巻第1-17~19
17 味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふねしや 18 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや 19 へそかたの林の先のさ野榛(のはり)の衣(きぬ)に付くなす目につくわが背(せ) |
【意味】
〈17〉なつかしい三輪の山よ、あの山が奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、よくよく振り返り見ながら行きたいのに、何度でも望み見たい山なのに、無情にも雲がさえぎり隠してよいものか。
〈18〉なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい。
〈19〉へそかた(三輪山)の、林の先端の野榛が衣によく付くように、よく目につく私の愛しい人よ。
【説明】
題詞に「額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王が即ち和ふる歌」とあり、左注には「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧(みそこなは)す御歌ぞ」と記し、天智6年(667年)3月19日、近江遷都の時の歌であり、大和の国魂、三輪山を慰撫し、鎮魂した儀礼歌であるようです。17・18が額田王の歌で、19が井戸王(いのへのおおきみ)が「即ち(すぐに)」和した歌。井戸王は伝未詳ですが、おそらく額田王と親しい女性であったようです。
663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略に恐れおののきます。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築きました。しかし、『日本書紀』によれば、この遷都は民には喜ばれず、風刺の童謡が歌われたり原因不明の火事が相次いだといいます。そうしたなか強行された遷都の途上、額田王が中大兄皇子になり代わってこの歌を詠んだとされます(『類聚歌林』では中大兄の御歌とされている)。古来朝廷には「詞の媼(おうな)」と称される女性が存在し、宮中祭祀にたずさわって鎮魂の演技をしていたのが、やがてことばをもって奉仕するようになった、その一人が額田王だったともいわれます。
17の「味酒」は「みわ」とも読み、同音で「三輪」にかかる枕詞。「三輪山」は、奈良県桜井市にある、明日香の里の目標となる円錐形の山(標高467m)。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良の山」は、奈良市北部の京都府との国境の低い連山で、大和国から近江国へ行くにはここを越える必要がありました。18の「しかも」は、そのように。「隠すさふべしや」の「や」は反語。なお、ここの「こころ」は「情」と表記されており、『万葉集』ではよく使われています。喜怒哀楽の動きを表すのは「心」ではなく「情」、だから「こころを述べる」ことを抒情というようです。
三輪山は、山全体が大神(おおみわ)神社の御神体とされ、その里の人々のさまざまな思いを包容する山であり、また、しばしば祟りを及ぼすと畏れられていました。そのため、山の魂を鎮め、同時に自分たちの行路の安全と新都の繁栄を祈りつつ、朝夕見慣れた三輪山との別れを惜しんだのです。長歌に詠われている、道の曲がり角ごとに幾度も振り返ってなつかしむさまは、国境を越える際の儀礼だったともいいます。そして、その三輪山を隠そうとする雲に対する厳しい声調と、哀願の心情が感じられます。
ただ、この歌の場合、宮所となる近江へ「下る」というのはおかしいから、額田王が真の恋人だった大海人皇子と別れ、近江朝に召されていく時の悲痛な気持ちを歌ったものではないかとの解釈があります。歌人の今井邦子は、「此歌はどうしても普通の旅人として近江へ下る人の歌ではない。深き痛みを蔵したお歌である、此歌に就きて思ひ、また後に出てくるお歌について、額田女王といふ御女性の一生をひそかに思ひめぐらす時、実に狭量者には描ききれない深刻複雑なる女人像を仰ぐが如き心地されて、私は限りなくそのお歌をとほして額田女王をあがめまつるのである」と言っています。しかし、こうした解釈に対しては、文字に執着して歌の心を忘れているとの反論がなされ、さらに「下る」の文字は後人が書したものとする説もあります。
額田王の作とされる歌は『万葉集』に12首しか残っていないにもかかわらず、日本古代和歌の女性詩人としては群を抜いて有名な人です。その理由について、詩人の大岡信は、「それは一女性の個人的な思いを叙情的に歌いあげたというにとどまらぬ、ある種の柄の大きさがこの人の歌にはあり、色彩感の豊かさ、表現の彫りの深さ、対人関係における謎めいた経歴の魅力、そして古代和歌のもつ自然界との交感力の強さといった要素を、彼女の歌が特別鮮やかに感じさせるためだろう」と言っています。
19の「へそかた」は、三輪山の異名。「さ野榛」は、野の榛。「榛」は、はんの木の古名で、「針」との掛詞になっています。「付くなす」の「なす」は、~ように。5句の内4句までが序詞という、珍しい歌です。ただし、この歌には左注があり「今考えると、唱和の歌とは思われない。ただ、旧本にはこの順に載せているので、このまま載せておく」とあります。しかしながら、この歌は三輪周辺の古歌を利用したもので、去っていく土地の古歌を誦うことは惜別と鎮魂を意味しましたから、前2首に確かに和するものとなっています。また、額田王と親しかった井戸王が、その心の機微を感じ取って和えたものとする見方もあるようです。窪田空穂も、「この和え歌は、額田王にはいい慰めになったことと思われる。・・・さして不自然なものではないのみならず、むしろ巧妙な作と思う。一首の歌としても、四句の長序が、そうしたものの陥りやすい語戯とならず、『わが背』という人の住んでいた地を具体的に暗示する内容をもったものとなって、力量ある作ともなってくる」と述べています。
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旧仮名の発音について
家を「いへ」、今日を「けふ」、泥鰌を「どぜう」などの旧仮名は、そのように表記するだけであって、発音は別だったと思われがちですが、近世以前にあっては、その文字通りに「いへ」「けふ」「どぜう」と発音していました。
ただし、その発音は、今の私たちが文字から認識するのと全く同一ではなく、たとえば「は行音」の「は・ひ・ふ・へ・ほ」は「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」に近かったとされます。だから、母は「ふぁふぁ」であり、人は「ふぃと」です。「あ・い・う・え・お」の5母音にしても、「い・え・お」に近い母音が3つあったといいます。
また、万葉仮名として当てられた漢字では、雪は由伎・由吉・遊吉などと書かれているのに対し、月は都紀・都奇などとなっており、同じ「き」なのに、月には「吉」が使われていません。そのように書き分けたのは、「き」の発音が異なっていたからだろうといわれています。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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