巻第2-230~232
230 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて ますらをの さつ矢 手挟(たばさ)み 立ち向ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のひ)と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば 玉鉾(たまほこ)の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留(と)まり 我(わ)れに語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の いでましの 手火(たひ)の光りぞ ここだ照りたる 231 高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 232 御笠山(みかさやま)野辺(のへ)行く道はこきだくも繁(しげ)り荒れたるか久(ひさ)にあらなくに |
【意味】
〈230〉梓弓を手に取り持ち、大丈夫(ますらお)が矢を脇挟んで立ち向かう的(まと)、その名を持つ高円山に、春の野焼きとみまごうばかりに燃える火、「あれは何か」と訊ねたら、道をやって来る人が涙を小雨のように流し、白い着物を濡らしながら、立ち止まって私に語りかけた。「どうしてむやみにお尋ねなさるのです。ただただ心が痛みます。あれは、天皇の神の御子をお送りする松明の火なのです。その火がしきりに照り輝いているのです」。
〈231〉高円の野辺の秋萩は、今はむなしく咲いては散っていくのだろうか。愛でるご主人もいなくて。
〈232〉三笠山の野辺を行く道は、どうしてこんなにもひどく荒れ果ててしまったのか。皇子が薨去されて、まだそんなに月日は経っていないのに。
【説明】
霊亀元年(715年)9月、志貴皇子が亡くなった時に笠金村が作った歌。笠金村は奈良時代中期の歌人で、身分の低い役人だったようです。『万葉集』に45首を残し、そのうち作歌の年次がわかるものは、715年の志貴皇子に対する挽歌から、733年のの「贈入唐使歌」までの前後19年にわたるものです。とくに巻6は天武天皇朝を神代と詠う笠金村の歌を冒頭に据えています。自身の作品を集めたと思われる『笠朝臣金村歌集』の名が万葉集中に見えます。
230の「さつ矢」は、狩猟につかう矢。「梓弓~立ち向かふ」は「高円山」を導く序詞。「高円山」は、奈良市の東南、春日山に連なる山。「玉桙の」は「道」の枕詞。「白栲の」は「衣」の枕詞。「ひづちて」は、濡れて。「もとな」は、わけもなく。231の「秋萩」は、萩は四季を通じてあるため、花を意味させるために「秋」を添えたもの。232の「御笠山(三笠山)」は、奈良市東部の若草山の南側、春日山の西峰をなす山。「こきだく」は、たいそう、はなはだしく。
志貴皇子は二品で薨じたため、令の編目の一つである喪葬令(そうそうりょう)によれば、大規模な鼓吹隊(くすいたい)が随行するものとされ、おそらく千人を超える大葬列だっただろうといわれます。長歌がその夜の野辺の景を歌い、2首の反歌は、皇子が亡くなり、人の気配がなくなった昼の景を歌っています。
この歌は、他の挽歌とはかなり趣きが異なっています。すなわち、挽歌は故人に対して、亡くなったことを悲しみ、その人を忘れまいといって、霊を慰めることを目的とするもので、直接にその霊に訴えるか、あるいは間接にわが心としていうかの抒情的な歌であるのに対し、この歌で扱っているのは、皇子に対する悲しみの範囲のものではあるものの、皇子に訴えるのでもなく、自身の悲しみでもなく、単に他人の悲しみを見聞きしているという間接的なものとなっています。表現もまた、挽歌の方法であるべき抒情ではなく、叙事によっています。反歌に述べるのも、主を失った空しい秋萩の姿であり、文学者の中西進氏は、「このようなドラマを描写するような挽歌は人麻呂の思いおよぼうともしなかった、別世界の詩である」と述べています。
志貴皇子は天智天皇の第7皇子で、天武朝ではすでに成年に達していたとみられ、天武8年(679年)5月に、吉野宮における有力皇子の盟約に参加しています。続く持統朝では不遇であったらしく、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほか要職にはついていません。しかし、志貴皇子の薨去から50年以上を経た宝亀元年(770年)、息子の白壁王(しらかべのおおきみ)が62歳で即位し光仁天皇となったのに伴い、春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)と追尊、また田原天皇とも称されるようになりました。『万葉集』には短歌6首を残し、流麗明快で新鮮な感覚の歌風は高く評価されています。
巻第3-364~365
364 ますらをの弓末(ゆずゑ)振り起(おこ)し射(い)つる矢を後(のち)見む人は語り継(つ)ぐがね 365 塩津山(しほつやま)打ち越え行けば我(あ)が乗れる馬ぞつまづく家(いへ)恋ふらしも |
【意味】
〈364〉立派な男子たる私が弓の先端を振り起こして射かけた矢、その矢の見事さは後の世の人が語り継いでいくだろう。
〈365〉塩津山を越えていくとき、私の乗っている馬がつまづいた。家で妻が私を恋しがっているからだろう。
【説明】
笠金村が塩津山で作った歌。「塩津山」は、琵琶湖北端の地、長浜市西浅井町塩津浜から敦賀に越えて行く塩津越えの山。越前から運ばれてきた塩をここから都に湖上輸送したことから「塩津」と呼ばれました。
364について、この時代、旅行で深い山などを通る際に安全を願って峠の神木に矢を射る風習があり、そのことを歌っているとみられます。「語り継ぐがね」の「がね」は、願望の終助詞。365について、馬がつまずくのは、家の人が自分を恋しく思っている証しとされていました。
巻第3-366~367
366 越(こし)の海の 角鹿(つのが)の浜ゆ 大船(おほぶね)に 真梶(まかぢ)貫(ぬ)き下ろし 鯨魚(いさな)取り 海路(うみぢ)に出(い)でて 喘(あへ)きつつ 我(わ)が漕(こ)ぎ行けば ますらをの 手結(たゆひ)が浦に 海人娘子(あまをとめ) 塩(しほ)焼く煙(けぶり) 草枕(くさまくら) 旅にしあれば ひとりして 見る験(しるし)なみ 海神(わたつみ)の 手に巻かしたる 玉たすき 懸(か)けて偲(しの)ひつ 大和島根(やまとしまね)を 367 越(こし)の海の手結(たゆひ)が浦を旅にして見れば羨(とも)しみ大和 偲(しの)ひつ |
【意味】
〈366〉越の海の敦賀の浜から大船の舷(ふなばた)に艪(ろ)をたくさん取り付けて、海に乗り出して喘ぎながら漕いでいくと、立派な男子を思わせる手結(たゆい)の海岸で、海人娘子たちが藻塩を焼く煙が立っているのが見える。旅の途上でひとり見ても甲斐がないので、海の神が手に巻いて持っておられる玉という名をもった玉たすきを懸けるように、心にかけて共に見たいと思った、故郷の大和の国を。
〈367〉越の海の手結が浦を、旅にあって一人見ていると、もったいないほどの絶景に惹かれ、愛しい人のいる大和を思い慕った。
【説明】
笠金村が、角鹿(敦賀」の港で船に乗った時に作った歌。366の「越」は、越前から越後にかけての地。「真楫」の「真」は接頭語、「楫」は艪。「鯨魚取り」は「海」の枕詞。「ますらをの」は「手結」の枕詞。「手結」は、弓を射る時に手に巻く物。「手結が浦」は、敦賀湾の東岸。「草枕」は「旅」の枕詞。「験なみ」は、甲斐がないので。「海神の手に巻かしたる」は「玉」を導く序詞。「玉たすき」は「懸く」の枕詞。「大和島根」は、大和国の意。367の「羨し」は、珍しく愛すべきという意。
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