった。前川子や荊口父子ほか、親しい人々が日夜訪ねてきて、まるであの世から生き返った人間にでも会うように、喜んだりいたわったりしてくれる。旅に疲れた気分が抜けきらないうちに、九月六日になったので、伊勢のご遷宮を拝もうと、また舟に乗って、

 蛤の蓋と身が分かれるように、親しい人々と別れて、私は二見を見に行く。季節は秋も終わりかけ、寂しさがいっそうつのる。「季語:行く秋(秋)」

(注)露通、越人、如行、前川子、茨口父子・・・いずれも芭蕉の門人。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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「おくの細道」の旅程

3月27日
 江戸を出発
4月1日
 日光
4月4日
 黒羽
4月5日
 雲巌寺
4月9日
 光明寺
4月19日
 温泉神社、殺生石
4月20日
 白河の関跡
4月22日
 須賀川
5月2日
 飯坂
5月4日
 多賀城
5月9日
 松島
5月12日
 平泉
5月14日
 尿前の関
5月17日
 尾花沢
5月27日
 立石寺
5月28日
 大石田
6月5~7日
 出羽三山
6月10日
 鶴岡
6月13日
 酒田
6月16日
 象潟
6月26日
 鼠の関
7月2日
 新潟
7月3日
 弥彦
7月4日
 越後、出雲崎
7月12日
 市振の関
7月15日
 金沢
7月27日
 山中温泉
8月5日
 小松、那谷寺
8月7日
 大聖寺、熊谷山全昌寺
8月9日
 越前、吉崎
8月10日
 松岡、天龍寺
8月12日
 福井
8月14日
 敦賀
8月16日
 種の浜
8月29日
 大垣

※日付は陰暦。陽暦では5月16日から10月12日までの旅。

曾良について

芭蕉の「おくの細道」の旅に同行した曾良は信州上諏訪の出身で、本名は岩波庄右衛門、通称は河合惣五郎。12歳の時に養父母が亡くなったため、伊勢国長島にいる伯父のもとに引き取られ、20歳前後から30歳半ばまで伊勢長島藩に仕えた。その後致仕して江戸に下り、芭蕉に俳諧を学んだ。温厚篤実な人柄で、芭蕉庵近くに住み、師の日常生活の世話もした。

「おくの細道」の旅では秘書的な役割を担い、また、丹念な随行日記を書き残している。この日記から、事実の記録と思われていた『おくの細道』が、少なからず創作を含んでいることが判明し、『おくの細道』の研究には欠かせない一級の資料となっている。

曾良は、芭蕉の門弟として蕉門十哲の一人とされる場合もある一方、俳人以外の別の顔も持っていた。神道学に通じ神官に講義するほどの学識があったし、地理学にも詳しかった。さらに公用と思われる単独の旅も多く、旅の理由も不明点が多い。芭蕉没後には幕府の巡見使(地方視察官)として九州に派遣されており、巡見途上の壱岐で客死している。享年62歳。

参考文献

おくの細道 現代語訳付
~古典教養文庫/上妻純一郎

おくの細道/ビギナーズ・クラシックス
~角川ソフィア文庫

すらすら読める奥の細道
~講談社文庫/立松和平

新訂国語総覧
~京都書房
 

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