1909年の伊藤博文の暗殺を受けて、日本の対韓政策は大幅に変更されることとなりました。友好的にやろうと思っていたのを、テロでお返しされたら態度が変わるのも当然でしょう。また、韓国側からも「日韓併合」の提案が起きました。しかもそれは韓国政府からだけではなく、韓国一心会という自称100万人の会員を擁する民間団体が「韓日合邦を要求する声明書」を出したりしました。
しかし、日本はまだ併合には慎重で、朝鮮半島を領土とすることに対して列国や清国がどう思うかをまず気にしました。そこで日本が関係国に併合の件を打診したところ、米英をはじめ一国も反対しませんでした。アメリカのルーズベルト大統領などは「朝鮮半島は日本のものである」とさえ公言しました。彼らがこの時に呈示してきた条件は「すでに韓国と結んだ通商条約を廃止しないでくれ」ということだけでした。
列国は日本に対するのと同様に、韓国とも不平等条約を結んでいたので、極めて低い関税で韓国に商品を輸出しており、それを併合後も続けたいという条件だったのです。また米英の新聞も、東アジアの安定のために日韓併合を支持するという姿勢を示しました。ここに及んで、日本ははじめて日韓併合条約を結ぶことにしたのです。
日韓併合は、このような慎重な手続を経て実現されました。そして、併合後も朝鮮王族の地位は保全され、皇室に準ずるものとされ、朝鮮の貴族も日本の華族と同じ扱いとされました。さらに、新たに戸籍制度を導入し、それまで姓を持つことを許されていなかった賤民らにも姓を名乗らせて、戸籍には身分を記載することなく登録させました。
しかしながら、結局は、日本の朝鮮経営は圧倒的な赤字でした。鉄道や道路、港湾などの社会的インフラが皆無の状況だったため、たいへんな出費を強いられたからです。義務教育もなかっため、朝鮮総督府は学校建設を最大課題としてハングルによる義務教育の普及に尽力しました。併合直前には100校程度しかなかった小学校の数は、1943年には4271校にまで増加していました。
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