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旧国名比較
【南海道】
紀伊(和歌山・三重)
淡路(兵庫)
阿波(徳島)
讃岐(香川)
土佐(高知)
伊予(愛媛)
【西海道】
豊前(福岡・大分)
豊後(大分)
日向(宮崎)
筑前(福岡)
筑後(福岡)
肥前(佐賀・長崎)
肥後(熊本)
薩摩(鹿児島)
大隅(鹿児島)
壱岐(長崎)
対馬(長崎)
【山陰道】
丹波(京都・兵庫)
丹後(京都)
但馬(兵庫)
因幡(鳥取)
伯耆(鳥取)
出雲(島根)
隠岐(島根)
石見(島根)
【機内】
山城(京都)
大和(奈良)
河内(大阪)
和泉(大阪)
摂津(大阪・兵庫)
【東海道】
伊賀(三重)
伊勢(三重)
志摩(三重)
尾張(愛知)
三河(愛知)
遠江(静岡)
駿河(静岡)
伊豆(静岡・東京)
甲斐(山梨)
相模(神奈川)
武蔵(埼玉・東京・神奈川)
安房(千葉)
上総(千葉)
下総(千葉・茨城・埼玉・東京)
常陸(茨城)
【北陸道】
若狭(福井)
越前(福井)
加賀(石川)
能登(石川)
越中(富山)
越後(新潟)
佐渡(新潟)
【東山道】
近江(滋賀)
美濃(岐阜)
飛騨(岐阜)
信濃(長野)
上野(群馬)
下野(栃木)
岩代(福島)
磐城(福島・宮城)
陸前(宮城・岩手)
陸中(岩手)
羽前(山形)
羽後(秋田・山形)
陸奥(青森・秋田・岩手)
国の等級
大国
大和/河内/伊勢/武蔵/上総/下総/常陸/近江/上野/陸奥/越前/播磨/肥後
上国
山城/摂津/尾張/三河/遠江/駿河/甲斐/相模/美濃/信濃/下野/出羽/加賀/越中/越後/丹波/但馬/因幡/伯耆/出雲/美作/備前/備中/備後/安芸/周防/紀伊/阿波/讃岐/伊予/筑前/筑後/豊前/豊後/肥前
中国
安房/若狭/能登/佐渡/丹後/石見/長門/土佐/大隅/薩摩/日向
下国
和泉/伊賀/志摩/伊豆/飛騨/隠岐/淡路/壱岐/対馬
(大伴家持)
万葉時代の年表
629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌
五畿七道
「五畿七道」は、律令制による地方行政上の行政区分。「五畿」は、大化改新後の646年に設置された山城、大和、摂津、河内、和泉の5か国をいい、首都圏ともいうべき要国であって、政治、経済、文化の中心地域でした。「七道」は、689年に施行された飛鳥浄御原令以後に成立した東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7つの区画をさします。
律令国家による中央集権支配は国・郡・里制でしたが、各国に対する支配は畿内と道を単位として行われました。また、畿内制設定の当初は、畿内は畿外から軍事的に防衛され、また官人を任用する特別地域であり、大宝令でも調(ちょう)の半分と庸(よう)が免除されるといった優遇がなされていました。
中央と諸国の連絡には、道路に沿って人・馬・車を常備した駅を置き、駅を伝わって往来する駅伝制がとられました。原則30里(約16km)ごとに駅を設置し、大路(山陽道)の駅には馬20頭、中路(東海道・東山道)の駅には馬10頭、その他の4道の駅には馬5頭が配置され、公務出張や公文書の伝送に利用されました。また、これとは別に、国司が国内巡行に利用するため、国や郡が管理する伝馬制もありました。
大和三道
「大和三道」は大和の古道ともよばれ、「山の辺の道」とは別に、奈良盆地の中央から東寄りを南北に平行、等間隔に並んだ縦貫道です。東から順に「上つ道」「中つ道」「下つ道」とよばれ、長さはおよそ4里あります。『日本書紀』の壬申の乱に関する記事で、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前に完成していたとみられています。
利用目的についてはよく分かっていませんが、当時は飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われたため、その資材の運搬のための道路であるとも考えらます。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないかとも推測されています。
現在でも、主要な交通路としての役割を果たしており、昔の面影が残っている所が多く存在しています。
奈良の旅
JR桜井線
奈良(なら)
↓
京終(きょうばて)
↓
帯解(おびとけ)
↓
櫟本(いちのもと)
↓
天理(てんり)
↓
長柄(ながら)
↓
柳本(やなぎもと)
↓
巻向(まきむく)
↓
三輪(みわ)
↓
桜井(さくらい)
↓
香具山(かぐやま)
↓
畝傍(うねび)
↓
金橋(かなはし)
↓
高田(たかだ)
瀬戸内海航路
古来、日本列島の海上交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられてきました。古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしており、加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内の難波津から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海沿岸の港の整備に力を入れ、遣唐使や遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、鞆の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
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