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源氏物語

目次  各帖のあらすじ

桐壺(きりつぼ)

■桐壺更衣

 いづれの御時(おほんとき)にか、女御(にようご)更衣あまた候(さぶら)ひ給ひける中に、いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。
 
 初めよりわれはと思ひ上がり給へる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下臈(げらふ)の更衣たちは、まして安からず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
 
 上達部(かんだちめ)、上人(うへびと)なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土(もろこし)にも、かかることの起こりにこそ、世も乱れ、悪(あ)しかりけれと、やうやう天(あめ)の下にもあぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃(やうきひ)の例(ためし)も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心(みこころ)ばへのたぐひなきを頼みにて交じらひ給ふ。
 
 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由(よし)あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、何事の儀式をももてなし給ひけれど、とりたててはかばかしき後見(うしろみ)しなければ、事ある時は、なほよりどころなく心細げなり。

【現代語訳】
 何という帝の御代であったろうか、女御や更衣が大勢お仕えしていた中に、それほど高貴な身分ではないものの、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる更衣がいた。
 
 入内した初めから自分こそはと自負なさっていた御方々は、この更衣を気に食わない者として蔑んだり妬んだりなさった。同じ身分またはそれより下位の更衣たちは、まして心おだやかではない。そんなことから、朝夕のお勤めにつけても、周りの人々の感情を害したり恨みを買うことが積もりに積もったからだろうか、ひどく病気がちになり、何とも心細いようすで実家に下がりがちになってしまった。そのため帝はますます物足りなくいとおしくお思いになり、人のそしりも気兼ねなさらず、世間の噂にもなってしまいそうな扱いをなさる。
 
 公卿やそれに次ぐ殿上人なども、感心できないと目をそらすといった有様で、まったく見ていられないほどのご寵愛ぶりだった。中国でも、こういうことが発端で世の中が乱れ、不吉な事件が起こったものだと、しだいに世間でも取り沙汰し、楊貴妃の例なども引き合いにされそうになり、更衣本人もたいへん辛い立場になってしまったが、畏れ多い帝の愛情が他に並びないのをひたすら頼みとして、宮仕えを続けていらっしゃった。

 父の大納言は亡くなって、母である北の方は旧家の出で教養もあり、両親がそろっていて当世の評判の高い人々にもさほど劣ることなく、どのような儀式もそつなくやっておられたが、格別のしっかりした後見がないので、何かの時はやはり拠り所がなく、心細そうにしておられるのだった。


(注)女御・更衣・・・いずれも天皇の夫人。女御は皇后・中宮に次ぎ、更衣は女御に次ぐ地位。
(注)上達部・・・公卿。三位以上の人。
(注)上人・・・殿上人。四位・五位の人。

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■光源氏の誕生

(一)
 前(さき)の世にも、御契りや深かりけむ、世になく清らなる玉の男皇子(をのこみこ)さへ生まれ給ひぬ。いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児(ちご)の御かたちなり。
 
 一の御子(みこ)は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなき儲(まう)けの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並び給ふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづき給ふこと限りなし。
 
 母君、初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際(きは)にはあらざりき。覚えいとやむごとなく、上衆(じやうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にも、ゆゑある事のふしぶしには、まづ参(ま)う上らせ給ひ、ある時には大殿籠(おほとのごも)り過ぐして、やがて侍(さぶら)はせ給ひなど、あながちに御前(おまへ)去らずもてなさせ給ひしほどに、おのづから軽(かろ)き方にも見えしを、この御子生まれ給ひて後は、いと心ことに思ほし掟(おき)てたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居給ふべきなめり」と、一の御子の女御は思し疑へり。

 人より先に参り給ひて、やむごとなき御思ひ、なべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御いさめをのみぞ、なほわづらはしう、心苦しう思ひ聞こえさせ給ひける。

【現代語訳】
 そのうちに、帝と更衣は前世からの御宿縁が深かったのであろうか、世にまたとなく美しい玉のような皇子までがお生まれになった。帝は、早く早くとじれったくおぼし召されて急いで参内させて御覧になると、たぐいまれな若宮のお顔だちである。
 
 第一皇子は右大臣の娘の女御がお生みになったので、後見が確かで間違いなく皇太子になられる君だと世間でも大切に思い申し上げているが、この若宮の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、第一皇子に対しては並みひととおりのご寵愛にとどまって、この若宮の方をご自分の思いのままにお可愛がりあそばされることこの上ない。
 
 母君の更衣も、元来、ふつうの宮仕えをなさるような軽い身分ではなかった。世間の評判もとても高く貴婦人の風格があったが、帝がむやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦のお遊びの折々やあれこれの催事でも趣ある催しがあるたびごとに、真っ先に参上おさせになった。ある時には一緒に寝過ごされてそのままお側にお置きになるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされるうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この若宮がお生まれになって後は更衣のことを格別にお考え定めあそばされるようになったので、「ひょっとするとこの若宮が皇太子におなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。

 このお方は誰よりも先に御入内なされて、帝が大切にお考えあそばされることはひと通りでなく、ほかの御子たちもおいでになるので、このお方のご苦情だけは、うるさくても、さすがにやはり無視できないことだとお思いあそばされた。 

(二)
 かしこき御蔭(みかげ)をば頼み聞こえながら、落としめ、疵(きず)を求め給ふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞし給ふ。

 御局(みつぼね)は桐壺(きりつぼ)なり。あまたの御方々を過ぎさせ給ひつつ、ひまなき御前(おまへ)渡りに、人の御心(みこころ)を尽くし給ふも、げにことわりと見えたり。参う上り給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣(きぬ)の裾(すそ)堪へがたく、まさなき事どももあり。またある時には、え避(さ)らぬ馬道(めだう)の戸をさしこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめ、わづらはせ給ふ時も多かり。事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうらうでん)にもとより侍ひ給ふ更衣の曹司(ざうし)を、他に移させ給ひて、上局(うへつぼね)に賜(たま)はす。その恨み、ましてやらむかたなし。

【現代語訳】
 もったいない帝の御庇護をお頼り申しあげてはいるものの、更衣のことを軽蔑し落度を探し出そうとなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛が厚いばかりに、かえってひどい気苦労をなさっていた。

 更衣のお部屋は桐壺である。帝が多くの方々のお部屋の前を素通りなさって絶え間なく桐壺へお渡りになるので、他の方々が不快をつのらせるのも無理からぬことと思われた。また更衣が参上なさるときも、あまり度重なる折々には、打橋や渡殿のあちこちの通路にけしからぬものをたびたび仕掛けて、送り迎えの女房の着物の裾が汚れて台無しになるような、とんでもないことがあった。またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を閉じて中に閉じこめ、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むのも退くのもできないように困らせることも多かった。何かにつけて苦労ばかりが増えていったので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、帝はなおさら不憫におぼし召され、後凉殿に以前からお部屋をいただいていた別の更衣を他にお移しになり、そこを桐壺更衣に控えの間としてお与えになった。部屋を奪われたその方(後涼殿更衣)の恨みはまして晴らしようがない。

(注)桐壺・・・禁中の東北隅にあり、西南にある清涼殿から最も遠い。清涼殿に行くまでの間に、弘徽殿、麗景殿、宣耀殿ほか多くの殿舎の前を通らねばならなかった。
(注)打橋・・・渡り廊下の切れ目にかける板。
(注)渡殿・・・殿舎から殿舎へ渡る廊下。細殿ともいう。
(注)馬道・・・板敷の中廊下。今の縁側に似ている。
(注)後涼殿・・・清涼殿に続く西の御殿。 

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■若宮三歳、御袴着の儀

 この御子(みこ)三つになり給ふ年、御袴着(はかまぎ)のこと、一の宮の奉りしに劣らず、内蔵寮(くらつかさ)、納殿(をさめどの)の物を尽くして、いみじうせさせ給ふ。それにつけても、世のそしりのみ多かれど、この御子のおよすげもておはする御容貌(かたち)心ばへ、有り難くめづらしきまで見え給ふを、え嫉(そね)みあへ給はず。ものの心知り給ふ人は、「かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目を驚かし給ふ。

【現代語訳】
 この御子が三歳になられた年、御袴着の儀式を、第一の宮の時に劣らず、内蔵寮(くらづかさ)、納殿(おさめどの)の宝物をふんだんに使って、たいそう盛大にお挙げになった。このようなやり方に世のそしりも多かったが、この御子のだんだんご成長になるご容貌の世にもまれな美しさに、そんな非難も自然におさまっていった。物知りの老人たちも「このような人も世にお生まれになるものなのだ」と、驚嘆したのだった。

(注)内蔵寮・・・金銀、珠玉、宝器などを管理し供進の御服や祭祀の奉幣などをつかさどる役所。
(注)納殿・・・歴代の御物を収めてある所。 

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■桐壺更衣の死

(一)
 その年の夏、御息所(みやすどころ)、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、暇(いとま)、さらに許させ給はず。年ごろ、常の篤(あつ)しさになり給へれば、御目馴れて、「なほ、しばしこころみよ」とのみ宣はするに、日々に重(おも)り給ひて、ただ五六日(いつかむゆか)のほどにいと弱うなれば、母君、泣く泣く奏して、まかでさせ奉り給ふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそ、と心づかひして、御子をば留(とど)め奉りて、忍びてぞ出で給ふ。
 
 限りあれば、さのみもえ留めさせ給はず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いと匂(にほ)ひやかにうつくしげなる人の、いたう面(おも)(や)せて、いとあはれと物を思ひしみながら、言(こと)に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものし給ふを御覧ずるに、来(き)し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契り宣はすれど、御いらへもえ聞こえ給はず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色(けしき)にて臥(ふ)したれば、いかさまにと思し召しまどはる。手車(てぐるま)の宣旨(せんじ)など宣はせても、また入らせ給ひて、さらにえ許させ給はず。
 
 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと契らせたまひけるを。さりとも、うち捨ててはえ行きやらじ」と宣はするを、女も、いといみじと見奉りて、

 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 いとかく思ひ給へましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、「かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ」と思し召すに、「今日(けふ)始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵(こよい)より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせ給ふ。

【現代語訳】
 その年の夏、御息所(桐壺更衣)は弱々しい感じにおちいってしまい、里に引き下がろうとなさったが、帝はどうしてもお暇をお与えにならない。この頃はいつも病気がちなのをお見慣れになって、「もう少しこのままで養生せよ」と仰られているうちに、日に日に容態が重くなられて、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、更衣の母君が泣く泣く奏上してやっと退出なさった。このようなときにも人々がどういう恥をかかせるかもしれないと心配して、若宮を宮中にお残しして、人目につかないようにこっそり退出なさった。
 
 もう限界だったので、帝もお引きとめするわけにもいかず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召された。平素はとてもみずみずしく美しくかわいらしい人なのに、ひどく顔がやつれて、たいそうしみじみと物思いに沈みながら、帝に言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にも分からないほどに消え入るようなのを御覧になると、帝はあと先もお考えにならずいろいろなことを泣きながらお約束なさるが、更衣はお返事を申し上げることもできず、まなざしなどもとてもだるそうでいよいよ弱々しく夢うつつのような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかと途方にくれていらっしゃる。更衣のために手車の宣旨などを仰せ出されても、いよいよとなると再び更衣のお部屋に入られ、どうしても退出をお許しになる気になれない。
 
「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと約束したものを、いくら病気が重くても、私をおいてけぼりにしては行けまい」と仰ったのを、更衣もたいそう悲しくお顔を拝して、

 「
人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しく思われるにつけても、私が本当に行きたいと思う路は、生きるほうの路でございます。

 ほんとうにこれほど悲しい思いをいたしますのでしたら」と息も絶えだえに、まだ申し上げたいことがありそうな様子ながら、たいそう苦しげにだるそうなので、このままここに置いて最期となってしまうのも見届けたいとお考えになるが、「里の方で今日から回復祈願のご祈祷を始めることになっていまして、しかるべき僧たちが承って今宵から始めます」と言って母君の使者が催促申し上げるので、帝はやむを得ず退出をお許しになった。
 
(注)御息所・・・帝から寵愛を受けている女性の尊称。
(注)手車の宣旨・・・車に乗って内裏の門を出入りすることを許すという宣旨。 

(二)
 御胸、つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせ給ふ。御使(みつか)ひの行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなく宣はせつるを、「夜半(よなか)うち過ぐるほどになむ、絶えはて給ひぬる」とて泣き騒げば、御使も、いとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召し分かれず、籠(こも)りおはします。
 
 御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどに侍ひたまふ例(れい)なきことなれば、まかで給ひなむとす。何事かあらむとも思ほしたらず、さぶらふ人々の泣き惑ひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見奉り給へるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。

【現代語訳】
 帝はお胸がひしと塞がって、その夜は少しもうとうとなされず明かしかねていらっしゃった。お遣わしになった使いの者が戻ってくる間もないうちから、しきりに気がかりなお気持ちを仰り続けていらしたが、「夜半少し過ぎたころにお亡くなりになりました」と言って里の人たちが泣き騒いでいるのを聞き、勅使もたいそうがっかりして宮中に帰参した。更衣の死をお聞きになった帝の御心は動転し、どのような御分別をも失われて引き籠もってしまわれた。
 
 それでも若宮はそのままお置きになって、お顔を御覧になっていたかったが、このような折に宮中にとどまっていらっしゃる先例がないので、これも更衣の里へ御退出になる。何事があったのかもお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上も涙が絶えず流れていらっしゃるのを不思議そうに御覧になっているのを、普通の親子の別れでさえ悲しいのに、まして今の場合の哀れさは何とも言いようがない。 

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■桐壺の葬儀

 限りあれば、例の作法にをさめ奉るを、母北の方、「同じ煙(けぶり)にのぼりなむ」と、泣き焦がれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乗り給ひて、愛宕(をたぎ)といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸(から)を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、灰になり給はむを見奉りて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしう宣ひつれど、車よりも落ちぬべうまろび給へば、「さは思ひつかし」と、人々、もてわづらひ聞こゆ。

 内裏(うち)より御使あり。三位の位(くらゐ)贈り給ふよし、勅使来て、その宣命読むなむ、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階(ひときざみ)の位をだにと、贈らせ給ふなりけり。これにつけても憎み給ふ人々多かり。物思ひ知り給ふは、さま容貌(かたち)などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。さまあしき御もてなしゆゑこそ、すげなう、そねみ給ひしか、人がらのあはれに情ありし御心を、上の女房なども、恋ひしのびあへり。

【現代語訳】
 決まり事であるので、通常の作法のままに葬儀をなさるのを、母の北の方は「自分も同じ煙となって空にのぼりたい」と泣き焦がれ、御送りの女房の車を追いかけて乗られ、愛宕という所でたいそう厳粛に葬儀をとり行っている現場にお着きになったが、その時の気持ちはどれほどだったろうか。「空しいご遺骸を見ながらも、まだこの世にいらっしゃると思うが、全く甲斐のないことゆえ、灰におなりになるのを見届けて、今は亡き人とはっきり諦めましょう」と健気におっしゃったが、車から転び落ちそうなほどにお足元が定まらないので、それほどまでに動揺されているのだと皆がご介抱に手を焼く。

 内裏からお使者があった。従三位の位を追贈なさる旨、勅使が来てその宣命を読むのも、また悲しみを誘うのであった。生前、女御とさえ呼ばれずに終わったことがたまらなく心残りに思われ、せめて位一階でもとお贈りになったのであった。この事についてもまたお憎みになる方たちは数多い。人の情理をわきまえていらっしゃる方々は、桐壺更衣の容貌の美しかったこと、気だてが穏やかで親しみがあり憎めない人だったことなどを、今になって思い出す。帝の度を過ぎたご寵愛ゆえに、冷ややかにお妬みにもなったのである。人柄が可憐で情こまやかだった更衣のことを、天皇のおそばに仕えていた女房なども懐かしがった。

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■帝の弔問

 はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどにも、こまかにとぶらはせ給ふ。ほど経(ふ)るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直(とのゐ)なども、絶えてし給はず、ただ涙にひぢて明かし暮らさせ給へば、見たてまつる人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける、人の御おぼえかな」とぞ、弘徽殿(こきでん)などには、なほ許しなう宣ひける。一の宮を見奉らせ給ふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母(めのと)などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。

【現代語訳】
 はかなく日は過ぎて、後々の御法要にも、帝は御使を立ててねんごろにご弔問あそばす。日が経つほどに、帝はどうしようもなく悲しくお感じなさり、女御、更衣たちの夜のお伽(とぎ)などもまるきり仰せにならない。ただ涙にくれてお暮らしになるので、それを拝する人びとさえ露に濡れる秋である。「亡くなった後まで胸がかきむしられるほどのご寵愛だこと」と、弘徽殿の女御はいまだに手厳しくおっしゃる。帝は一の宮(第一皇子)をご覧になっても、若宮のみ恋しく思い出されるばかりで、親しい女房や乳母などを更衣の里に遣わしては、ご様子をお尋ねになる。

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■蓬生(よもぎふ)の宿

(一)
 野分(のわき)だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負(ゆげひ)命婦(みやうぶ)といふを遣(つか)はす。夕月夜(ゆふづくよ)のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがて眺めおはします。かやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音(ね)をかき鳴らし、はかなく聞こえ出づる言(こと)の葉も、人よりは異(こと)なりしけはひ、かたちの、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。
 
 命婦、かしこに参(まか)で着きて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住(ず)みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目安き程にて過ぐし給ひつるを、闇に暮れて臥し沈み給へるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎(やへむぐら)にもさはらず、差し入りたる。南面(みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえ物も宣はず。
 
 「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使ひの蓬生(よもぎふ)の露分け入り給ふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げに、え堪ふまじく泣い給ふ。「『参りてはいとど心苦しう、心肝(こころぎも)も尽くるやうになむ』と、典侍(ないしのすけ)の奏し給ひしを、もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰せ言(こと)伝へ聞こゆ。「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひ合はすべき人だになきを、忍びては参り給ひなむや。若宮の、いとおぼつかなく、露けき中に過ぐし給ふも、心苦しう思さるるを、とく参り給へ』など、はかばかしうも宣はせやらず、むせかへらせ給ひつつ、かつは、人も心弱く見奉るらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色(みけしき)の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかで侍りぬる」とて、御文奉る。(中略)

【現代語訳】
 野分の風が吹いて急に肌寒くなった夕暮どき、帝はいつもよりも亡き更衣を思い出されることが多くて、靫負命婦という者を更衣の里にお遣わしになった。夕月夜の美しい時刻に出立させ、ご自身はそのまま物思いに沈んでいらっしゃった。このような折にはよく管弦のお遊びなどをお催されたもので、更衣がとりわけ美しい音色で琴を掻き鳴らし、何気なく歌われた歌もほかの人とは格別だった雰囲気や顔だちが、面影となってひたと御身に添うて離れぬように思われ、古歌にある「闇の中の現実」にはやはり及ばないのであった。
 
 命婦が更衣の里に行き着いて車を門に引き入れると、辺りの気配はしみじみと哀れ深い。母の北の方は未亡人暮らしだったが、娘一人の養育のためにあれこれと手入れをして見苦しくないようにお暮らしになっていたが、亡き娘を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃった間に、雑草も高くなり、野分によっていっそう荒れた感じになり、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。母屋の南正面で命婦を車から下ろしたが、母君もすぐにはご挨拶できないでいる。
 
 「今まで生き長らえておりますのがとても辛いのに、このようなお勅使が草深い宿の露を押し分けてお入り下さるのはとても恥ずかしうございます」と言って、いかにも身を持ちこらえられないほどにお泣きになる。「『お屋敷に伺うと、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え失せるようでした』と、先だって参りました典侍が奏上していましたが、物の情趣をわきまえない私でも忍び難い心地がいたします」と言って、少し気持ちを落ち着かせてから仰せ言をお伝え申し上げた。「『しばらくの間は夢かとばかり思い続けていましたが、しだいに心が静まるにつれて、夢ではないので覚めるはずもなく、堪えがたい気持ちをどうしたら慰められるかと相談できる相手もいないので、人目につかないように参内なさらぬか。若宮がとても気がかりで、湿っぽい所で過ごすのもいたわしく思うので、早く連れて参られるように』などと、帝ははっきりとは最後まで仰りきれず涙に咽ばされながら、また一方では、人が見たらお気弱だと思いはせぬかとご遠慮もなさっているご様子がおいたわしく、最後までお聞き申し上げないようなありさまで退出して参りました」と言って、お手紙を差し上げた。

(注)靫負命婦・・・宮中女官の階級の一つ。
(注)闇の現・・・古今集の「ぬばたまの闇のうつつは定かなる夢にもいくらもまさらざりけり」(詠み人知らず)の歌をふまえ、帝の目の前に現れる幻は、はっきり見えない暗闇での現実(生身の更衣)より劣っているということ。

(二)
 「命(いのち)長さの、いとつらう思ひ給へ知らるるに、松の思はむ事だに恥づかしう思ひ給へ侍れば、ももしきに行きかひ侍らむ事は、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたびうけたまはりながら、みづからはえなむ思ひ給へ立つまじき。若宮はいかに思ほし知るにか、参り給はむ事をのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉り侍るなど、うちうちに思ひ給ふるさまを奏し給へ。ゆゆしき身に侍れば、かくておはしますもいまいましうかたじけなくなむ」と宣ふ。

 「宮は大殿籠(おほとのごも)りにけり。見奉つりて、くはしう御ありさまも奏し侍らまほしきを、待ちおはしますらむに。夜更(よふ)け侍りぬべし」とて急ぐ。

 「くれまどふ心の闇も堪へがたき片はしをだに、はるくばかりに聞こえまほしう侍るを、私にも心のどかにまかで給へ。年ごろ、うれしく面(おも)だたしきついでにて立ち寄り給ひしものを、かかる御消息(せうそこ)にて見奉る、かへすがへすつれなき命にも侍るかな。生まれし時より思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただこの人の宮仕の本意(ほい)、必ずず遂げさせ奉れ。我亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、かへすがへす諌め置かれ侍りしかば、はかばかしう後見(うしろみ)思う人もなき交(まじ)らひは、なかなかたるべき事と思ひ給へながら、ただかの遺言を違(たが)へじとばかりに、出だし立て侍りしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥ぢを隠しつつ、交らひ給ふめりつるを、人のそねみ深く積もり、安からぬこと多くなり添ひ侍りつるに、よこさまなるやうにて、つひにかくなり侍りぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひ給へられ侍る。これもわりなき心の闇になむ」と言ひもやらず、むせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。

 「上もしかなむ。『わが御心ながら、あながちに人目驚くばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも、人の心をまげたる事はあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひしはてはては、からうち棄(す)てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはつるも、前(さき)の世ゆかしうなむ』と、うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず御返り奏せむ」と急ぎ参る。

【現代語訳】
 母君は「長生きをしておりますのは本当に辛いことであると思い知りましたにつけても、あの高砂の松がどう思うかと恥ずかしく思いますのに、宮中への出入りは、ましてたいそう憚り多くなりましょう。畏れ多い仰せ言をたびたび頂戴しながら、そういうわけで私はよう参内いたしません。若宮はどう思し召してか、参内なさることをばかり早くと期待していらっしゃるようなので、それも道理だと悲しく拝見していますというようにでも、私の思いを内々に奏上なさってください。私は不吉な身(喪中)でございますので、こうしてここに若宮がいらっしゃるのも縁起が悪くもったいないことです」とおっしゃる。

 若宮はもうお休みになっていらっしゃる。命婦は「若宮のお顔を拝見して、その御有様も帝に詳しく奏上したかったのですが、お待ちになっていらっしゃいましょうし、夜が更けてしまいますから」と、帰りを急ぐ。

 母君は「暗くふさいだ心の闇の片端だけでもお話しして胸を晴らしとうございますので、公の御使いでなしに一度ゆっくりお越し下さい。これまでは嬉しく晴れがましい御用でお立ち寄り下さいましたのに、こういう悲しいお知らせとしてお目にかかるのは、返す返すもままならぬ我が命でございます。亡くなりました娘は生まれた時から望みをかけていた児で、故大納言(更衣の父)は、最期のときまで『どうかこの人の宮仕えの本意を必ず遂げさせてくれ。私が死んだからといって挫けてはならない』と、くれぐれも言い置かれましたので、しっかりした後見人もないまま宮中に交わるのはなかなかのことと存じながら、ただ夫の遺言に背かないようにとの一心で出仕させましたのですが、身に余るまでの帝のご寵愛を受け、人に人とも思われぬような扱いをされるのを忍びながらどうにかお付き合いをしていたようですが、人の妬みが深く積もり心を痛めることが増えてきて、横死のような風に亡くなってしまいましたので、今ではかえってもったいないご寵愛をお恨み申しているのです。これも親ゆえの理不尽な心の闇でございましょうか」と、最後まで言い終わることもできず、むせかえっておられるうちに、夜も更けてしまった。

 命婦は「帝もそうおっしゃっていらっしゃいます。『わが御心ながら、ああも一途に人が見て驚くほど寵愛したのも、やはり長くは続かない縁だったのかもしれぬと思うと、苦しい契りを結んだものだという気がする。自分はいささかも人の心を害したことはないと思うが、ただこの人(更衣)のゆえに、恨まないでもいい人たちの恨みを負った挙句、このように一人残されて心をしずめる方法もないので、いよいよみっともなく偏屈になってしまったのも前世の定めであろうか、その前世とはどんなものか見てみたい』と、返す返す御涙をお流しがちでいらっしゃいます」と語り、話は尽きない。

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■帝のご悲嘆

(一)
 命婦は、まだ大殿籠(おほとのごも)らせ給はざりけると、あはれに見奉る。御前(おまえ)の壺前栽(つぼせんざい)の、いとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちやうごんか)の御絵、亭子院(ていじのいん)の描かせ給ひて、伊勢(いせ)貫之(つらゆき)に詠ませ給へる、やまと言(こと)の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言(まくらごと)にせさせ給ふ。

 いとこまやかにありさま問はせ給ふ。あはれなりつる事、忍びやかに奏す。御返り御覧すれば、「いともかしこきは、置き所も侍らず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。

 荒き風ふせぎしかげの枯れしより小萩(こはぎ)がうへぞしづごころなき

などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じゆるすべし。いとかうしも見えじと、思(おぼ)ししづむれど、さらにえ忍びあへさせ給はず。御覧じはじめし年月の事さへ、かき集め、よろづに思し続けられて、時の間もおぼつかなかりしを、かくても月日は経にけりと、あさましう思しめさる。

「故大納の遺言あやまたず、宮仕への本意(ほい)深くものしたりし喜びは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ、言ふかひなしや」とうち宣はせて、いとあはれに思しやる。「かくても、おのづから、若宮など生(お)ひ出(い)で給はば、さるべきついでもありなむ。命長くとこそ思ひ念ぜめ」など宣はす。

 かの贈り物御覧ぜさす。亡き人の住み処(か)尋ね出でたりけむしるしの釵(かんざし)ならましかば、と思ほすもいとかひなし。

尋ねゆくまぼろしもがなつてにても魂(たま)のありかをそこと知るべく

【現代語訳】
 命婦が戻って来てみると、帝がまだおやすみなっていらっしゃらないのを、おいたわしく存じ上げる。御前の壺庭の花が今を盛りに咲いているのをご覧になるような様子で、たしなみのある女房四五人を侍わせて、しめやかに御物語をなさっていた。近頃は、明け暮れ亭子院(宇多天皇)がお描かせになった長恨歌の絵を御覧になり、その絵に添えられた伊勢や紀貫之の和歌だとか、または漢詩だとか、その方面のことばかりを話題になさっている。

 帝は、命婦をお近づけになり、更衣の母君への使いの様子を細々とお尋ねになる。命婦は、母君の哀れであったことを忍びやかに奏上する。母君の御返事をご覧になると、「まことに畏れ多く、身の置き所もございません。このような仰せ言を頂くにつけましても、心が曇って暗くなり乱れる心地がいたしまして、

荒い風を防いでいた木が枯れてしまい、その陰で守にれていた小萩がどうなることであろうと案ぜられて、安き心もございません(今は更衣がいないので、若宮の身の上がおぼつきません)。

などと乱れた感じで書いてあり、それも心が動転しているせいだと、帝はお見逃しあそばすことだ。ご自分とても、このようにひどく悲しんでいる姿を人に見せまいとこらえていらっしゃるが、とても辛抱がおでにきならない。初めて更衣を御覧になった年月のことなど、いろいろと思い出しなさり、生前は少しの間でも側に置いていないと気がかりだったのに、更衣が亡くなってしまった後、よくもまあこういう風に月日を送っていられるものよと、呆れたことに思われる。

「故大納言の遺言をたがえず、宮仕えの願いを通して下さった御礼には、それだけの報いをしてやりたいと思っていたのに、言っても仕方ないことになったな」とおっしゃり、たいそう不憫にお思いになる。「それでも、自然と若宮が成人なされば、しかるべき地位におつけする機会もあるだろう。それまで長生きすることだね」などおっしゃる。

 命婦は、母君からの贈り物を帝に御覧に入れる。それを、『長恨歌』にある、臨邛(りんこう)の道士が亡き人のすみかへ尋ねて行って貰って来たという証しの釵であるならばとお思いになるが、たいそう甲斐のないことである。

冥界に、更衣の魂を尋ねていく幻術士がいないものか。そのありかを知る伝手ができるだろうに。

(注)臨邛(りんこう)の道士・・・楊貴妃の死後、玄宗の命によって幻術士が魂のありかを尋ねていき、蓬莱宮で会うことができてその証しの金釵を持ち帰ってきたという故事。

(二)
 絵に描(か)ける楊貴妃の容貌(かたち)は、いみじき絵師といへども、筆限りありければ、いとにほひすくなし。太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)、未央(びやう)の柳も、げに、かよひたりし容貌を、唐(から)めいたるよそひは、うるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥(はなとり)の色にも音(ね)にも、よそふべき方ぞなき。朝夕の言(こと)ぐさに、翼(はね)を並べ、枝をかはさむと契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ、尽きせず、うらめしき。

 風の音(おと)、虫の音(ね)につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿(こきでん)には、久しく上の御局(みつぼね)にも参(ま)う上(のぼ)り給はず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる。いとすさまじう、ものし、と聞こしめす。このごろの御気色(みけしき)を見奉る上人(うへびと)女房などは、かたはらいたしと聞きけり。いとおし立ちかどかどしき所ものし給ふ御方にて、ことにもあらず思し消(け)ちて、もてなし給ふなるべし。月も入りぬ。

雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生(あさぢふ)のやど

 思めしやりつつ、燈火(ともしび)をかかげ尽くして、起きおはします。右近の司(つかさ)の宿直奏(とのゐまうし)の声聞こゆるは、丑(うし)になりぬるなるべし。人目を思して、夜の殿(おとど)に入らせ給ひても、まどろませ給ふこと、かたし。朝(あした)に起きさせ給ふとても、明くるも知らで、と思し出づるにも、なほ朝政(あさまつりごと)は怠らせ給ひぬべかめり。ものなども聞こしめさず。朝餉(あさがれひ)の気色ばかり触れさせ給ひて、大床子(だいしやうじ)の御膳(おもの)などは、いとはるかに思しめしたれば、陪膳(はいぜん)に侍ふ限りは、心苦しき御気色を見奉り嘆く。すべて近う侍ふ限りは、男女(をとこをんな)、「いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。「さるべき契りこそはおはしましけめ、そこらの人のそしり、恨みをも憚(はばか)らせ給はず、この御ことにふれたる事をば、道理をも失はせ給ひ、今はた、かく世の中の事をも思ほし棄てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなりと、他(ひと)の朝廷(みかど)の例(ためし)まで引き出で、ささめき嘆きけり。

【現代語訳】
 絵に描いた楊貴妃の容貌は、どんなに上手な絵師であっても筆の力に限りがあるので、それほど美しいわけではない。確かに長恨歌にある太液池の芙蓉や未央宮の柳にも似ていたという唐風の装いは美しくはあろうが、更衣の親しみやすく可憐であった姿を思い出されると、花の色にも鳥の音にもたとえようがなかった。朝夕の睦言に、翼をならべ枝を交わすように一生添い遂げようとお約束なされたのに、かなわなかった命のはなかさに恨みが尽きることがない。

 風の音や虫の声につけても、目になさるものが皆一途に悲しく思われるのに、弘徽殿の女御は久しく御局にも参上なさらず、月の面白さに夜更けまで管弦の遊びをなさっている。その陽気な音をお聞きになり、たいそう面白くなく、不愉快になられる。このごろの帝のご様子を拝見する殿上人や女房などは、弘徽殿のなさりようを苦々しく思っている。元々あの方は、とても我が強く、角々しいところがおありになるので、帝の更衣への思いなど何の構うことがあろうかと思って、こういうふるまいをなさるのだろう。と、月も隠れてしまった。帝は、

宮中でさえ涙に曇って見える秋の月なのに、あの雑草が生い茂った宿では、どうして月が澄んで見えようか。

と思いやられつつ、燈心が尽きて燈火が消えてしまっても、ずっと起きていらっしゃる。右近衛府の役人の宿直奏(といのもうし)の声が聞こえるのは、もう丑の刻になったということだろう。人目を憚られて、御寝所にお入りになっても、まどろむこともおできにならない。朝お起きになっても、更衣が存命の時は夜が明けるのも知らず眠っていたのを思い出され、朝の政務を怠りなさるようにもなる。食事などもおすすみにならず、朝餉もほんのお気持ちほど箸をおつけになるだけで、正式の御膳などは長いこと遠ざけておられるので、お食事に伺候する人々は、帝のおいたわしいご様子を拝見して嘆く。お側近くお仕えしている限りの男も女も、たいそう困ったことだと言い合わせてはため息をつく。前世からの契りではいらしたのたろうが、周囲の人のそしりや恨みをも憚りなさらず、このことについては道理をも失われ、今はまた、こんな具合に政務をも思い捨てられたようになっていくのは、全く困ったものだと、外国の朝廷の例まで引き出して、人々はささやき合い嘆き合った。

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■若宮の美貌と才覚

 月日経て、若宮参り給ひぬ。いとど、この世のものならず、きよらにおよすけ給ヘれば、いとゆゆしう思したり。明くる年の春、坊(ばう)定まり給ふにも、いとひき越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなかあやふく思しはばかりて、色にも出ださせ給はずなりぬるを、「さばかり思(おぼ)したれど、限りこそありけれ」と、世の人も聞こえ、女御も御心落ちゐ給ひぬ。

 かの御祖母(おば)北の方、慰む方なく思ししづみて、おはすらむ所にだに尋ね行かむ、と願ひ給ひししるしにや、つひに亡(う)せ給ひぬれば、またこれを悲しび思すこと限りなし。皇子(みこ)六つになり給ふ年なれば、このたびは思し知りて、恋ひ泣き給ふ。年ごろ馴れむつび聞こえ給ひつるを、見奉り置く悲しびをなむ、かへすがへす宣ひける。

 今は内裏(うち)にのみ侍ひ給ふ。七つになり給へば、読書始(ふみはじめ)などせさせ給ひて、世に知らず聡(さと)うかしこくおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。「今は誰(たれ)も誰もえ憎み給はじ、母君なくてだにらうたうし給へ」とて、弘徽殿(こきでん)などにも、渡らせ給ふ御供には、やがて御簾(みす)の内に入れ奉り給ふ。いみじき武士(もののふ)、仇敵(あたかたき)なりとも、見てはうち笑(ゑ)まれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。女御子(をんなみこ)たち二所(ふたところ)、この御腹におはしませど、なずらひ給ふべきだにぞなかりける。御方々も隠れ給はず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう、うちとけぬ遊びぐさに、誰も誰も思ひ聞え給へり。

 わざとの御学問はさるものにて、琴笛(ことふえ)の音(ね)も、雲居(くもゐ)をひびかし、すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。

【現代語訳】
 月日が過ぎて、若宮が内裏にお上がりになった。いよいよこの世のものとも思えないほど清らかに成長なさったので、帝はかえって不安に思われた。翌年の春に東宮がお決まりになるときにも、帝はこの若宮を第一の御子を飛び越して東宮に立てたく思われたが、御後見する人もなく、また世間が承知するはずもなかったので、かえって若宮のためによくないと懸念されて素振りにもお出しにならなくなったのを、あれほど可愛がっていらっしゃっても物には際限のあるのだなと世間の人も思い、弘徽殿女御もご安心なさった。

 若宮の祖母君の北の方は、慰む術もなく思い沈まれて、亡き更衣のおられる所に尋ねて行こうと願われた験があったのだろうか、とうとう亡くなられたので、帝はまたこれを限りなく悲しく思われる。若宮は六つにおなりの年であるので、今度はわけがお分かりになって、祖母恋しさにお泣きになった。祖母君も、ずっと自分に馴れ親しんでおられたのをみすみす後にお残し申してこの世に暇を告げる悲しさを、返す返すおっしゃっていたのだった。

 今は若宮は内裏にばかりいらっしゃる。七つにおなりになったので、読書始めなどなさったが、類なく聡明でお利口でいらしたので、帝はかえって行く末が不吉であるとまで思いあそばす。「今は誰であろうと若宮を憎むことはできまい。母君が亡くなったことによっても、可愛がっておくれ」と、弘徽殿などにお渡りのお供に若宮を連れていかれて、そのまま女御のお部屋の御簾の内にお入れになる。猛き武士や仇敵といっても、この若宮を見れば思わずほほ笑んでしまうほどのお姿なので、弘徽殿も遠ざけることがおできにならない。皇女たちおニ方が弘徽殿の御腹から生まれていらっしゃったが、若宮とお並びになることさえできないほどだった。女御更衣の御方々も、この若宮に対しては恥ずかしがって隠れなどはなさらず、幼い今から優雅なご様子でいらしたので、どなたも面白いようで気の許せるお遊び相手だと思っていらっしゃる。

 とくにお習いの御学問はもちろん、琴笛においても宮中を驚嘆させる音色を出されるし、一つ一つ言いたてていくと大仰すぎて嘘らしくなるほどに才能のめでたい若宮の御ありさまであった。 

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■高麗の人相見

 そのころ、高麗人(こまうど)の参れる、なかに、賢き相人(さうにん)ありけるを聞こしめして、宮の内に召さむことは、宇多の帝(みかど)の御誡(おほんいましめ)あれば、いみじう忍びて、この御子(みこ)を鴻朧館(こうろくわん)に遣はしたり。御後見(おほんうしろみ)だちて仕うまつる右大弁(うだいべん)の子のやうに思はせて、率(ゐ)奉るに、相人驚きて、あまたたび傾(かたぶ)き怪しぶ。「国の親となりて、帝王の上(かみ)なき位に昇るべき相(さう)おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷(おほやけ)の固めとなりて、天(あめ)の下を輔(たす)くる方にて見れば、またその相違(さうたが)ふべし」と言ふ。

 弁も、いと才(ざえ)かしこき博士(はかせ)にて、言ひかはしたることどもなむ、いと興ありける。文(ふみ)など作りかはして、今日(けふ)明日帰り去りなむとするに、かくあり難き人に対面したる喜び、帰りては悲しかるべき心ばへを、おもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作り給へるを、限りなうめで奉りて、いみじき贈物どもを捧げ奉る。おはやけよりも、多くの物賜はす。おのづから事ひろごりて、漏らさせ給はねど、東宮(とうぐう)の祖父(おほぢ)大臣(おとど)など、「いかなることにか」と思し疑ひてなむありける。

 帝(みかど)、かしこき御心に、倭相(やまとそう)を仰せて、思しよりにける筋なれば、今までこの君を親王(みこ)にもなさせ給はざりけるを、「相人はまことにかしこかりけり」と思して、「無品(むほん)の親王(しんわう)の外戚(げさく)の寄せなきにては漂はさじ。わが御世もいと定めなきを、ただ人(うど)にて、おほやけの御後見(うしろみ)をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々(みちみち)の才(ざえ)を習はさせ給ふ。際(きは)ことに賢くて、ただ人(うど)にはいとあたらしけれど、親王(みこ)となり給ひなば、世の疑ひ、負ひ給ひぬべくものし給へば、宿曜(すくえう)の賢き道の人に勘(かんが)へさせ給ふにも、同じさまに申せば、源氏になし奉るべく、思しおきてたり。

【現代語訳】
 そのころ、来朝した高麗人の中に聡明な人相見がいる由をお聞きになり、外国人を宮中に召されることは宇多天皇の御戒めがあるので、内密に若宮を鴻臚館(使節の宿舎)に行かせた。後見役の右大弁の子のように思わせて鑑定してもらうと、人相見は驚いて何度も首をかしげる。「国家の元首となって、帝王の位に昇るような人相がおありの方ですが、その方向で占うと、国が乱れ憂うことがあるでしょう。では、国家の重要な役職について国政を補佐する方と見れば、またその相とも違うようです」と言う。

 右大弁もかなり学識ゆたかな博士だったから、人相見と話し合ったことはたいそう興味深かった。漢詩などを作り交わし、今日明日にも帰国しようとする間際に、このようなめったにない人に対面した喜びや、お別れした後はかえって悲しみが深くなるという心持ちを巧みに詠じたところ、若宮もたいそう情緒深い詩句をお作りになったので、高麗人は口を極めて称賛申し上げ、めずらしい贈り物をいろいろ献上した。朝廷からも多くの物を高麗人にお与えになる。帝はこのことを誰にもお漏らしならないが、東宮の祖父にあたる大臣は、「どういうおつもりなのか」と思い疑っておられた。

 帝は、畏れ多くもご自身で日本流の観相をあそばしてお気づきになっていたことなので、今までこの君を親王にもなさらなかったのだが、あの高麗人の人相見は確かに聡明であるとお思いになり、「(若君を)無品の親王で、外戚の後見がないままの状態にしておくわけにはいかない、自分の治世もいつまで続くか分からないのだから、臣下として朝廷の補佐をするのが行く末も心丈夫であろうとご判断なさり、いよいよさまざまな学問を習わせなさった。若宮はたいへん聡明なので、臣下にするのは惜しいものの、親王におなりになれば世の疑いを受けそうな情勢なので、宿曜道の名人に判断をおさせになってもやはり高麗人と同じように申すので、源氏にしてあげようと、お考えを決められた。 

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■藤壺宮の入内

 年月(としつき)に添へて、御息所(みやすどころ)の御ことを思し忘るる折なし。「慰むや」と、さるべき人々参らせ給へど、「なずらひに思さるるだに、いとかたき世かな」と、疎(うと)ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝(せんだい)の四の宮の、御容貌(かたち)すぐれ給へる聞こえ、高くおはします、母后(ははぎさき)、世になくかしづき聞こえ給ふを、上に侍ふ典侍(ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴(な)れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、「亡(う)せ給ひにしに御息所の御容貌(かたち)に似給へる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見奉りつけぬを、后(きさい)の宮の姫宮こそ、いとよう覚えて、生(お)ひ出でさせ給へりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と御心とまりて、ねんごろに聞こえさせ給ひけり。
 
 母后、「あな恐ろしや。東宮(とうぐう)の女御の、いとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例(ためし)もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡(う)せ給ひぬ。
 
 心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女御子(をんなみこ)たちの同じ列(つら)に思ひ聞こえむ」と、いとねんごろに聞こえさせ給ふ。さぶらふ人びと、御後見(うしろみ)たち、御兄(せうと)の兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(みこ)など、「かく心細くておはしまさむよりは、内裏住(うちず)みせさせ給ひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせ奉り給へり。
 
 藤壺と聞こゆ。げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞ覚え給へる。これは、人の御際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえ給はねば、うけばりて飽かぬことなし。かれは、人の許し聞こえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。思し紛(まぎ)るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。

【現代語訳】
 年月が経つにつれても、帝は桐壺御息所のことをお忘れになる折とてない。「少しは心を慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「かの御息所に準ずるほどに思える人さえめったにいない世の中だ」と、どなたをご覧になっても疎ましく思うようになってしまわれた。そうしたところ、先帝の四の宮でご容貌が優れていらっしゃるという評判で母后がまたとなく大切に育てられた方を、帝にお仕えし先帝の御代から御奉公していた典侍が、あちらの宮にも親しく出入りしていたため、その四の宮をご幼少の時分から拝見し今でも時おりお目にかかっていて、「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、これまで三代の帝にわたって宮仕えを続けてきました中で一人も拝見できませんでしたが、先帝の后の宮の姫宮さまこそ、たいそうよく似てご成長あそばされました。世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「本当にか」とお心が引かれて、丁重に礼を尽くして四の宮の入内をお申し入れになった。
 
 母后は「まあ恐ろしいこと。東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が露骨に亡きものにされてしまった例も忌まわしい」と、おためらいになり、お気軽には決心もつかないうちに、その母后もお亡くなりになってしまった。
 
 四の宮が心細いようすでいらっしゃったので、帝は「ただ、わが皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くして仰せられた。お仕えする女房たちや御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしになって御心も晴らすように」などとお考えになって、入内させなさった。
 
 藤壺と申し上げる。なるほど、お顔立ちからご様子から、不思議なほど亡き更衣によく似ていらっしゃった。この方は、先帝の姫君でご身分も一段と高いので、人の思うところも申し分なく、誰も悪口を申すこともできないので、帝は誰に憚ることなく何も不足ない。昔のあの方の場合は人に認められるほどの身分でもないのに、あいにく帝のご寵愛が深すぎたので不幸な結果に終わったのである。帝は、そのお悲しみが紛れて亡き更衣のことをお忘れになるというのではないが、自然とお心が藤壺に移っていかれ、この上もなくお気持ちが和むようなのも、無理もない人情の性というものであった。 

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■光る君とかがやく日の宮

 源氏の君は、御あたり去り給はぬを、ましてしげく渡らせ給ふ御方は、え恥ぢあへ給はず。いづれの御方も、「我、人に劣らむ」と思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、いと若ううつくしげにて、切(せち)に隠れ給へど、おのづから漏(も)り見奉る。
 
 母御息所も、影だに覚え給はぬを、「いとよう似給へり」と、典侍(ないしのすけ)の聞こえけるを、若き御心地(みここち)に、いとあはれと思ひ聞こえ給ひて、「常に参らまほしく、なづさひ見奉らばや」と覚え給ふ。
 
 上も、限りなき御思ひどちにて、「な疎(うと)み給ひそ。あやしくよそへ聞こえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくし給へ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、通ひて見え給ふも、似げなからずなむ」など聞こえつけ給へれば、幼心地にも、はかなき花、紅葉(もみぢ)につけても心ざしを見え奉る。こよなう心寄せ聞こえ給へれば、弘徽殿(こきでん)の女御、またこの宮とも、御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。
 
 世にたぐひなしと見奉り給ひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なくうつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならび給ひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。

【現代語訳】
 源氏の君は、帝のお側をお離れにならないので、まして帝が頻繁にお渡りあそばす藤壺宮は、源氏の君に恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。どのお妃方も「自分が人より劣っている」と思っていらっしゃるはずもなくそれぞれにお美しいが、ややお年を召しているのに対して、藤壺宮はとても若く可憐で、ひどくはにかんでお姿をお隠しになるが、源氏の君は自然と物のすき間からお顔を拝見する。
 
 源氏の君は、母君のことは面影さえご記憶にないのだが、「藤壺宮は母君にとてもよく似ていらっしゃる」と、おそば付きの典侍が申し上げるものだから、幼心に藤壺宮をとても慕わしいとお思いになり、「いつもお側近くに参りたく、親しくお顔を拝見したい」とお思いになった。
 
 帝もこの上なくお可愛がりのお二方なので、「どうかこの子をお疎みなさいますな。不思議とあなたはこの子の母君のような心地がする。ですから失礼だとお思いにならず可愛がってやってください。顔だちや目もとなど大変よく似ているため、母君のようにお見えになるのも決して不似合いではないのですよ」などとお頼みになるので、源氏の君は幼心にも、ちょっとした花紅葉の折につけても、藤壺宮に対する好意をお見せになる。それがこの上ない様子だったので、弘徽殿の女御は、またこの藤壺宮とも仲がよろしくないのに加えて元からの憎しみもよみがえってきて、源氏の君を不愉快だとお思いになっていた。
 
 世の中にまたとないお方だと評判高くおいでになる一の宮のご容貌よりも、やはり源氏の照り映える美しさにはたとえようもなく、世間の人は「光る君」とお呼び申し上げている。藤壺宮も源氏の君とお並びになって、帝の御寵愛がそれぞれに厚いので「輝く日の宮」とお呼び申し上げている。 

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■源氏の元服

(一)
 この君の御童姿(おほんわらはすがた)、いと変へまうく思せど、十二にて御元服(おほんげんぷく)し給ふ。居起(ゐた)ち思しいとなみて、限りあることに、ことを添へさせ給ふ。一年(ひととせ)の東宮(とうぐう)の御元服、南殿(なでん)にてありし儀式、よそほしかりし御ひびきにおとさせ給はず。ところどころの饗(きよう)など、内蔵寮(くらづかさ)、穀倉院(こくさうゐん)なと、公事(おほやけごと)に仕うまつれる、おろそかなる事もぞと、とりわき仰せ言ありて、きよらを尽くして仕うまつれり。

 おはします殿(でん)の東の廂(ひさし)、東向きに倚子(いし)立てて、冠者(くわんざ)の御座、引き入れの大臣(おとど)の御座、御前(おまへ)にあり。申(さる)の刻(とき)にて源氏参り給ふ。みづら結ひ給へる頻(つら)つき顔のにほひ、さま変へ給はむこと惜しげなり。大蔵卿、蔵人(くらびと)仕うまつる。いと清らなる御髪(みぐし)をそぐほど、心苦しげなるを、上は、御息所(みやすどころ)の見ましかば、と思し出づるに、堪へがたきを、心づよく念じかへさき給ふ。

 かうぶりし給ひて、御休所(やすみどころ)にまかで給ひて、御衣(おほんぞ)奉りかへて、下りて拝し奉り給ふさまに、皆人涙落し給ふ。帝、はた、ましてえ忍びあへ給はず、思しまぎるる折りもありつる昔の事、取りかへし悲しく思さる。

【現代語訳】
 帝は、この君の御童姿を変えてしまうのは残念に思われたが、十ニ歳で元服なさる。帝は御自ら立ち回られていろいろと気を遣いなさり、しきたりに加えて更に様々なことをお加えあそばす。昨年、東宮のご元服が南殿において立派に行われたが、それに劣らないようにとお命じになる。あちこちで行われる祝宴なども、内蔵寮、穀倉院などが公の規定のままに行ったのでは粗相もあろうと、特別に仰せ下されて、華麗さを尽くしておさせになった。

 帝がいらっしゃる清涼殿の東の廂の間に、主上のご椅子を立て、冠者(元服する者)の御座、加冠役の大臣の御座がその御前にある。申の刻(午後三時)に、源氏の君が席につかれた。髪をみずらに結うておられるご容貌、お顔のつややかさは、その姿をお変えになるのがもったいないほどだ。大蔵卿がみぐし上げの役をお勤めする。清らかな御髪をお切りする間、心苦しい様子であるのを、帝は、御息所(桐壺更衣)がこの姿を見たならと思い出されるにつけ、堪えがたい心地をじっとこらえていらっしゃる。

 源氏の君は、加冠の儀式をおすましになり、御休憩所に退出なさって装束を成人用の衣に着替えなさってから、清涼殿の東の庭に下りて帝へ拝舞なさる様子に、誰も皆、涙を落とされる。帝もまた、他の人にもましてこらえることがおできにならず、最近では物にまぎれて忘れていらっしゃた昔のことを、あらためて思い出して悲しくお思いになる。 

(二)
 いとかうきびはなる程は、あげおとりや、と、疑はしくおぼされつるを、あさましう、うつくしげさ添ひ給へり。引き入れの大臣(おとど)の、皇女腹(みこばら)に、ただ一人かしづき給ふ御(おほん)むすめ、東宮よりも御気色(みけしき)あるを、思(おぼ)しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。内裏(うち)にも、御気色賜はらせ給へりければ、「さらば、この折りの後見(うしろみ)なかめるを、添臥(そひぶし)にも」と、もよほさせ給ひければ、さ思したり。さぶらひにまかで給ひて、人々、大御酒(おほみき)など参るほど、親王(みこ)たちの御座の末に、源氏着き給へり。大臣(おとど)気色ばみ聞こえ給ふことあれど、もののつつましき程にて、ともかくもあへしらひ聞こえ給はず。

 御前(おまえ)より、内侍(ないし)、宣旨(せんじ)うけたまはり伝へて、大臣(おとど)参り給ふべき召しあれば、参り給ふ。御禄(ろく)の物、上(うへ)の命婦(みやうぶ)取りて、賜ふ。白き大袿(おほうちぎ)に御ぞ一領(ひとくだり)、例のことなり。御さかづきのついでに、

 いときなきはつもとゆひに長き世を契る心は結びこめつや

御心ばヘありて、おどろかさせ給ふ。

 結びつる心も深きもとゆひに濃きむらさきの色しあせずは

と奏して、長橋(ながはし)よりおりて、舞踏(ぶたふ)し給ふ。左馬寮(ひだりのつかさ)の御馬、蔵人所(くらうどどころ)の鷹すゑて、賜はり給ふ。御階(みはし)のもとに、親王(みこ)たち上達部(かんだちめ)つらねて、禄(ろく)ども品々に賜はり給ふ。

 その日の御前(おまえ)の折櫃物(をりびつもの)、寵物(こもの)など、右大弁なむ、うけたまはりて仕うまつらせける。屯食(とんじき)、禄の唐櫃(からびつ)どもなど、ところせきまで、東宮の御元服の折りにも数まされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。

 その夜、大臣の御里に、源氏の君まかでさせ給ふ。作法、世にめづらしきまで、もてかしづき聞こえ給へり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしう、うつくし、と思ひ聞こえ給へり。女君(をんなぎみ)は、すこし過ぐし給へるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかし、と思(おぼ)いたり。

【現代語訳】
 このような幼いうちに髪を上げては見劣りするのではと案じていらっしゃったが、あきれるほど美しさを加えられた。加冠役の大臣は、宮家の出である北の方との間にもうけられた一人の姫君を大切になさっていて、東宮からもご所望があるのを思い迷っていたのは、この源氏の君に差し上げようとの御心があったためである。大臣はかねて帝の御内意をお伺いしてあったので、帝が「それなら、この際、後見役がないようなので、添臥させてはどうか」とお促しになったので、大臣もそうしようと思われた。

 人々が控室に退出なさってお祝いの酒などを召し上がっている時、親王たちの御座の末に源氏の君はお着きになった。隣に座った大臣は、姫君のことをそれとなくほのめかして申し上げるが、源氏の君は何かと恥ずかしい年頃であるので、何ともお答えにならない。

 帝の御前から、内侍が宣旨をうけたまわって、大臣に御前に参上するようお召しがあったので、参上なさる。御褒美の品を、帝つきの命婦が取次をして下賜なさる。白い大袿に御衣一揃えはお決まりの通りである。御盃を賜わるついでに、

 
まだ幼い人に初めての元結のひも、それを結ぶときに、末長い関係を約束する心を結びこめたか。

帝は、娘の結婚のご意向をふくめて、左大臣に念を押される。

 
心を込めて結び込めました元結、その濃い紫が色褪せず、娘との関係をいつまでも続けてくださればと頼みおります。

と奏上して、左大臣は長橋から庭におりて舞踏なさった。左馬寮の御馬と蔵人所の鷹を据えて頂戴なさった。御階の下に親王たちや上達部も列をつくって、それぞれにふさわしい褒美を頂戴なさった。

 その日の帝の御前に備えられた折櫃物、籠物といった献上品は、後見役の右大弁が責任をもって手配させなさったものである。屯食、下賜品をおさめた唐櫃などはその場にあふれかえるほどで、東宮のご元服の時よりも数が多い。今度のほうがかえって限りなく盛大に行ったのだった。

 その夜、左大臣の邸に、源氏の君は退出して来られた。左大臣家は婿をむかえる儀式を、世に類がないほどに整えて、丁重におもてなし申し上げた。源氏の君がたいそう子供らしくていらっしゃるのを、左大臣は非常に可愛らしくお思いになる。姫君は源氏の君より少し年上でいらっしゃるのに、源氏の君がとても若くいらっしゃるので、不釣り合いで恥ずかしいとお思いになる。

(注)添臥・・・東宮や皇子の元服の夜、公卿の娘などを奉る例。
(注)折櫃物・・・折に詰めた料理。
(注)籠物・・・籠に入れた菓子。
(注)屯食・・・強飯を固めて丸くしたもの。 

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■左大臣家と右大臣家

 この大臣(おとど)の御おぼえいとやむごとなきに、母宮、内裏(うち)の一つ后腹(きさいばら)になむおはしければ、いづかたにつけてもいとはなやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、東宮の御祖父(おほぢ)にて、つひに世の中を知りたまふべき右の大臣の御勢(いきほ)ひは、ものにもあらずおされ給へり。御子どもあまた腹々(はらばら)にものし給ふ。宮の御腹は、蔵人(くらうど)の少将にて、いと若うをかしきを、右の大臣の、御仲はいとよからねど、え見過ぐし給はで、かしづき給ふ四の君にあはせ給へり、劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。

 源氏の君は、上(うへ)の常に召しまつはせば、心安く里住みもえし給はず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひ聞こえて、「さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿(おほいとの)の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」おぼえ給ひて、幼きほどの心一つにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。

 大人になり給ひて後は、ありしやうに、御簾(みす)の内にも入れ給はず。御遊びの折々、琴笛(ことふえ)の音(ね)に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住(うちず)みのみ好ましうおぼえ給ふ。五六日(いつかむゆか)さぶらひ給ひて、大殿(おほいとの)に二三日(ふつかみか)など、絶え絶えにまかで給へど、ただ今は、幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづき聞こえ給ふ。御方々の人々、世の中におしなべたらぬを、選(え)りととのへすぐりて侍(さぶら)はせ給ふ。御心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたづく。

 内裏(うち)には、もとの淑景舎(しげいさ)を御曹司(みざうし)にて、母御息所の御方の人々、まかで散らず侍はせ給ふ。里の殿は、修理職(すりしき)、内匠寮(たくみづかさ)に宣旨(せんじ)下りて、ニ(に)なう改め造らせ給ふ。もとの木立、山のたたずまひ、おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住まばやとのみ、嘆かしう思しわたる。

 光る君といふ名は、高麗人(こまうど)のめできこえて、つけ奉りけるとぞ、言ひ伝へたるとなむ。

【現代語訳】
 この左大臣は、帝のご信任が厚い上に、姫君の母は帝と同腹の妹君でいらっしゃるので、どちらから見ても申し分のないご身分であるのに加えて、この源氏の君まで婿として迎えたので、東宮の御祖父としてゆくゆくは天下をお治めになるはずの右大臣のご勢力は、物の数でもないほどに圧迫されてしまわれた。左大臣は御子たちが多くの腹々にいらっしゃる。姫君と同じ母宮のお子は蔵人少将でたいそう若くてお綺麗なので、仲のよくない右大臣も無視することがおできにならず、大切にお育てになっている四の君に見合わせた。このように左大臣家が源氏の君を、右大臣家が蔵人少将を、それぞれ婿として大切になさっているのは、理想的なおん間柄であった。

 源氏の君は、帝がいつもお召しになり近くに置かれるので、ゆっくり左大臣邸でお暮らしになれない。心のうちには、ただ藤壺の御様子を類もなくすばらしいものと思い、「そのような女性を妻として迎えたい、他にこのような女性はいない。左大臣の姫君は、可愛らしく大切に育てられた人とは見えるが、心惹かれはしない」と感じられて、藤壺のことが幼い心ひとつにかかって、たいそう苦しい思いをしていらっしゃった。

 でも、元服をなさって後は、帝も前のようには御簾の内へもお入れにならない。管弦の遊びの折々、藤壺は琴を、源氏の君は笛を奏され、ほのかなお声が御簾の中からもれてくるのを慰めにして、内裏住まいを好ましいことにお思いになる。五日六日も内裏に侍うて、左大臣邸にはニ日三日というように絶え絶えにおいでだが、今は年若くしていらっしゃるので罪のないことと左大臣は解釈なさって、手を尽くしてお世話申し上げていらっしゃる。婿君にも姫君にも並々でない女房たちを選りすぐって侍わせていらっしゃる。お気に入るような催しごとをなさったりして、精一杯ご機嫌を取られる。

 内裏では、もと桐壺更衣がお住まいだった淑景舎を源氏の君のお部屋として、母御息所にお仕えしていた女房たちを散らさずそのまま使っていらっしゃる。亡き桐壺更衣の邸宅は、修理職、内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派に造りかえられる。もともと木立も山のたたずまいも風情あふれる所であったのを、池をさらに掘り広げる工事が始まって、大変な賑やかさだ。それにつけても、こういう所に心に、叶う人を妻に迎えて住みたいとばかり思い続けてため息をついておられる。

 光る君という名は、高麗人がお褒め申し上げてお付けしたのだと、言い伝えられているとか。 

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「源氏物語」について

11世紀初めに紫式部が著した物語で、平安時代の女流文学の代表作。書名は作者が命名したのではなく、『紫式部日記』や『更級日記』などに見える『源氏の物語』が本来の呼び方であったといわれる。一般的に全編54帖(じょう)を3部にわけ、光源氏の栄華への軌跡を第1部、その憂愁の晩年を第2部、次世代の薫や匂宮(におうのみや)の物語を第3部とする。第3部最後の10帖は、宇治を舞台に展開することから「宇治十帖」とよばれる。

400字詰め原稿用紙にすると約2400枚に及ぶ長さがあり、500名近くの人物が登場する。時代も70年余りにわたっており、また800首弱の和歌を含んだ歌物語としてもみることができる。

ただし紫式部が書いた原本は残っておらず、現在伝わる最古の写本も鎌倉時代のものである。また紫式部が執筆したことは間違いないとされるが、作者複数説も古くからあるなど、諸説あって解明されていない点も多い。

全編は、『竹取物語』『宇津保物語』などの伝奇物語、歌物語の『伊勢物語』、『古今集』『後撰集』、あるいは中国渡来の『白氏文集』『史記』などの影響を受けながら、独自の世界を開き、『蜻蛉(かげろう)日記』から生まれた古歌を引用する引歌(ひきうた)の技法も随所に見られ、対話や心内語を駆使して内面を巧みに掘り下げる描写がなされている。現在、漢詩文や浄土教思想からの影響について、多くの研究がなされているが、ほかに民俗学や文化人類学をはじめ隣接した諸分野の成果をとりいれた多角的な研究も盛んである。

『更級日記』の作者・菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が日夜愛読したことが示すように、『源氏物語』は成立直後から人気を博し、のちの物語・絵画・能などにも大きな影響をあたえた。物語では、平安末期の『夜の寝覚』『狭衣(さごろも)物語』や、江戸時代の『好色一代男』(井原西鶴)にもその影響がみられる。絵画では、現存最古の源氏物語絵巻が平安末の作とされ、以後「源氏絵」として様式化された図柄は、調度や服飾などに多く用いられた。また、和歌の規範としての研究から、多くの注釈書が生まれ、なかでも江戸時代の国学者本居宣長が『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』で、「もののあはれ」と評したのは有名。

全体のあらすじ

家柄も身分もそれほど高くなかった一人の更衣(こうい)が、帝に愛され玉のような男子(光源氏)を生むが、周囲に嫉妬されて亡くなった。臣籍に降下した光源氏は、美貌と才能に恵まれ、多くの女性と交渉を持ち、しだいに栄華の道を歩む。光源氏出生を記す第1帖(第1巻)「桐壷」から39歳で栄華の頂点に達する第33帖「藤裏葉(ふじのうらば)」までを第1部、これをさらに紫上(むらさきのうえ)を中心とする物語、玉蔓(たまかずら)中心の物語の甲、乙に分ける考え方もある。

第2部は、光源氏40歳以降の凋落期へ話が進む。理想の女性紫上との水も漏らさぬ間柄も、先帝朱雀院に末娘女三宮(おんなさんのみや)の後事を託されることによって、しだいに亀裂が生じてくる。光源氏の正妻となった女三宮はやがて、前から自分にあこがれていた柏木と通じてしまう。これを知った光源氏は、若いころ自分が父の思い人藤壺と契ったことを思い起こし、罪の報いに身震いする。

光源氏に皮肉な言葉を浴びせられた柏木は病死し、女三宮は男子を出産するが、ほどなく出家してしまう。光源氏は我が子ならぬ子を抱くが、愛情が湧いてこなかった。やがて病気がちだった最愛の紫上も死に、落莫の思いに閉ざされた光源氏は出家の用意をする。以上が第24帖「若葉上」から第41帖「幻」までの8帖で、このあと題名み伝えられる「雲隠」の帖で光源氏の死が暗示される。

第三部の第45帖「橋姫」から最終帖「夢浮橋」はいわゆる「宇治十帖」である。光源氏亡きあと、女三宮の子薫は、仏道と恋愛のいずれにも没頭できない優柔不断な面がある一方、篤実な魂を持つ男として描かれる。「夢浮橋」は「男女の仲」というほどの意であり、さまざまな男女関係を記し、その深さ、重さ、人間存在の深淵にまでたどりつく『源氏物語』の終章にふさわしいタイトルとなっている。

各部のあらまし

【第1部】(源氏1~39歳)
光源氏の誕生
桐壺更衣の死
皇子、源姓を賜る
藤壺の入内
源氏の元服と結婚
藤壺への思慕
雨夜の品定め
空蝉と契る
空蝉に逢えず
夕顔のもとへ通う
夕顔の死
夕顔の遺児、玉鬘
紫上を垣間見る
花の赤い姫君
紫上を引き取る
藤壺に近づく
藤壺が出産
朧月夜君と逢う
桐壺帝が譲位
葵上の死
源氏、紫上と結婚
葵上をしのぶ
六条御息所を訪ねる
桐壺院の死
藤壺の出家
花散里と契る
源氏、須磨に下る
大暴風雨に遭う
源氏、明石に移る
明石上と逢う
朱雀帝、源氏を召還
朱雀帝が譲位
明石上と住吉で逢う
末摘花邸の荒廃
末摘花と再会
空蝉と出会う
前斎宮の入内
源氏、出家を志す
二条院東院の造営
紫上、明石姫君を養育
藤壺の死
帝、出生の秘密を聞く
夢に藤壺が現れる
夕霧の教育
夕霧と雲居雁の恋
六条院の造営
玉鬘、筑紫へ
玉鬘、源氏に引き取られる
春の御殿の舟楽
玉鬘に言い寄る人々
蛍火に輝く玉鬘
夕霧と柏木の恋
無教養な近江君
篝火に映える玉鬘
夕霧、紫上を垣間見る
風の見舞い
大原野の行幸
玉鬘の裳着
夕霧、玉鬘に言い寄る
髭黒、玉鬘を慕う
玉鬘、髭黒と結ばれる
明石姫君の裳着
春宮の元服
夕霧、雲居雁と結ばれる
明石姫君の入内
源氏、准太上天皇になる
 
【第2部】(源氏39~52歳)
女三宮を源氏に託す
源氏四十の賀
明石女御が出産
柏木、女三宮を垣間見る
冷泉帝が譲位
源氏、住吉に参詣
紫上が重病に
柏木、女三宮と契る
女三宮が懐妊
柏木、病に臥す
女三宮が出産
柏木の死
柏木の一周忌
女三宮の持仏供養
鈴虫の音を聴く
夕霧、落葉宮を訪ねる
夕霧、落葉宮を引き取る
紫上の法華経千部供養
紫上の死
源氏、紫上を回想
源氏、出家を決意
源氏の死

【第3部】(薫14~28歳)
薫と匂宮
香を競い合う二人
中君の入内
玉鬘、大君の不幸を嘆く
宇治八宮と二人の姫君
薫、八宮を訪う
薫、姫君を垣間見る
薫、出生の秘密を知る
匂宮、宇治を訪う
八宮の死
薫、大君に心中を明かす
匂宮、六君との縁談を拒む
匂宮、継姫君を望む
大君、薫になびかず
匂宮、中君と契る
大君の死
中君、二条院に迎えられる
匂宮、六君と結婚
薫、女二宮と結婚
薫、浮舟を見る
浮舟、二条院に移る
浮舟、宇治に移る
匂宮、浮舟と契る
浮舟、死を決意
浮舟が行方不明に
浮舟、発見される
浮舟、小野に移る
浮舟の出家
浮舟、下山の勧めを拒む

おもな登場人物

主人公
●光源氏
 桐壺帝の第2皇子。母は桐壺更衣。母とは幼いころに死別。美質に恵まれるが、皇位継承はかなわず、源氏の姓を賜わって臣籍に下る。
 なお、光源氏のモデルとなったのではないかという複数の実在人物が推定されており、その有力候補が、嵯峨天皇の第12皇子だった源融(みなもとのとおる)と、醍醐天皇の第10皇子だった源高明(みなもとのたかあきら)の二人。いずれも「源」の姓を賜わって臣籍降下しており、母の身分が更衣だったことが光源氏と共通している。他にも、在原業平、藤原道長などの人物が候補に挙げられている。

光源氏の両親
●桐壺帝
 光源氏の父。身分の低い桐壺更衣を寵愛し、その忘れ形見の源氏を一時は東宮にとも願ったが、将来を考えて臣籍降下させる。醍醐天皇がモデルとされる。
●桐壺更衣
 光源氏の母。故按察大納言の娘。桐壺帝の寵愛を一身に受けたが、源氏が3歳の時に病で死去。

光源氏の兄弟
●朱雀帝
 桐壺帝の第一皇子で、光源氏の異母弟。母は弘徽殿女御。源氏との関係を知りつつも、朧月夜を寵愛。

光源氏の女君たち
●藤壺
 桐壺帝の中宮。亡き桐壺の更衣に酷似するというので源氏に慕われ、不義の子を産む。その後も続く源氏の執拗な求愛を避け出家。
●葵の上
 源氏の最初の正室。父は左大臣。結婚当初から関係は冷え切っており、夕霧を産んだのち、反感を買っていた六条の御息所の生霊に呪われ急死。
●空蝉
 老いた受領伊予介の後妻。源氏とは一夜のみの過ち。そのうち、夫の任地へ下る。後年、出家。
●軒端萩
 空蝉の義理の娘。明かりの落ちた部屋で空蝉と間違われ源氏と関係を持つ。
●夕顔
 源氏とは素性を隠して密会していたが、ある夜、物の怪に取り憑かれて急死。のちに頭の中将の愛人だったことが判明。その遺児が玉鬘。
●紫の上
 若紫とも。藤壺の兄の式部卿の娘。葵の上亡き後、正室ではないが、源氏の妻たちの中では、最も寵愛される。
●朧月夜
 右大臣の姫君で、弘徽殿女御の妹。朱雀帝に入内前に密会し、それが露見し、源氏は須磨へ配流。その後、朱雀帝に寵愛されるも、出家直前まで源氏との関係は続く。
●六条御息所
 先の東宮妃。教養高く優雅な貴婦人で源氏の愛人だったが、源氏の心離れへの恨みから、生霊となって女君たちに祟る。その後、娘の斎宮とともに伊勢に下向。再上京後に病死。
●花散里
 桐壺帝の妃・麗景殿の女御の妹。世話好きな女性で、生涯にわたって源氏と良好な関係を築き、厚い信頼を受ける。
●末摘花
 没落宮家の姫君。鼻が赤いからついた名が末摘花(紅花)。その醜い風貌を不憫に思った源氏は、面倒を見ようと決意する。
●源典侍
 桐壺帝に仕える高齢の女官。50代半ばながら好色で源氏を誘惑する。情事の現場を頭の中将に見つかって嚇される。夫は修理大夫。
●明石の上
 明石の入道の娘。須磨に流浪中の源氏と結ばれ、姫を産む。のちに上京、余生は六条院で過ごす。
●朝顔の姫君
 桃園式部卿宮の娘、斎院。源氏に求婚されたが拒み通した。
●女三宮
 朱雀院の皇女で、源氏の二番目の正室。薫の母。頭の中将の長男・柏木に迫られ、拒めずに関係を持ち薫を出産。その後、出家。

光源氏の子女
●冷泉帝
 表向きは桐壺帝の第十皇子であるが、実際には光源氏と藤壺中宮の間にできた男子。朱雀帝の譲位後に即位。後に出生の秘密を知り、源氏を准太政天皇に昇進させる。
●夕霧
 実質的な長男(実際の長男は冷泉帝)で、母は葵の上。
●明石中宮
 源氏の長女で、母は明石の方。紫の上の養女となる。匂宮の母。
●薫
 表向きは源氏と女三宮の次男であるが、実父は柏木。

左大臣家(藤原氏)
●頭中将
 左大臣と大宮の子。葵の上の同母兄。のちに内大臣、太政大臣。冷泉帝の退位を機に、自身も政事を退き隠居。
●左大臣
 葵の上と頭中将の父。藤原左大臣家の統領。桐壺帝や源氏とは公私共に親しい。若き日の源氏の後見人で、源氏の舅。冷泉帝即位時には源氏の要請を受け太政大臣に就いた。
●大宮
 桐壺帝の同母姉妹で左大臣の正室。葵の上、頭中将の母。
●右大臣の四の君
 頭中将の正室。若い頃は阿夫と疎遠であった。朧月夜の姉。柏木、紅梅、弘徽殿女御の母。
●柏木
 頭中将の長男。従兄弟の夕霧とは親友。源氏の二人目の正妻・女三宮に恋し、源氏の留守中に強引に契った。三宮の懐妊がきっかけで、源氏に不義が知られてしまい、苦悩の内に若くして世を去る。
●紅梅
 頭中将の次男、柏木の弟。
●弘徽殿女御
 頭中将の娘。冷泉帝の最初の妃となり、帝とは年も近く寵愛されていたが、源氏の後見を受けた秋好中宮には及ばず、中宮の座を得られなかった。
●雲居雁
 頭中将の娘。夕霧の正室。後年は夕霧の心移りに悩む日々を過ごす。
●玉蔓
 頭中将と夕顔の娘。類いまれな美貌で、乳母一家と大宰府で暮らしていたが、大夫監の強引な求婚から逃げるように帰京し、宮中の人気を独占する。
●近江の君
 頭中将の落胤。
●五節の君
 近江君の女房。

右大臣家(藤原氏)
●弘徽殿女御(大后)
 右大臣の娘。桐壺帝のもとに入内。第一皇子(朱雀帝)を産む。帝の寵愛を一身に受ける桐壺の更衣を憎んで迫害し、その子源氏にも終生敵対する。
●右大臣
 弘徽殿女御、朧月夜らの父。一時は源氏を朧月夜の婿に迎えようともしていた。

その他
●秋好中宮
 前東宮の姫君。母は六条御息所。母に死別して孤立無援となった彼女を、光源氏が養女として冷泉帝に入内させた。
●浮舟
 桐壺帝八の宮の庶出の娘。 「宇治十帖」の主要人物。薫と匂宮に思われ、悩み抜き入水自殺。助かると即、出家。光源氏と直接の関わりはない。

「桐壺」のあらすじ

(源氏 誕生~12歳)
(藤壺 6~17歳)
(葵の上 5~16歳)


いつの御代であったか、帝のご寵愛を一身に集めていた更衣(こうい)がいた。その女性は故大納言の娘、桐壺(きりつぼ)であった。宮中の桐壺に部屋を与えられていたのでそう呼ばれる。ほかの妃たちは、身分の高くない更衣が寵愛を受けるのに嫉妬し迫害したが、更衣はやがて玉のような美しい皇子(源氏)を産んだ。

帝は愛する更衣が産んだ皇子を溺愛した。そのため、弘徽殿女御(こきでんのにょうご:右大臣の娘)ほか多くの女御更衣たちの嫉妬と迫害はますます激しくなり、皇子が3歳になった年の夏、更衣は、心労のために病を得て里に下がり、再び宮中に戻ることなく死去した。帝は深く悲しみ、野分(のわき)のころ、更衣の里に命婦を遣わし、更衣の母をお見舞いになった。

翌年、先に生まれていた第一皇子(後の朱雀帝)が東宮(皇太子)に立たれ、母の弘徽殿女御は安堵した。一方、更衣の皇子(源氏)は7歳で教育を受け始め、比類のない美しさと才能を具えて成長していった。帝は、皇子の尋常でない資質ゆえにかえってその将来を案じ、高麗の相人の占いに従って、臣籍にくだして源姓を与えた。

間もなく先帝の四宮、藤壺(ふじつぼ))が入内した。この人は亡き更衣に生き写しであった。世の人は、源氏を「光る君」、藤壺を「輝く日の宮」と申し上げた。源氏は、母に似ているといわれるこの人に、幼心にも憧れの気持ちを持つようになった。

やがて12歳なった源氏は元服し、その日のうちに左大臣の姫君、葵の上(あおいのうえ)と結婚した。彼女は4歳年上で、源氏は、とりすました葵の上に親しみが持てず、心のうちでは藤壺を深く思慕した。そのころ、帝は、亡き更衣の里邸を改築して二条院とし、源氏はそこに移った。


※巻名の「桐壺」は、本文中の記述「御局は桐壺なり」が由来となっている。『源氏物語』54帖の第1帖、発端の巻であり、物語の端緒として、運命の予言や藤壺への恋情や政界の勢力図など、ここから始まる雄大な物語の配置、構造を様々に暗示し、準備するものとなっている。

※この巻の後の源氏13~17歳の期間が空白となっており、この期間を描いた「輝く日の宮」という巻があったとする説もある。

(注)更衣・・・もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だったが、後に天皇の妻の呼称となる。大納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、女御に次ぐ地位。ふつう四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。ちなみに、桐壺帝のモデルとされる醍醐天皇には、女御5人、更衣19人が仕えていたという。

後宮について

後宮
天皇が住む住居を内裏(だいり)といい、皇后や妃などや、その子、またそれらに仕える女官たちは、内裏の北部に建てられた宮中奥向きの宮殿すなわち後宮(こうきゅう:七殿五舎)で暮らしていた。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の場合は必ずしもそうではなかった。後宮の女性の人数は全部で数百人、多い時には千人を越えた。『源氏物語』に登場する桐壺、藤壺といった女性の名は、それぞれが後宮内に賜わった殿舎の名で、固有の人名ではない。天皇が暮らす清涼殿に近い殿舎ほど格上とされた。

皇后
今上天皇の正妻。「きさき」または「きさきのみや」とも呼ぶ。もとは皇族から立たれていたが、奈良時代の光明皇后の時から人臣から出るようになった。
 
中宮
皇后と同資格をもつ后。皇后が二人立てられたときの名残の異称で、2番目以降の者をさす場合が多かった。「中宮」の本来の意味は「皇后の住居」。転じて、そこに住む皇后その人を指して中宮と呼ぶようになった。
 
女御
「皇后」「中宮」に次ぐ地位で、「更衣」の上位。 摂政・関白・大臣の娘から出るのがふつうだった。 桓武天皇のときに始まり、初めは地位が低かったが、次第に高くなり、醍醐天皇の女御の藤原穏子(ふじわらのおんし)以後は、女御から皇后にあがるようになった。
 
更衣
もとは天皇の着替えの役目をもつ女官の職名だったが、後に天皇の妻の呼称となる。大納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、女御に次ぐ地位。ふつう四、五位だったが、後に女御に進む者も出た。
 
御息所
女御・更衣を漠然とした言い方。また皇太子妃を指す場合もある。

女官・女房
尚侍(ないしのかみ)
後宮の役所である内侍司の長官。のちに女御、更衣に準じる后妃的な存在になった。摂関家の娘などがなる。『源氏物語』では、朧月夜、玉鬘が尚侍となっている。
典侍(ないしのすけ)
内侍司の次官。尚侍の后妃化にともない実質的に長官の役割を担うようになった。
掌侍(ないしのじょう)
内侍司の三等官で、その長を勾当掌侍(こうとうのないし)という。命婦や女孺らを指揮して内裏内や儀礼の事務処理をした。
命婦(みょうぶ)
尚侍・典侍・内侍侍に次ぐ、五位以上の位階を有する中級の女官。
女孺(にょじゅ)
内侍司に属し、掃除や照明をともすなどの雑務に従事した下級女官。
女房
紫式部や清少納言は、こうした女官ではなく、后に仕える女房だった。上級の者には「房(ぼう)」と呼ばれる部屋が与えられたため、そこからそうした女性を「女房」と呼ぶようになった。女房たちは、後宮内での接待や取次、主への御進講(学問の講義)などの仕事のほか、主の話相手になり、身の回りの世話もした。ただし、后や天皇に仕える女房たちが「官人」だったかどうかは定かでなく、后妃が私的に主従関係を結んでいたとする説もある。

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