ローマ帝国時代に活躍したアウグスティヌスによって、混乱していたキリスト教の教義が定まり、教会組織も安定して、しばらく平穏な時代が続きました。ところが、12世紀から13世紀にかけて、アリストテレスの著作群が翻訳されて西ヨーロッパのキリスト教圏に入ってくると、彼らの信仰を揺るがすような由々しき事態が生じました。
アリストテレスといえば、さまざまな自然現象を理性によって観察し、それらの特徴を整理し体系づけて理解する学問の創始者であり、現代の学問にも連なる「万学の祖」といわれる知の巨人です。そのアリストテレスが、千数百年も前の哲学者であるにもかかわらず、当時のキリスト教世界に、「斬新な現代思想」「最先端の知」として立ち現れたのです。
始めのうちは、彼の論理学に関する著作の一部しか伝わっていなかったのですが、アリストテレスの全体像が知られてくるにつれて、キリスト教世界の知識人の間で、アリストテレスを受け容れるべきか否かの激しい論争と確執が生じてきました。なぜなら、キリスト教が成立する以前につくられたアリストテレスの哲学体系が、キリスト教の教義と矛盾するという決定的な問題を抱えていたからです。
それまでは、聖書に基づいたキリスト教的な世界観のみでこの世界を全体的に説明できていました。ところが、アリストテレスは「神の啓示」などといった超自然的なものとは無関係に、経験と理性のみによってこの世界の全体を説明する方式を示していました。動物学から宇宙論にまで至る彼の自然哲学は、キリスト教の世界観を、真っ向から打破する可能性があったのです。
そうした流れから、「全能のパラドックス」なる命題が登場し、「全能の神は、自らを全能でなくすることができるのか。もしできないのであれば神は全能ではないことになり、できるのならその時点で全能の存在ではなくなってしまう」として、そもそも全能の神など存在しないとの主張も現れました。そのほかにも、哲学の理性によって、さまざまな懐疑があぶり出され、まさに信仰の危機の状態に陥ったのです。
そしてとうとう、神学の真理と哲学の真理は別々の領域にあり、キリスト教信仰の真理に反する内容を有するものがあっても、哲学上は真理とみなしうる、すなわちどちらも正しいという「二重真理説」なる妥協案が登場します。しかしこれはどう見ても神学側の旗色が悪い話です。そこで、そんな妥協を決して許さないとして現れたのが、イタリア生まれのトマス・アクイナスです。
トマスは、貴族の名家の出身で、無口で内向的ながらも敬虔な少年で、5歳から14歳になるまでモンテ・カシーノのベネディクト会修道院で初等教育を受けました。同修道院の院長はトマスの伯父でしたから、トマスもやがて院長として伯父の後を継ぐことが期待されていました。その後、学問研究のためナポリ大学に行きましたが、そこで彼は、新進気鋭の修道会「ドミニコ会」に出会い、入会を決意します。
ドミニコ会は「清貧と童貞」を戒律とする厳しい修道院でしたが、彼の両親は、海のものとも山のものとも分からないドミニコ会への入会に強く反対します。ナポリの大司教の職をトマスに買い与えようとしますが応じないため、とうとう居城にトマスを監禁してまいます。さらには若い女性を彼の監禁部屋に引き入れて誘惑させ、童貞を失わせようとするのです。さすがのトマスもその誘惑に負けそうになったといわれますが、結局は彼女を追い出し、意志を貫きとおしたのでした。
それほどに頑ななトマスは、神学と哲学の安易な妥協を、決して許そうとはしませんでした。そして、アリストテレスの自然哲学を、もはや弾圧や禁止では抑えきれなくなっていたキリスト教の危機を救おうとしました。そこで彼がとった方法は、キリスト教神学をアリストテレス哲学で解釈する、言い換えれば、哲学(理性)の論理的な手続きを逆手にとって哲学(理性)に対抗しようとするという離れ業でした。
トマスは、神の存在を自然的理性で証明しようとし、地上で毎日、昼と夜が交替するという現象に注目しました。当時は地球が球体であるとほぼ認められており、彼はこの現象を太陽や月などが付着している天球が地球の周りを回っているからだと説明し、アリストテレスが言うように、その運動には必ず「動かし手」がある。しかし、それ以上のことは理性では証明できない。巨大な天が動くことこそ、はるかな天の彼方に神の住所があることの証明だと説きます。また世界の永遠性という問題についても、人間の理性では決して証明できないとしました。
つまり、理性が知ることのできる真理には限界があり、絶対に到達できない領域がある。そして、理性を超えた範囲にある真理は、神学でしか回答を得ることができず、神の啓示からでしか知ることができない。従って、神学と哲学それぞれの真理は決して対立するものではなく、また妥協すべきものでもない。そもそも両者の次元、段階が違っているのだ、と。
トマスの著作は18にも及び、特に『神学大全』と『対異教徒大全』は最も重要とされます。この二つを合わせると、キリスト教思想の百科事典的な内容となっており、前者は啓示に基づいて書かれ、後者はキリスト教信仰を哲学(理性)で確証しようとしたものです。トマスの著作は種々の反発や批判を受けましたが、ローマ・カトリックの思想界では卓越したものとなり、それは現代まで続いています。
なお、トマスの為人がずいぶん気になるところですが、パリ大学神学部の教授となって教鞭をとっていた時代の人々の記録によると、トマスは非常に太った大柄な体格で、色黒で頭ははげ気味だったといいます。しかし所作の端々に育ちのよさが表れ、とても親しみやすい人柄であったようです。議論をしても逆上するようなことなく常に冷静で、論争者たちもその人柄にほれこむほどであったそうです。記憶力に優れ、研究に没頭すると我を忘れるほど集中し、そしてひとたび彼が話し始めるとその論理のわかりやすさと正確さによって強い印象を与えていたといいます。
しかし、1273年12月、『神学大全』第3部の著作を進めていたトマスは、聖ニコラウスの祝日のミサの間に不思議な変化を感じとり、突然筆をおいたのです。驚いて著作を続行するようすすめる同僚に対し、トマスはただ「私にはできない。私に新たに啓示された事柄にくらべると、私がこれまで書いたものは全て藁(わら)くずのように見える」と答えたといいます。いったい何があったのでしょうか。
トマス・アクィナスの著作
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トマス・アクィナスの言葉から
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