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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

天武天皇と藤原夫人の歌

巻第2-103~104

103
わが里に大雪(おほゆき)降れり大原の古(ふ)りにし里に降らまくは後(のち)
104
わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけし其処(そこ)に散りけむ
 

【意味】
〈103〉私の里には大雪が降った。あなたの住む大原の古ぼけた里に降るのはもっと後だろう。

〈104〉私の住む岡の竜神に言いつけて降らせた雪のくだけたのが、そちらに降ったのですよ。それを先に降ったなどと得意になっておっしゃったりして・・・。

【説明】
 103は、天武天皇が藤原夫人(ふじわらのぶにん)に賜った歌。104は、藤原夫人がそれにお答えした歌。「夫人」は後宮の職名で、藤原夫人は藤原氏出身の夫人という意味です。ここでは、藤原鎌足の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)を指し、大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも呼ばれました。天武天皇の皇后・妃に次ぐ位の「夫人」として仕え、新田部皇子(にいたべのみこ)を生みました。「夫人」は、光明皇后以前は、皇族以外の出身で望みうる最高の地位でした。

 大原は、今の奈良県高市郡明日香村小原の地。天皇が飛鳥の清御原の宮殿におられて、そこからほんの少し離れた大原の地にいる夫人に贈られました。同じ大雪が降っているのは明らかなのに、夫人の住む所を「古りにし里」とわざとふざけて悪く言い、夫人もまた相手の表現を借り、劣らぬユーモアでお答えしています。まさに丁々発止のやり取りであり、お互いの親愛の情がほのぼのと感じられる贈答歌です。この時の天武天皇は50歳弱、夫人は20歳弱だったようです。
 
 103の「降らまく」の「まく」は、推量の助動詞。104の「おかみ」は竜神のことで、雨をつかさどる神とされていました。今も雨ごいをするのはこの神です。ここでは雪のことをいっていますが、雨の延長である雪をつかさどるのもこの神であるとしたようです。「言ひて」は、命じての意。すべての神は天皇に奉仕するとされていたので、このようにいうことができたようです。「散りけむ」の「けむ」は、過去の推量。
 
 なお、斎藤茂吉は、これらの贈答歌には、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴があり、しかもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌にはなくなっている、つまり、人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっていると言っています。

藤原夫人の歌

巻第8-1465

霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそ汝(な)が声を五月(さつき)の玉にあへ貫(ぬ)くまでに

【意味】
 ホトトギスよ、そんなに鳴かないでおくれ。五月五日の薬玉におまえの声を混ぜて紐に通すまでは。

【説明】
 「な鳴きそ」の「な~そ」は、禁止。「五月の玉」は、五月五日の節句に邪気を払うため、種々の香料を入れた綿の袋に菖蒲や橘花などをつけた緒を垂れて室内にかける風習があり、その緒につける玉のこと。「あへ」は、あわせて。

 霍公鳥の声を愛でる歌は、天武天皇の時代から見え出し、時代が下るにつれて次第に数が増え、奈良時代には夏の景物の代表となりました。また、霍公鳥の声を薬玉として貫こうという類歌も少なくありません。窪田空穂は「一首、美しさとともに女性らしい知性が働き、調べもそれにふさわしく、明るく品位のある歌である」と評しています。

天武天皇の妻たち
 養老令の「後宮職員令」によれば、天皇には皇后以外に9人の妻(正確には後宮の職員)を置くことが定められていました。その序列は、上位から、
① 妃・・・2人以内(四品以上の内親王)
② 夫人・・・3人以内(三位以上の公卿の娘)
③ 嬪・・・4人以内(五位以上の貴族の娘)
となっており、皇后、妃までが皇族出身、臣下の出身は夫人、嬪となりました。ただし、嬪が置かれた例は少なかったようです。
 
 天武天皇の皇后は、後の持統天皇である鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)、妃は大田皇女、大江皇女、新田部(にいたべの)皇女で、皇后・妃の4人とも天武の兄である天智天皇の娘です。夫人は藤原鎌足の娘である氷上娘(ひかみのいらつめ)、五百重娘(いおえのいらつめ)、蘇我赤兄の娘である大蕤娘(おおぬのいらつめ)。さらに嬪ではないものの、女官として額田王、尼子娘(高市皇子の母)、かじ(”木”へんに”穀”)媛娘(かじひめのいらつめ)がいました。

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歌風の変遷
 万葉集は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。
 
 第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。
 
 第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。
 おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。
 
 第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。
 
 第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年まで。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代です。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといえます。
 おもな歌人として、家持のほか、湯原王・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。 

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古典に親しむ

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(天武天皇)

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