巻第2-123~125
123 たけばぬれたかねば長き妹(いも)が髪このころ見ぬに掻(か)き入れつらむか 124 人(ひと)皆(みな)は今は長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも 125 橘(たちばな)の蔭(かげ)踏む道の八衢(やちまた)に物をぞ思ふ妹(いも)に逢はずして |
【意味】
〈123〉束ねようとすれば解けてしまい、束ねなければ長過ぎるお前の髪は、このころ見ないうちに、誰かが結い上げてしまっただろうか。
〈124〉人は皆、髪が長いから束ねたらと言いますが、あなたが見慣れた髪ですから長いままにしておきます、今は乱れていても。
〈125〉橘の木陰を行く道が八方に分かれているように、どうしらたよいか、あれやこれやと思い乱れている。お前に逢えないので。
【説明】
題詞に「三方沙弥、園臣生羽(そののおみいくは)の女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、病に臥(ふ)して作る歌」とあります。三方沙弥も園臣生羽も伝未詳です。新婚まもなく三方沙弥が病気になってしまい、若妻のもとへ妻問いすることができなくなりました。病に臥しているのは自分の家です。123は、逢えなくなった若妻の心変わりを心配した沙弥が贈った歌、124が娘子(おとめ)が答えた歌です。125は沙弥の歌。
妻は幼いといっていいほどの若い妻で、髪もまだ伸びきっていません。結い上げようとすればほどけ、束ねないでおくと長すぎる中途半端な長さで、少女から娘になろうとする頃の、ういういしい幼な妻です。女が髪上げをするのは、すでに夫があるということを周囲に示すということでもありました。また、この時代には、夫が幼な妻の髪上げをする風習や、女は再び逢うまでは髪型を改めないなどの風習もあったといいます。
123の「たけば」は、束ねれば。「ぬる」は、ほどける。「掻き入れつらむか」の「掻き入れ」は、櫛を入れて結い上げること。「つ」は完了の助動詞。「らむ」は現在推量の助動詞。「か」は疑問。この歌には、長らく逢えないうちに、ひょっとして心変わりして別の男と結婚して髪を結い上げたのではないか、という意も言外に含んでいます。離れて暮らしているので、その不安はなおさらです。124の「たけと言へど」は、髪を上げよというけれども。「乱れたりとも」は、伸びすぎて乱れていようとも。娘子は、夫の歌の真意がわからずに単に髪のこととして答えています。その純情さが、さらにいっそう沙弥の心をやきもきさせたらしく、そのようすが次の歌に窺えます。
125の「橘の蔭」について、当時の藤原京では、橘が街路樹のように道ばたに植えられており、道行く人のために木陰を提供し、また美味な果実を実らせていたといいます。上2句は「八衢」を導く序詞。「八衢」は、道が四方八方に分かれているところで、ここでは、あれやこれや思い悩む譬え。この歌は、娘子に向けられたというより、独詠だったかもしれません。詩人の大岡信は、「橘の蔭踏む道の八衢に」という比喩の斬新さが魅力であると評しています。
なお、「沙弥」とは、サンスクリットのシュラーマネラśrāmaneraの音訳で、僧であるものの、剃髪して十戒を受けたのみの修行僧を意味します。正式な戒律を受けた僧を比丘(びく)といい、比丘とは異なり、沙弥の場合は僧形であっても俗人に近い生活が許されていたようです。
巻第4-508
衣手(ころもで)の別(わ)かる今夜(こよひ)ゆ妹(いも)も我(わ)れもいたく恋ひむな逢ふよしをなみ |
【意味】
袖を交わすことがなくなり遠ざかる今夜から、妻も私も互いに強く恋い焦がれることになるだろう。直接会うすべがないので。
【説明】
何らかの事情で、夫婦が遠く別れることになった時に、妻に与えた歌です。「衣手」は袖。「今夜ゆ」の「ゆ」は、~から。「恋ひむな」の「な」は、詠嘆。恋することであろうよ。「逢ふよし」は、逢い見る方法。「なみ」は、無いゆえに。
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巻第3-327
海神(わたつみ)の沖に持ち行きて放(はな)つともうれむぞこれがよみがへりなむ |
【意味】
海の沖に持って行って放してやったとしても、どうして、これが生き返ることがありましょうや。
【説明】
ある娘子たちが、通観法師(伝未詳)に干し鮑(あわび)を包んで贈り、ふざけて祝願を求めた時に、通観が作った歌。「祝願」は、干し鮑が生き返るよう呪文を唱えて祈願すること。「海神」は、海の神、ここでは海。「放つ」は「放生」で、捕らえた生き物を逃がしてやること。「うれむぞこれが」は、どうしてこれが。
娘子たちが持参した鮑は女陰の比喩とされ、女犯を禁じられていた僧を、からかい、挑発しようとする遊び心からのものと見えます。対する通観は、いたって生真面目に答えており、それがかえって諧謔を生んでいます。窪田空穂は、「当時仏教は、皇室の御保護、貴族の信仰によって、社会的には勢力のあるものであり、したがって僧の社会的位地も相応に高いものであった。しかし一般庶民に浸透した力はむしろ浅いもので、ことに年若い女子においては、いっそうであったとみえる」と述べています。
当時は、航海の安全を祈願する際、海神に女陰を見せる呪術があったともいいます。『土佐日記』にもその記述があり、「胎鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に上げて見せける(胎貝の鮨や鮨鮑を、思いもかけぬ脛まで高々とまくり上げて、海神に見せつけた)」と描写されています。ここでも、胎貝や鮨鮑が女陰の比喩になっています。
歌の形式
片歌
5・7・7の3句定型の歌謡。記紀に見られ、奈良時代から雅楽寮・大歌所において、曲節をつけて歌われた。
旋頭歌
5・7・7、5・7・7の6句定型の和歌。もと片歌形式の唱和による問答体から起こり、第3句と第6句がほぼ同句の繰り返しで、口誦性に富む。記紀や万葉集に見られ、万葉後期には衰退した。
長歌
5・7音を3回以上繰り返し、さらに7音の1句を加えて結ぶ長歌形式の和歌。奇数句形式で、ふつうこれに反歌として短歌形式の歌が1首以上添えられているのが完備した形。記紀歌謡にも見られるが、真に完成したのは万葉集においてであり、前期に最も栄えた。
短歌
5・7・5・7・7の5句定型の和歌。万葉集後期以降、和歌の中心的歌体となる。
仏足石歌体
5・7・5・7・7・7の6句形式の和歌。万葉集には1首のみ。
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